第十二話 フィオレの新しい香り
王都の令嬢が帰った後も、私の心には、彼女との対話の余韻が残り続けていた。
『消してしまえば、後戻りはできません』
自分がそう口にしたとき、初めて、この店のあり方について、明確な違和感を覚えていた。あの言葉は、依頼人への忠告であると同時に、私自身の胸の内に、ずっと燻っていた本音でもあったのだと、私は今更ながら気づき始めていた。
忘却香水店フィオレは、これまで「忘れるための店」として、依頼人たちの痛みを取り除くことに専念してきた。けれど、エマの涙、ルーカスの言葉、そして王都の令嬢との対話を経て、私の中には、別の可能性が芽生え始めていた。
痛みを消すのではなく、痛みと共存する方法を、香りで支えることはできないだろうか。
その考えが浮かんだ瞬間、胸の奥に、これまで感じたことのない、確かな高揚が広がっていくのを感じた。
☆
その夜、私は祖母の調香書を再び開き、これまで読み飛ばしていたページを丁寧にめくり直した。ランプの灯りの下、祖母の几帳面な字が、これまでとは違う輝きを持って、私の目に映った。
そこには、忘却香とは異なる、様々な調合技法が記されていた。
眠りを深める香。不安を鎮める香。勇気を呼び覚ます香。
祖母は、記憶を消すためだけでなく、人の心を穏やかに支えるための技法を数多く研究していたらしい。ページの余白には、祖母自身が試した際の、細やかな所感までもが書き添えられていた。
私は、その記述の一つ一つに、夢中で目を通した。窓の外が白み始めていることにも、しばらく気づかないほどだった。
☆
翌日から、私は新しい調合の試作を始めた。
最初に取り組んだのは、「眠れない夜を穏やかにする香」だった。
カモミールとラベンダーを基調に、祖母の記した特殊な薬草を加える。乳鉢の中で葉が擦れ合うたび、爽やかな緑の香りが、作業台の周りに穏やかに立ち込めていった。
完成した香水を試しに自分で使ってみると、確かに心が凪いでいくような感覚があった。まぶたが自然と重くなり、体の芯から、ゆっくりと力が抜けていく。
これなら、辛い記憶に眠りを妨げられている人々の助けになるかもしれない。
次に取り組んだのは、「勇気を出したいときに使う香」だった。
シナモンと柑橘系の香りを組み合わせ、体の芯から力が湧いてくるような調合を目指す。何度も配合を調整し、ようやく満足のいくものが完成した。試しに手首につけてみると、鼻先を刺激する温かな香りに、自然と背筋が伸びるような気がした。
そして、最も難しかったのが、「大切な記憶を鮮明にする香」だった。
これは、忘却香とは正反対の効果を持つものだった。記憶を薄れさせるのではなく、むしろ、その輪郭をはっきりとさせる。祖母の記述を頼りに、試行錯誤を重ねる日々が続いた。何度も配合を失敗しては、乳鉢を洗い、また一から材料を吟味する。その根気のいる作業の一つ一つに、私はかえって、確かな充実感を覚えていた。
「へえ、また新しい香水を作ってるの?」
ミレイユが、作業台に並んだ試作品の瓶を、興味深そうに覗き込んだ。
「はい。忘れるためだけではなく、心を支えるための香りを、色々と試しているんです」
「いいじゃない。それ」
ミレイユは、瓶の一つを手に取り、鼻先に近づけた。
「この、勇気が出るっていう香水、わたしにも一つちょうだいよ。仕立て屋の仕事で、大きな注文が来て、緊張してるの」
私は思わず微笑んだ。彼女のその気安さが、いつもながら、私の胸を軽くしてくれる。
「もちろんです」
店の客層も、少しずつ変化し始めていた。
これまでは「忘れたい記憶」を抱えた人々ばかりが訪れていたが、新しい香りの評判が広まるにつれ、様々な悩みを抱えた人々が店を訪れるようになった。
「明日、大事な商談があるんです。緊張しすぎて、眠れなくて」
「最近、眠りが浅くて。悪い夢ばかり見るんです」
彼らは、記憶を消してほしいのではなく、今の自分の心を、少しでも穏やかに整えたいと願う人々だった。その表情には、これまでの依頼人たちが見せていたような、切迫した苦しみとは、また違う種類の疲労が滲んでいた。
私は、一人一人の話を丁寧に聞きながら、それぞれに合った香りを調合していった。カウンターに座る依頼人たちの、緊張した肩が、話をするうちに、少しずつ下がっていく様子を見るたび、私は小さな喜びを感じていた。
「忘れる店」から、「心を整える店」へ。
その変化を、私は自分自身の手で、少しずつ形にしていった。
ルーカスは、その変化を、誰よりも喜んでくれた。
「これは、いい」
彼は、店の棚に並んだ新しい瓶を眺めながら、珍しく、はっきりとそう口にした。琥珀色や淡緑色に輝く瓶を、一つ一つ、丁寧な手つきで手に取っては、光にかざしていた。
「以前のお前の店は、正直、少し危うさを感じていた。痛みを消すことだけに、突き進んでいるようで」
「そうでしたね。私自身、そのことに気づいていませんでした」
「今は、違う。お前は、人の心に寄り添う方法を、いくつも持っている」
その言葉に、私は、じんわりと胸が温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない。俺は、思ったことを言っただけだ」
素っ気ない口調だったが、その目には、確かな温かさが宿っていた。窓から差し込む夕暮れの光が、彼の深緑色の瞳に静かに反射していた。
この頃から、ルーカスが店を訪れる頻度は、以前にも増して多くなっていた。
「監督だ」という言い訳も、いつしか口にしなくなっていた。彼は、ただ自然に、店に立ち寄るようになっていた。まるで、それが当たり前の日課であるかのように。
ある夕暮れ、店の片付けを手伝いながら、ルーカスがぽつりと言った。
「お前と話していると、なぜか、落ち着く」
その言葉に、私は思わず、手を止めた。棚に瓶を並べていた指先が、宙で止まったまま、しばらく動かなかった。
「私もです」
自分の口から、素直にそう答えが出てきたことに、私自身、少し驚いていた。
以前の私であれば、こんな風に自分の気持ちを、簡単には口にできなかっただろう。侯爵夫人になるために自分を律してきた五年間、感情を言葉にすることは、常に慎重を要する所作だった。けれど、ルーカスの前では、不思議と、素直な言葉が出てくる。
二人の間に流れる空気は、以前よりも確かに柔らかいものになっていた。
言葉を交わさずとも、店の片付けを一緒にする時間が心地よく感じられる。棚を拭く音、瓶の擦れる音、そのどちらもが、二人の間の静かな時間を紡いでいた。
ふとした瞬間に目が合うと、どちらからともなく、小さく微笑み合う。
その一つ一つの積み重ねが、私の胸の奥に、確かな温かさを蓄積させていった。
あの夜、テオドールから聞いた「感受性が鈍くなっているかもしれない」という話は、今も私の中に、小さな不安として残っていた。時折、ふとした瞬間に、その不安が胸の奥から顔を覗かせることがあった。
けれど、ルーカスと過ごすこの時間だけは、その不安を忘れさせてくれるほど、確かな実感を伴っていた。彼の隣にいるときだけは、自分の感情が確かにここに存在しているのだと、素直に信じることができた。
これが恋なのかどうか、私にはまだ、はっきりとした確信が持てない。
けれど、この温かさが、偽りのものではないということだけは、確かに感じ取れていた。
☆
ある日の午後、店の作業を終えた私は、窓辺に腰掛け、完成したばかりの新しい香水瓶を眺めていた。
「大切な記憶を鮮明にする香」――ようやく満足のいく配合が完成し、小さなラベルを貼ったところだった。何日も何日も、失敗を重ねた末に、ようやく辿り着いた配合だった。
この香りを、誰かのために使う日が来るだろうか。
そんなことを考えながら、私は瓶を光にかざした。
琥珀色の液体が、午後の光を受けて、柔らかく輝いている。窓の外では、通りを歩く人々の穏やかな話し声が、遠くから聞こえてきた。
その時、遠くから、馬車の車輪の音が聞こえてきた。
普段、この静かな通りには聞き慣れない、豪華な音だった。石畳を叩く蹄の音の重々しさが、いつもの馬車とは、明らかに違っていた。
私は窓の外に目を向けた。
通りの向こうから、王都の紋章を掲げた、立派な馬車が、ゆっくりと近づいてくる。
町の人々が、驚いたような顔で、その馬車を見つめていた。こんな辺境の港町に、これほど豪奢な馬車が訪れることは、滅多にないことなのだろう。井戸端で立ち話をしていた女性たちも手を止め、その行方を目で追っていた。
私は瓶を持つ手を止め、その馬車を、じっと見つめた。
胸の奥に、言いようのない予感が広がっていく。理由の分からない緊張が、指先にまで及んでいくのが、自分でも分かった。
馬車は、まっすぐに、私の店の前で止まった。
扉が開き、一人の男性が、ゆっくりと降り立った。
見覚えのある、整った顔立ち。かつて、五年間を共に過ごした人物。
私は、思わず息を呑んだ。
手にしていた瓶を、危うく取り落としそうになった。
アルベルト様が、そこに立っていた。




