第十三話 元婚約者との再会
馬車の扉が完全に開き、アルベルト様が石畳の上に降り立った。
王都で最後に見たときと、装いはほとんど変わっていない。仕立ての良い上着、丁寧に整えられた金褐色の髪。
けれど、灰青色の瞳の下には、以前にはなかった薄い疲労の影が落ちていた。
周囲を歩いていた町の人々が、その豪奢な出で立ちに、遠巻きに視線を向けている。エマの父が営む花屋の店先で、通りすがりの女性たちが、何やらひそひそと囁き合っているのが見えた。
私は、窓辺から立ち上がり、店の扉の前に立った。
胸の内を探ってみる。
動揺はあるだろうか。懐かしさは。あるいは、怒りは。
けれど、そこにあったのは、驚くほど静かな凪だった。心臓の鼓動さえ、いつもと変わらぬ速さを保っている。かつて、彼の姿を目にするだけで胸が高鳴っていたあの日々を思うと、この静けさは、まるで別人の心のようだった。
扉を開けると、アルベルト様は私の姿を見て、一瞬、言葉を失ったような表情を見せた。
「セレナ……」
「お久しぶりです、アルベルト様」
私は、努めて穏やかに、頭を下げた。
その所作は、五年間、侯爵家で培った礼儀作法そのものだった。けれど、その丁寧さの奥に、以前のような緊張や、彼を前にしたときの高揚は、一切なかった。
「まさか、こんな辺境の町で、こうして店を構えているとは……」
アルベルト様は、店の看板を見上げ、それから、店内に視線を巡らせた。彼の視線が、棚に並んだ色とりどりの瓶を、一つ一つ丁寧に辿っていく。
「《忘却香水店フィオレ》。噂には聞いていたが、まさか、君の店だったとは」
「噂、ですか」
「ああ。王都でも、少しずつ話題になっている。辺境の港町に、不思議な香水を扱う店があると」
アルベルト様はそう言いながら、改めて店の中を見回した。
棚に並ぶ色とりどりの瓶。作業台に置かれた乳鉢。乾燥させた薬草を吊るした壁。
その視線が、やがて私の手元で止まった。
調香の途中だったため、私の指先には、まだ僅かに薬草の色が残っていた。
「……君は、本当に調香師になったんだな」
「はい」
私は自然に頷いた。
「まだ、祖母には遠く及びませんけれど」
「そうか」
アルベルト様は、それだけ答えた。
けれど、すぐには次の言葉を続けなかった。
彼の視線が、もう一度、棚の香水瓶へ向かう。
「……そんな顔をする人だったんだな」
「え?」
思いがけない言葉に、私は首を傾げた。
アルベルト様は、少し言いにくそうに視線を逸らした。
「いや。店のことを話しているときの君は……楽しそうだったから」
私は、自分でも気づかないうちに笑っていたらしい。
「そうでしょうか」
「ああ」
短く答えてから、アルベルト様は僅かに眉を寄せた。
「五年も一緒にいたのに、私は、君がそんなふうに笑うことを知らなかった」
その声には、責める響きも、未練がましさもなかった。
ただ、自分自身に向けられたような、静かな戸惑いだけがあった。
私は少し考えてから答えた。
「私自身も、最近になって知りました」
アルベルト様が、ゆっくりと私を見る。
「自分が何をしているときに楽しいのか。何を選びたいのか。以前は、あまり考えたことがありませんでしたから」
「……そうか」
彼はまた、同じ言葉を繰り返した。
けれど今度の声には、ほんの僅かに、後悔のようなものが混じっているように聞こえた。
「立ち話も何ですから、どうぞ、中へ」
私はアルベルト様を店の中へ招き入れた。
カウンターの椅子を勧めると、彼は少し戸惑ったように腰を下ろした。かつての侯爵家嫡男が、こんな小さな田舎の店で椅子に座る姿は、どこか奇妙な取り合わせに見えた。木製の質素な椅子に、上質な衣服が不釣り合いに映る。
「お茶をお淹れします」
「いや、それには及ばない」
アルベルト様は、私を制した。
「今日は、少し込み入った話があって来た」
「そうですか」
私は彼の向かいに立ち、冷静に次の言葉を待った。夕暮れ前の柔らかな光が、二人の間に長い影を落としていた。
アルベルト様はしばらく私の顔を、探るように見つめていた。その視線には、かつての婚約者としての親しみと、今は他人となった距離感とが、複雑に入り混じっているように見えた。
「セレナ、率直に聞きたい。……本当に、私を何とも思っていないのか」
その問いに、私は少し驚いた。まさか、そんなことを聞かれるとは、思っていなかった。
けれど、答えに迷うことはなかった。
「ええ。そういう香水を作りましたから」
私は穏やかに、けれどはっきりと答えた。
アルベルト様の表情が、目に見えて強張った。
「……香水?」
「私は、あなたへの気持ちを、自分自身の手で封じました。忘却香という、記憶に結びついた感情だけを取り除く技法を使って」
私は、淡々と説明を続けた。
「今も、あなたとの五年間のことは、すべて覚えています。ですが、それに触れても、もう心は動きません」
アルベルト様は、しばらく言葉を失っていた。
その顔には、驚愕と、どこか複雑な感情が入り混じっているように見えた。かつて自分が捨てた相手が、自分の存在をこれほどまでに冷静に語る姿に、彼自身、戸惑いを隠せずにいるようだった。
「そんな魔法が、本当に存在するのか」
「存在します。私自身が、その証拠です」
私は自分の手首に、そっと視線を落とした。あの夜の記憶が蘇る。深夜の温室、震える指先、そして翌朝の、あの奇妙な静けさ。
「婚約破棄を告げられたあの夜、私は祖母の調香書に記された、禁忌に近い技法を使いました。あなたへの愛情という、たった一つの感情だけを、切り離すために」
アルベルト様は椅子に座ったまま、深く息を吐いた。
「……それほどまでに、私との婚約が、君を苦しめていたということか」
その言葉には、初めて、ある種の実感が込められているように聞こえた。彼の声に滲む、僅かな後悔の色を私は冷静に聞き取っていた。
「苦しめていたのは、あなたそのものではありません」
私はゆっくりと首を振った。
「五年間、私はあなたの妻になるために、自分の人生を捧げてきました。その全てが、たった一言で否定されたように感じたことが、耐えられなかったのです」
「……そうか」
アルベルト様は、それ以上、その話題を続けなかった。彼の視線が、一瞬、床に落ちた。
しばらくの沈黙の後、彼は、話の方向を変えた。窓の外を、漁を終えた男たちの声が、通り過ぎていった。
「セレナ、実は、今日ここに来たのは、その忘却香についての話があってのことだ」
私は、少し身構えた。彼のこれまでの穏やかな口調とは違う、何か切迫した響きを、その声の中に感じ取った。
「王都の貴族たちの間で、フィオレの噂が、単なる話題以上のものになりつつある」
アルベルト様の声が、これまでよりも真剣な響きを帯びた。
「記憶に結びついた感情を、自在に封じることができる技法。それがどういう意味を持つか、君は理解しているか」
「どういう、意味でしょうか?」
「政治の道具になり得る、ということだ」
その言葉に、店の中の空気が一気に張り詰めたものになった。壁に掛けられた古時計の音だけが、やけに大きく響いていた。
「敵対する者の忠誠心を消し去ることができれば、寝返らせることも容易になる。裏切りの記憶を消せば、都合の悪い証言を封じることもできる。愛人への未練を断ち切らせれば、政略結婚をより確実なものにすることもできる」
アルベルト様は、一つ一つ、具体的な例を挙げていった。その一言一言が、鋭い刃のように、私の中に突き刺さっていく。
「もし忘却香が、そういった目的のために悪用されれば、それは恐ろしい武器になり得る」
私は、言葉を失った。
これまで、私は忘却香を、あくまで個人の痛みを和らげるための技法だと考えてきた。けれど、アルベルト様の言葉を聞き、その技法が持つ、もう一つの顔――暗い可能性に、私は初めて、明確な形で向き合わされた。背筋に、冷たいものがじわりと這い上がってくるのを感じた。
「王都では、この技術を放置しておくべきではないという声が、日に日に強まっている」
アルベルト様は、まっすぐに私を見つめた。
「セレナ。この技術は、侯爵家が管理すべきだ」
その一言に、私ははっとした。
「管理、ですか」
「そうだ。君一人がこの技法を持ち続けることは、あまりにも危険だ。もし悪意ある者の手に渡れば、取り返しのつかないことになる。侯爵家の名の下で、適切に管理し、制御された形で運用するべきだ」
私はしばらく、アルベルト様の顔を見つめていた。
彼の言葉には、確かに一理あるように聞こえた。忘却香が持つ危険性については、私自身、既に薄々感じ始めていたことでもあった。荒らされた店の棚がまだ元通りになっていない今、その危うさは、決して他人事ではなかった。
けれど――。
その言葉の奥に潜む、ある種の前提に、私は違和感を覚え始めていた。何かが、決定的にずれている。その正体が何なのか、私はまだ、はっきりとは言葉にできずにいた。
「その場合、私は、どうなるのでしょうか」
私が尋ねると、アルベルト様は、少し驚いたような表情を見せた。
「もちろん、君には、しかるべき待遇が用意される。王都に戻り、侯爵家の庇護のもとで、技術の指導にあたってもらうことになるだろう」
「王都に、戻る……」
私はその言葉を、ゆっくりと反芻した。かつて、当たり前のように過ごしていた王都の日々が、今は、遠い異国の景色のように感じられた。
「セレナ、これは、君のためでもあるんだ」
アルベルト様は、身を乗り出すようにして言った。
「こんな辺境の町で、一人で小さな店をやっているより、王都で、君の才能を正しく活かせる場所にいる方が、ずっと良いはずだ」
その言葉を聞きながら、私は、胸の奥に、小さな違和感が広がっていくのを感じていた。
この言い方には、覚えがある。
五年前、調香師になりたいと打ち明けたときの、あの言葉と、どこか似た響きがある。「趣味としてはいい」と言ったときの、あの穏やかで、それでいて有無を言わせない口調と。
窓の外では、夕暮れの光が、少しずつ橙色を深めていた。港の方から、漁師たちの声が、遠くかすかに聞こえてくる。
その光の中で、私はこれから自分が何を答えるべきなのかを考え始めていた。




