第十四話 あなたは何も変わっていない
アルベルト様の言葉は、なおも続いていた。
「セレナ、店を畳んで、王都へ戻ってくればいい」
彼は、まるで既に決まったことのように、話を進めていく。その口調には、迷いのかけらもなかった。
「侯爵家なら、君の才能を正しく評価できる。こんな小さな田舎町で、一人で細々と商売を続けるより、ずっと大きな舞台で、君の力を発揮できるはずだ」
私は黙って、その言葉を聞いていた。窓の外では、夕暮れの光が少しずつ濃さを増していく。カウンターの木目を見つめながら、私は彼の言葉の一つ一つを冷静に受け止めていた。
「忘却香の研究にも、じゅうぶんな資金と人材を用意しよう。君は、専属の研究室を持つことになる。もちろん、生活の面でも、何一つ不自由はさせない」
アルベルト様の口調には、確かな善意が滲んでいた。
彼は本気で、これが私にとって最善の道だと信じている。それは、間違いないだろう。その瞳の奥には、打算や悪意ではなく、確かな親切心が宿っているように見えた。
「君のためを、思って言っているんだ」
その一言が、店の静けさの中に、はっきりと響いた。
その瞬間、私の中で、何かが繋がった。まるで、長い間ばらばらだった記憶の断片が、一つの形を成していくような感覚だった。
五年前。
私が調香師になりたいと言ったとき、アルベルト様は、こう言った。
「趣味としてはいいと思う。だが、結婚後は、侯爵夫人としての務めに専念してほしい」
あのときも、彼は悪意なく、そう言った。私のためを思って、と。
あの日、庭園のベンチに並んで座り、彼にそう告げられたときの、胸の奥にじわりと広がった諦めの感覚を、私は今、はっきりと思い出していた。あのときは、それが仕方のないことだと、自分に言い聞かせるしかなかった。
私が何を望んでいるかではなく、彼が思う「私にとっての最善」を、一方的に示してきた。
それは今も、まったく変わっていない。
不思議だった。
五年前の私は、彼の言葉を「正しいもの」として受け入れるしかなかった。
けれど今は、その言葉の何が間違っているのかを、私の方がはっきりと分かっていた。
「アルベルト様」
私は冷静に口を開いた。
「一つ、お聞きしたいことがあります」
「何だ」
「あなたは、私が今、何を望んでいるか、一度でもお聞きになりましたか」
その問いに、アルベルト様は一瞬、虚を突かれたような表情を見せた。彼の視線が、僅かに宙をさまよった。
「……何を、望んでいる、とは」
「王都に戻りたいかどうか。侯爵家の庇護のもとで、研究を続けたいかどうか。この店を、畳みたいと思っているかどうか」
私は一つ一つ、丁寧に言葉を並べた。声は穏やかだったが、その一言一言には、これまでの私にはなかった、確かな重みがあった。
「あなたは、それらすべてを、私に確認する前に、既に決めていらっしゃいます。それが、私にとって最善だと、あなたご自身が、判断した上で」
アルベルト様は、言葉に詰まった様子だった。
「それは……君のためを思えば、当然の判断だと思うが」
「五年前も、そう仰いました」
私は、まっすぐに彼を見つめた。窓から差し込む夕暮れの光が、二人の間に、長い影を落としていた。
「調香師になりたいという、私の望みを、あなたは『趣味程度なら構わない』と、判断されました。私自身がどう思っているかより、あなたにとって都合の良い形に、私を当てはめようとされました」
アルベルト様の顔に、初めて、明確な動揺の色が浮かんだ。
「そんなつもりは……」
「つもりがなくても、結果は同じです」
私は穏やかに、けれど、はっきりと言葉を続けた。
「あなたは、私が何を望んでいるかを、一度も、真剣に聞いてくださったことがありません」
その言葉を口にした瞬間、私は自分の中に、確かな解放感が広がっていくのを感じた。
これまで、ずっと胸の奥に、うっすらと燻っていた違和感。それが、初めて明確な言葉となって表に出た。
アルベルト様は、しばらく何も言えずにいた。カウンターの向こうで、彼の指先が無意識に上着の袖口を幾度も撫でていた。
彼の目には、困惑と、初めて向き合わされた事実への戸惑いが浮かんでいた。
「……セレナ」
彼は、ようやく、絞り出すように言った。
「私は、本当に、君のためを思って」
「分かっています。あなたに悪意がないことは、よく分かっています」
私はゆっくりと首を振った。
「けれど、悪意がないことと、正しいことは、同じではありません」
その言葉に、アルベルト様は答えられずにいた。彼の視線が、居場所を探すように、店内をさまよっていた。
店の中に、重い沈黙が流れた。壁に掛けられた古時計の秒針の音だけが、やけにはっきりと聞こえていた。
窓の外では、夕暮れの光が、少しずつ薄れつつあった。橙色から、深い藍色へと、空の色が移り変わっていく。
私は、深く息を吸い込んだ。潮の匂いを含んだ夕暮れの空気が、肺の奥まで満ちていく。
心臓が鼓動を早く刻んでいた。
「アルベルト様」
私は、まっすぐに彼を見据えた。
「いいえ、アルベルト。私は王都には戻りません」
初めて、彼を、敬称なしで呼んだ。
その響きが、店の静けさの中に、はっきりと落ちた。
アルベルト様の表情が、大きく揺れた。
「セレナ、今、私を……」
「はい。呼び捨てにいたしました」
私は、確かな声で続けた。
「もう、あなたを、婚約者として敬う必要はありません。それに――」
私は一度、言葉を切った。窓の外の潮風が、店の扉の隙間から、僅かに吹き込んでくるのを感じた。
「私は、この店で、自分の意思で、自分の人生を歩んでいます。忘却香についても、それを侯爵家の管理下に置くかどうかは、私自身が決めることです」
「セレナ、しかし、この技術の危険性を考えれば」
「危険性については、私自身が、既に理解し、向き合い始めています」
私は、きっぱりと言った。あの荒らされた棚の記憶が、脳裏を一瞬よぎったが、私はそれを、そっと脇に置いた。
「必要な対策は、私自身の手で、講じます。あなた方に、決めていただく必要はありません」
アルベルト様は、しばらく言葉を失っていた。
やがて、深く息を吐き、椅子から立ち上がった。木製の椅子が、僅かに軋んだ音を立てた。
「……君は、変わったな」
その一言には、驚きと、どこか複雑な感情が滲んでいた。
「変わったのではありません。ようやく、自分自身に戻っただけです」
その言葉に、アルベルト様は、しばらく私を見つめていた。彼の視線には、これまで見たことのない、何か静かな敬意のようなものが、浮かんでいるように見えた。
やがて、彼は、小さく頷いた。
「……分かった。今日のところは、これで失礼する」
「はい」
「だが、この件については、また改めて話をさせてもらう。王都の情勢も、放っておけるものではない」
「承知しております」
アルベルト様は、店の扉に向かって歩き出した。彼の背中に、これまでとは違う、何か確かな覚悟のようなものが、滲んでいるように見えた。
扉の前で、彼は一度、振り返った。
「セレナ」
「はい」
「……幸せに、なってくれ」
その一言を残し、彼は店を後にした。
馬車の車輪の音が、次第に遠ざかっていく。石畳を踏む蹄の音が、夕闇の中に溶けていった。
私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
胸の内には、忘却香によるものとは違う、確かな静けさが広がっていた。
今度の静けさは、感情を失ったからではない。
自分自身の意思で、自分の道を選んだからこそ得られたものだった。
窓の外では、夜の帳が港町を包み始めていた。遠くから、漁師たちの帰りを迎える家々の灯りが一つ、また一つと、灯り始めている。
私は棚に並んだ香水瓶を見つめた。
忘却香を巡る危険は、もう目を逸らせるものではなかった。




