第十五話 忘却香を狙う者
アルベルト様が去ってから、数日が過ぎた。
王都からの馬車の音は、それきり聞こえてこなかったが、私の中には、彼が残していった言葉の余韻が残り続けていた。
記憶操作。忠誠心の除去。政治的秘密の消去。
忘却香が持つ、もう一つの顔。
それを私はこれまで、あまりにも軽く考えていたのかもしれない。夜、店の灯りを消す前、棚に並んだ瓶を見つめるたび、その一つ一つに、これまで気づかなかった重みが宿っているように感じられるようになっていた。
依頼人たちの痛みを和らげることばかりに気を取られ、この技法そのものが持つ、根源的な危険性に、正面から向き合ってこなかった。
☆
その夜、店を閉め、二階の自室で休んでいた私は、階下から、かすかな物音を聞いた。
木の軋む音。
最初は、風のせいかと思った。港町の古い建物は、夜になると、あちこちで軋みを上げるものだ。けれど、しばらくして、また同じ音が聞こえてきた。今度は、明らかに、人の重みを感じさせる音だった。
私は息を潜めて、ベッドから起き上がった。心臓が、早鐘のように打ち始めていた。
階段の下、店の方から、かすかな灯りが漏れているのが見えた。
誰かが、店の中にいる。
喉の奥が、からからに乾いていく。
私は、足音を立てないよう、慎重に階段を降りた。木の階段が軋まないよう、一段一段、体重を慎重に移していく。
店の扉の隙間から、中を覗き込む。
黒っぽい外套を纏った、二人組の人影が、棚を漁っているのが見えた。彼らの手には、小さなランプが握られている。その灯りに照らされ、荒々しく引っ掻き回された棚の様子が、薄闇の中に浮かび上がっていた。
「……ここには、ないな」
「奥だ。奥の作業台を探せ。調香書があるはずだ」
その言葉に、私ははっとした。
祖母の調香書。
彼らの狙いは、それだった。血の気が、一気に引いていくのを感じた。
私は一瞬、どうすべきか迷った。一人で立ち向かうには、あまりにも危険だ。相手の体格や、腰に下げたものの気配からして、素人ではないことは、すぐに分かった。けれど、このまま調香書を奪われるわけにはいかない。
私はこっそりと裏口から外へ出た。冷たい夜気が、寝間着姿の肌を鋭く刺した。
夜の町は、しんと静まり返っている。人気のない石畳を、私は裸足のまま駆け出した。足の裏に、石の冷たさと硬さが痛いほど伝わってくる。
私は記憶を頼りに、最も近いルーカスの住まいへと急いだ。
「ルーカス様! 起きてください!」
扉を叩くと、すぐに、中から物音がした。
程なくして、寝間着の上に外套を羽織ったルーカスが、扉を開けた。
「セレナ? こんな時間に、何があった」
彼の目には、まだ眠りの残滓が僅かに見えたが、私の様子を目にした瞬間、その表情は、瞬く間に鋭いものへと変わった。
「店に、何者かが……! 調香書を、狙っているようです」
私が息を切らしながら告げると、ルーカスは短く頷いた。
「分かった。すぐに行く」
彼は、部屋の奥から剣を取り出すと、私と共に店へ向かって走り出した。夜の石畳を蹴る足音が、静寂の中に鋭く響いていた。
店に着いたとき、既に、侵入者たちの気配は消えていた。
扉は力ずくで開けられた形跡があり、店内は棚の中身が乱雑に荒らされていた。
私は震える足で作業台へと向かった。ランプの灯りに照らされた店内は、これまで丁寧に積み重ねてきたものが、一瞬で踏みにじられたかのような痛々しい姿を晒していた。
祖母の調香書が置かれていた場所――そこは、空になっていた。
「……ない」
私は呆然と呟いた。
指先が、その空虚な場所を何度も撫でる。
頭に浮かんだのは、忘却香の調合法ではなかった。
薬草の名前を一つ書き間違えて、あとから小さく線を引いて直していた頁。
余白に、「雨の日は香りが重くなる」と、少し斜めになった字で書き足されていた一文。
幼い私にも分かるようにと、花の形を横に描いてくれていた頁。
どれも、調香師にとって特別な知識というほどのものではない。
けれど、その字を見れば、私は祖母がそこにいるような気がしていた。
ページをめくるたびに、声を思い出せた。
指先で文字をなぞれば、幼い頃に頭を撫でてもらった手の温もりまで、かすかに蘇るような気がしていた。
祖母が亡くなったとき、私はもう二度と会えないのだと思った。
それでも、あの本だけは残った。
だから、完全に失ったわけではないと、どこかで思っていたのかもしれない。
けれど今。
その最後の一つまで、奪われてしまった。
「お祖母様……」
声にした瞬間、胸の奥が鋭く痛んだ。
忘却香の技法を盗まれたことへの恐怖より先に、私は、祖母をもう一度失ったような気持ちになっていた。
「持ち去られた、ということか」
ルーカスが、険しい表情で店内を見回した。
私はその場に崩れ落ちるように座り込んだ。膝から、力が抜けていくのを感じた。
祖母が生涯をかけて記した、大切な調香書。忘却香だけでなく、様々な技法が記された、あの本が、奪われてしまった。祖母の几帳面な文字を、もう二度と辿ることができないのかもしれない――そう思うと、胸の奥が、鋭く締めつけられた。
「まさか、こんなに早く……」
私は、自分の甘さを痛感していた。
アルベルト様が忘却香の危険性を告げに来たとき、私は、まだどこか他人事のように、その話を聞いていた。頭では理解していたつもりでも、心のどこかで、それを遠い出来事のように捉えていたのかもしれない。けれど現実は、想像以上に早く私のもとに牙を剥いていた。
「セレナ」
ルーカスが、私の傍らに膝をついた。
「怪我はないか」
「はい……私は、大丈夫です」
私は震える声で答えた。冷たい床の感触が、座り込んだ体に、じわりと伝わってくる。
「ですが、調香書が……」
「奪われたのは、事実だ。だが、まずは、お前が無事だったことが、何よりだ」
ルーカスの声には、確かな心配が滲んでいた。彼の手が、私の肩に、そっと添えられた。その温かさに、私はようやく、少しだけ落ち着きを取り戻すことができた。
☆
翌朝、ルーカスと店の前で話していると、町の入り口を守る門番が訪ねてきた。門番から、夜のうちに、見知らぬ馬車が町を出て行くのを見たという証言が得られた。
「王都の方角へ、向かっていったようです」
その報告を受けたルーカスは、険しい表情を浮かべた。
「おそらく、アルベルトの周辺にいる、誰かの差し金だろう」
「アルベルト様が、指示したということでしょうか」
「断定はできない。だが、彼が忘却香の話を持ち出した直後に、こういう事態が起きたことは、偶然とは思えない」
私は深く息を吐いた。朝の潮風が、いつもより重く、冷たく感じられた。
アルベルト様自身が、直接指示を出したとは思いたくなかった。彼の去り際の言葉には、確かな誠実さが滲んでいたはずだった。けれど、彼が「王都で管理すべきだ」と口にしたことが、周囲の誰かを動かすきっかけになった可能性は、否定できなかった。
その日、店を臨時休業にした私は一人で、荒らされた棚の片付けをしていた。
空になった作業台を見つめながら、私はこれまでの自分の判断を、改めて振り返っていた。散乱した瓶の破片を、一つ一つ丁寧に拾い集めていく作業は、まるで自分自身の甘さの残骸を拾い集めているようにも感じられた。
忘却香水店フィオレを開いたとき、私は苦しむ人々を救いたいという、純粋な思いだけを抱いていた。
けれど、その技法が持つ危険性について、私はあまりにも無防備だった。
商品として、気軽に扱ってしまった。その結果が今、この荒らされた店の姿になって、私の前に突きつけられている。
「私は、救うつもりで、危険なものを広めていたのかもしれません」
私は片付けの手を止め、そう呟いた。
その言葉には、深い後悔が滲んでいた。
もっと早く、この技法の重みに気づいていれば。もっと慎重に、扱うべきだったのではないか。
様々な「もし」が、頭の中を巡っていた。窓の外の穏やかな日常の光景が、今の私には、ひどく遠いもののように感じられた。
☆
その日の夕方、ルーカスが店を訪れた。彼は荒らされたままの棚を見回した。
「片付けは、進んでいるか」
「少しずつ……ですが」
私は力なく答えた。
「ルーカス様」
「何だ」
「私は、大きな過ちを犯していたのかもしれません」
私はこれまで胸の内に溜め込んでいた思いを、冷静に吐き出した。
「忘却香を、気軽に商品化してしまったこと。その危険性を、深く考えないまま、多くの人に提供してしまったこと。その結果が、今回のような事態を招いたのだと思います」
ルーカスは、黙って私の話を聞いていた。
「私は、人を救っているつもりでした。でも、実際には、自分でも制御しきれない力を、無責任に広めていただけなのかもしれません」
私は俯いた。自分の甘さと、その結果に対する責任の重さが、改めて、胸に重くのしかかっていた。喉の奥が、じわりと熱くなるのを、私は必死に堪えていた。
ルーカスは、しばらく沈黙していた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「お前を、責めるつもりはない」
その言葉に、私は、顔を上げた。
「お前は、人を救いたいという思いで、この店を始めた。その気持ちに、嘘はなかったはずだ」
ルーカスの声は穏やかだったが、確かな温かさを持っていた。
「危険性に気づかなかったのは、確かに、お前の甘さだったかもしれない。間違えたなら、次を選べ。気づいた今、お前がどう動くかの方が、大事なんじゃないのか」
私はその言葉を、冷静に受け止めた。彼のまっすぐな言葉が、崩れかけていた自分の心の、確かな支えになっていくのを感じた。
「これから、どうする」
ルーカスは、まっすぐに、私の目を見つめた。
その問いは、単なる詰問ではなかった。私自身の意思を、確かめようとする、静かな問いかけだった。
「……考えさせてください。まだ、はっきりとした答えは、出ていません。でも――このまま、以前と同じやり方を続けることは、できないと思います」
私がそう答えると、ルーカスは、ゆっくりと頷いた。
「それでいい。焦らず、じっくり考えろ」
彼の言葉に、私は少しだけ、心が軽くなるのを感じた。
窓の外では、夕暮れの光が、荒らされた店内を静かに橙色に染めていた。散乱した瓶の破片が、その光を受けて小さく煌めいている。
私はその光を見つめながら、これからこの店が進むべき道について、深く考え始めていた。
祖母の調香書は失われた。けれど、これまでの経験と、依頼人たちとの対話の中で得た気づきは、まだ私の中に確かに残っている。エマの涙も、ルーカスの言葉も、王都の令嬢との対話も、そのすべてが今、私の胸の中で静かに息づいていた。
その気づきを頼りに、私は、この店の新しい形を見つけ出さなければならなかった。




