第十六話 忘れさせない香水店へ
数日間、私はこれからの店のあり方を考え続けた。
ある朝、私は店の扉に一枚の張り紙を掲げた。
しばらくの間、休業いたします。
簡潔なその文字を見つめながら、私は深く息を吐いた。朝の澄んだ空気が、肺の奥まで静かに満ちていく。
これまで積み上げてきたものを、一度立ち止まって見つめ直す。それが、今の自分にできる最も誠実な選択だと思えた。看板に掛けられた古い鈴が、風に揺れて小さな音を立てた。
休業を決めた後、私はこれまでの依頼人たちの一人一人に、丁寧に手紙をしたためた。
忘却香の技法が、今後、無責任な形で広まることのないよう、当面の間、新規の依頼は受け付けないこと。既に香水を受け取った方々には、その使用について改めて注意を促すこと。
一通、また一通と、ペンを走らせるたびに、これまで店を訪れてくれた人々の顔が次々と脳裏に浮かんでは消えていった。彼らの痛みに、私は本当に正しく寄り添えていたのだろうか。その問いが、手紙をしたためる間、ずっと胸の中で渦巻いていた。
ミレイユには直接、話をしに行った。
「忘却香、しばらく作らないことにしたの」
私がそう告げると、ミレイユは少し驚いた顔をした。
「そうなの? 何かあったの」
「色々と、考えることがあって。この技法の危険性について、もっと真剣に向き合わなければならないと思ったの」
ミレイユは、しばらく私の顔を見つめていたが、やがて、ゆっくりと頷いた。窓辺から差し込む朝の光が、彼女の栗色の髪を柔らかく照らしていた。
「セレナが、そう決めたなら、わたしは応援するわ」
その言葉に、私は少しだけ心が軽くなった。友の言葉一つが、これほどまでに、心の支えになるのだと、私は改めて実感していた。
休業中、私は毎日、店の奥にこもり、これまでの記憶を頼りに祖母の調香書の内容を可能な限り書き起こす作業を続けていた。
ランプの灯りの下、ペン先が紙を擦る音だけが、静かな店内に響いていた。完全に再現することはできない。けれど、幾度となく読み返してきたページの内容は、私の記憶に、確かな形で刻まれていた。
特に、忘却香についての記述は、何度も目を通していたため、細部まで覚えていた。
書き起こしを進める中で、私は、あることに気づいた。
忘却香についての記述の、最後の一文。
これまで、私はその一文を、単なる注意書きとして読み流していた。けれど今、改めて向き合ってみると、そこには、もっと深い意味が込められているように思えた。ペンを持つ手が、思わず止まった。
忘却は救済ではない。耐えられぬ夜を越えるための、最後の避難場所である。
私は、その一文を何度も読み返した。
祖母は、忘却香を「答え」にはしていなかったのだ。
「祖母は、忘却香を、恒久的に使うことを、望んでいなかったのですね」
私は店を訪れたテオドールに、その一文について語った。
テオドールは真剣な表情で耳を傾けていた。診療所での日々の合間を縫って、彼はこうして、頻繁に店に足を運んでくれるようになっていた。
「エレオノーラさんらしい考え方ですね」
「らしい、とは?」
「彼女は、常に、魔法の限界と責任について、深く考えていた方でした。私が診療所を開いたばかりの頃、彼女によく言われたものです。『できることと、していいことは、別ですよ』と」
その言葉に、私ははっとした。全身に戦慄が走るのを感じた。
できることと、していいこと。
私は、忘却香を「作れる」という事実に、あまりにも安易に頼りすぎていたのかもしれない。それが「していいこと」なのかどうかを、深く考えないまま。祖母は、既にその境界線の重さを、若い頃から見抜いていたのだ。
「テオドール先生」
「はい」
「もし、忘却香に、解除法が存在するとしたら――それは、どのような形になるでしょうか?」
私の問いに、テオドールは少し考え込んだ。窓の外に視線を移し、しばらく思案する様子を見せた。
「理論上は、可能なはずです。感情を封じる技法があるなら、それを解く技法も、存在し得るでしょう。ただ、非常に高度で、繊細な調合になるはずです」
「もし、私が、その解除香の研究を始めたら――手伝っていただけますか」
テオドールは、私の目を見つめた。その眼差しには、真剣な懸念の色が滲んでいた。
「セレナさん、それは、簡単なことではありませんよ。何年もかかるかもしれない。それに、解除すれば、あなた自身が封じた感情も、同時に戻ってくることになります」
「分かっています」
私は自分の胸の奥に、かすかな怖れが揺れているのを感じながらも、その声に迷いはなかった。
「それでも、この技法と真剣に向き合うためには、私自身が、その両面――封じることと、解くこと――の両方を、理解しなければならないと思うのです」
テオドールは、しばらく私を見つめていたが、やがて、小さく頷いた。
「分かりました。私にできる限り、協力させていただきます」
その言葉に、私は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
その夜、店の看板を見上げながら、私はこれからの道筋を静かに思い描いていた。月明かりが、古い木の板に刻まれた文字を、ぼんやりと照らしている。
《忘却香水店フィオレ》。
この名前のまま、店を再開することは、もうできないだろう。
忘れさせるためだけの店ではなく、記憶と、痛みと、正しく向き合うための場所へ。
その変化を、私自身の手で、形にしていかなければならない。夜風が、看板を、かすかに揺らしていた。
休業から半月ほど経った頃、ルーカスが、いつものように店を訪れた。
彼は奥で書き起こし作業を続ける私の姿を見て尋ねた。
「調子は、どうだ」
「少しずつ、進んでいます」
私は手元の紙束を見せながら答えた。積み重なった紙の厚みが、これまでの日々の証のように、ランプの灯りの下で、静かに光っていた。
「祖母の調香書の内容を、思い出せる限り、書き起こしています。それから、解除香についての研究も、テオドール先生の協力を得て、始めようと思っています」
ルーカスは、その言葉に、少し驚いた表情を見せた。
「解除香、というのは……お前自身の、あの香水のことか」
「はい」
私は、頷いた。
「私は、自分の感情の一部を、自らの手で封じました。その代償の大きさに、最近になって、ようやく気づき始めています。忘却香という技法の本質を、正しく理解するためには、その解除の可能性についても、深く向き合う必要があると思うのです」
ルーカスはしばらく、私の顔をじっと見つめていた。彼の深緑色の瞳の奥に、静かな懸念の色が揺れているのが見えた。
「もし、解除法を見つけたら――お前は、それを、自分自身に使うつもりか」
その問いに、私は一瞬、言葉に詰まった。
まだ、はっきりとした答えは、自分の中にもなかった。胸の奥に、恐れとも期待ともつかない、複雑な感情が渦巻いていた。
「……それは、まだ、分かりません」
私は、正直に答えた。
「でも、まずは、その可能性を、探ってみたいのです。私自身のためだけでなく、この技法と正しく向き合うために」
ルーカスはゆっくりと頷いた。
「そうか」
それ以上、彼は、何も追及しなかった。ただ、穏やかに、私の決意を見守るような、そんな眼差しを向けていた。
窓の外では、夜の潮風が、静かに港町を包んでいた。
私は、書き起こした紙束を見つめながら、これから始まる、長い研究の日々を思い描いていた。
解除香が、本当に完成するかどうかは、まだ分からない。何年もの月日がかかるかもしれないという、テオドールの言葉が、脳裏を過ぎった。
けれど、その可能性に向き合うことこそが、今の私にできる、最も誠実な選択のように思えた。
祖母の言葉が、改めて、私の胸に響いていた。
忘却は救済ではない。耐えられぬ夜を越えるための、最後の避難場所である。
私はその言葉を胸に刻みながら、新しい香りへの道を一歩ずつ歩み始めていた。窓辺のランプの灯りが揺れながら、深夜の静けさの中を照らし続けていた。




