第十七話 自分の過去を取り戻す
解除香の研究は、想像していたよりも、はるかに困難な道のりだった。
テオドールと共に、様々な薬草の組み合わせを試す日々が続いた。診療所の作業台には、幾つもの試験管や乳鉢が並び、その一つ一つに、失敗と再挑戦の跡が刻まれていった。祖母の記述には解除法そのものは残っていなかったが、忘却香の構造を逆算的に読み解くことで、その糸口を探る作業を、私たちは根気強く続けていた。
「感情を封じるとき、香りは、記憶と感情の結びつきを、一時的に切り離しています」
テオドールは、試験管の中の液体を光にかざしながら説明した。ガラス越しに差し込む午後の光が、液体の中で、小さく屈折していた。
「解除するには、その結びつきを、もう一度繋ぎ直す必要がある。切った糸を、元の場所に戻すようなものです」
「難しいのですね」
「ええ。単純に、逆の材料を使えばいい、というものではありません。繋ぎ直す糸そのものが、以前とまったく同じ強さで結ばれる保証もない」
その言葉に、私は、少しの不安を覚えながらも、作業を続けた。何度も配合を変え、何度も失敗を重ねる。乳鉢を洗う手が、いつしか、荒れ始めていることにも、私は、ほとんど気づかないでいた。
☆
二ヶ月ほどの試行錯誤の末、私たちは、ようやく一つの配合にたどり着いた。
「これが、恐らく……」
テオドールは、完成した琥珀色の液体を、慎重に瓶に移しながら言った。彼の手つきには、これまでの長い研究の疲れと、それでも確かな達成感とが、共に滲んでいた。
「理論上は、封じられた感情を、記憶と再び結びつけることができるはずです」
私はその瓶を、じっと見つめた。診療所の窓から差し込む夕暮れの光が、瓶の中の液体を静かに照らしていた。
これを使えば、私はアルベルト様への愛情を、そして、婚約破棄されたあの日の痛みを、もう一度、感じることになる。
五年間の想い。裏切られた屈辱。喪失の悲しみ。それら全てが、一気に私の中に戻ってくることになるだろう。
その事実に、私は思っていた以上の恐怖を覚えた。心臓が早鐘を打ち始めていた。
「……怖いのですね」
テオドールが、私の表情を見て言った。
「はい」
私は正直に頷いた。
「せっかく、穏やかな日々を取り戻したのに。この痛みを、もう一度、味わうことになるかと思うと」
「それは、当然の感情だと思います」
テオドールは、瓶を丁寧に布で包みながら続けた。
「感情というのは、時に、私たちを大きく揺さぶるものです。それを、あえて取り戻す決断は、簡単なことではありません」
私は瓶を受け取り、しばらく、その重みを手のひらで確かめていた。
これを使えば、封じたものが戻ってくる。
☆
その日の夕方、私は完成した解除香を持って、フィオレへ戻った。
すぐに使う気にはなれなかった。
琥珀色の液体が入った小瓶をカウンターの上に置き、私はもう何度目か分からないほど、その瓶を見つめていた。
「さっきから、そればっかり見てるわね」
声に顔を上げると、棚の整理を手伝っていたミレイユが、いつの間にかこちらを見ていた。
「……解除香が、完成したんです」
「解除香?」
「忘却香で封じた感情を、もう一度、記憶に戻すための香りです」
ミレイユの表情が変わった。
彼女は私が自分自身に忘却香を使ったことを知っている。
「じゃあ、それを使ったら……」
「アルベルト様を愛していた頃の気持ちも、婚約を破棄された日の痛みも、戻ってくるかもしれません」
口にしただけで、胸の奥が僅かに強張った。
「怖い?」
ミレイユは穏やかに尋ねた。
私はしばらく答えられなかった。
以前の私なら、こんな問いに迷うことはなかっただろう。
苦しいものは消せばいい。
耐えられない感情など、なくしてしまえばいい。
そう信じていた。
「……怖いです」
ようやく、私は認めた。
「取り戻した途端、あの夜と同じように苦しくなったらと思うと……。また立っていられなくなるかもしれません」
「そっか」
ミレイユは、それ以上励ますでもなく、否定するでもなく、小さく頷いた。
そして少し考えてから言った。
「じゃあ、そのときは一緒に泣いてあげる」
「え?」
「一人で耐えなくていいでしょう?」
あまりにも当然のことのように言われて、私は言葉を失った。
ミレイユは肩をすくめた。
「セレナ、前は何でも一人で片づけようとしてたもの。苦しいなら香水で消す。困ったら自分で何とかする。そういうところ、今でもちょっとあるわよ」
「……そうでしょうか」
「あるわよ」
即答されてしまった。思わず、小さく笑う。
ミレイユも笑った。
「痛くなったら泣けばいいし、腹が立ったら怒ればいいのよ。それでも駄目なら、わたしのところに来ればいい」
私はカウンターの上の小瓶へ視線を戻した。
苦しみを取り戻すことばかりを、怖がっていた。
けれど。あの頃の私と、今の私は違う。
あの夜の私は、一人だった。
今は――違う。
「……ありがとうございます、ミレイユさん」
「どういたしまして」
ミレイユはいつもの調子で笑った。
私はもう一度、琥珀色の小瓶を見つめた。
怖さが消えたわけではない。それでも先ほどまでより、ほんの少しだけ、この香りと向き合えるような気がしていた。
☆
その夜、店にルーカスが訪れた。
私は完成した解除香の瓶を、カウンターの上に置いていた。ランプの灯りが、その琥珀色の液体を静かに照らし出していた。
「これが、その香水か」
ルーカスは、瓶を見つめながら尋ねた。
「はい」
「使うのか」
その問いに、私はしばらく答えられずにいた。カウンターの木目を、指先で無意識になぞりながら、私は、自分の内側にある迷いを、そのまま形にできずにいた。
「まだ、迷っています」
私は正直に答えた。
「これを使えば、五年間の愛情も、婚約破棄された日の痛みも、一気に戻ってくることになります。その痛みに、また向き合う覚悟が、自分にあるのかどうか、正直、分かりません」
ルーカスは、しばらく沈黙していた。夜風が、店の窓をかすかに揺らしていた。
やがて、ゆっくりと口を開いた。
「無理に、戻す必要はない」
その言葉に、私は顔を上げた。
「ルーカス様」
「今のお前も、お前だろう」
彼はまっすぐに、私を見つめた。その深緑色の瞳には、揺るぎない確かな真剣さが宿っていた。
「物静かで、落ち着いていて、それでいて、人の痛みに寄り添える強さを持っている。今のお前を、俺は、悪いとは思わない」
その言葉には、これまでの私を、まるごと肯定してくれるかのような優しさが込められていた。
私はその優しさに、しばらく身を委ねたい衝動に駆られた。このままの自分でいられるのなら、それはそれで、幸福なことかもしれない。そんな思いが、胸の奥を密かにかすめていった。
けれど――。
「あなたは、私に、どうしてほしいんですか」
私は冷静にそう尋ねた。
その問いを口にした瞬間、私は、かつてのアルベルト様との関係を、無意識のうちに思い返していた。
あの人は、いつも、私が何を望んでいるかを聞かず、自分が思う「正しさ」を、一方的に示してきた。
もし、ルーカスも、同じように答えるのなら――。
私は少しの緊張を持って、彼の答えを待った。心臓の鼓動が、いつもより、少しだけ速く感じられた。
ルーカスは、しばらく、私の目を見つめていた。
やがて、穏やかだが、はっきりとした声で言った。
「俺が、決めることじゃない」
その一言に、私は、はっとした。
「お前が、どうしたいかだ。俺は、お前の選択を、支持する。それが、痛みを取り戻す道であっても、今のままでいる道であっても」
ルーカスは、続けた。
「俺は、お前に、何かを望んだりはしない。お前の人生は、お前自身のものだ」
その言葉が、私の胸に深く染み渡っていった。
これが、アルベルト様との決定的な違いなのだと、私は改めて実感した。
アルベルト様は、常に、自分が思う「セレナのための正しさ」を、私に押し付けてきた。それが、たとえ善意から出たものであっても、そこには、私自身の意思が入り込む余地が、ほとんどなかった。
けれど、ルーカスは違う。彼は私の選択を、ただ静かに支えようとしている。答えを、私自身の中から見つけ出せるように。その姿勢そのものが、私にとって、これまで誰からも与えられたことのない確かな尊重の形だった。
私はカウンターの上の瓶を、じっと見つめた。
琥珀色の液体が、ランプの灯りを受けて静かに輝いている。
☆
その夜、一人になった私は、長い時間、瓶を見つめ続けていた。
二階の自室の窓から、月明かりが差し込んでいる。その光の中で、瓶の琥珀色がより一層、深く輝いて見えた。
この中に、私が捨てたはずの痛みが、封じ込められている。
もう一度、それを、自分の中に迎え入れる勇気が、自分にあるのだろうか。
私は、これまでのことを、一つ一つ思い返していった。窓の外の潮騒に耳を傾けながら、記憶の糸を、丁寧に手繰り寄せていく。
エマの涙。
「悲しいけど、お母さんのことまでなくなるのは、いや」
――あの言葉が、私の中に、初めて疑問の種を蒔いた。小さな体で、精一杯に自分の気持ちを伝えてくれた、あの日の彼女の姿を、私は、今も鮮明に覚えている。
ルーカスの言葉。
「忘れたら、あいつらが本当にいなくなる気がするんだ」
――痛みを抱えて生きることの、確かな意味を、彼は教えてくれた。
王都の令嬢との対話。
「本当に、消したいのですか? それとも、消さなければならないと思っているだけですか?」
――自分自身に、初めて向き合わせた問い。あの女性に投げかけたその言葉が、実は、誰よりも自分自身への問いかけだったのだと、私は今、改めて理解していた。
それら全てが今、私自身の選択に繋がっていた。
忘却香を作った夜の私は、痛みから遠ざかることを「前へ進むこと」だと思っていた。
けれど今は違う。
前へ進むために、置いてきたものを取り戻さなければならないこともある。
私は瓶を手に取った。冷たいガラスの感触が、手のひらに確かに伝わってくる。
自分が捨てたのは、他人に奪われたからではない。
自分自身の意思で、その感情を封じることを選んだのだ。
「私は、自分の過去を、誰かに奪われたわけじゃない」
私は自分自身に語りかけるように呟いた。
「自分で、捨てたんです。だから、今度は、自分で、取り戻したい」
これは、逃げでも、諦めでもない。
もう一度、自分の過去と向き合うための、私自身の選択だった。
私は瓶の蓋に、そっと手をかけた。指先がかすかに震えている。それでも、その震えはもう、恐怖だけのものではなかった。
深く息を吸い込み、私は瓶の蓋をゆっくりと開けた。




