第十八話 白い花の香り
瓶の蓋を開けた瞬間、白い花に似た香りが、ふわりと立ち上った。
あの夜――アルベルト様との婚約を解消された、あの晩に嗅いだのと、同じ香り。薔薇ほど甘くはなく、柑橘ほど爽やかでもない、あの春の終わりを思わせる、柔らかな香り。
私は、震える手で、その香水を、自分の手首にそっと落とした。冷たい液体が、肌に触れた瞬間、僅かにひやりとした感覚が走った。
最初は、何も感じなかった。
ただ、香りだけが仄かに鼻先を漂っている。窓の外の潮騒が、いつもと変わらぬ音を刻んでいる。時間がほんの一瞬、止まったかのような、そんな静寂があった。
けれど、次の瞬間。
まるで、堰を切ったように、何かが私の中に一気に流れ込んできた。
アルベルト様と、初めて出会った日。
王都の夜会で、私はまだ、社交界に不慣れな少女だった。壁際で、所在なく立ち尽くしていた私に、彼が声をかけてくれた。
「一人ですか?」
その一言に、私は確かに胸が高鳴っていた。
初めて感じる、あの温かい高揚。頬が熱くなり、うまく言葉が出てこなかった、あの十代の終わりの、初々しい自分の姿が、鮮明に蘇ってくる。
それから何年か、夜会や茶会で顔を合わせるうちに、彼は少しずつ、私にとって特別な人になっていった。
婚約が決まった日の、幸福。
両家の合意のもと、婚約が正式に決まったとき、私はこれから始まる新しい人生に、確かな喜びを感じていた。彼と共に歩む未来を、心から楽しみにしていた。庭園の薔薇が咲き誇る中、二人で交わした、たわいもない未来の約束の数々。
彼のために、調香師になる夢を諦めたこと。
「趣味としてはいい」――その言葉を聞いたとき、胸の奥に、小さな痛みが走った。それでも、私は彼を愛していたから、自分の夢をそっと、机の引き出しの奥にしまい込んだ。
彼と共に生きる未来のために、それでいいのだと、自分に言い聞かせた。あのとき飲み込んだ小さな諦めが今、鮮やかな痛みとなって、再び胸の奥から立ち上ってくる。
婚約してからの五年間、積み重ねてきた、様々な思い出。
共に見た夕焼け。彼が贈ってくれた、小さな贈り物。手を取り合って歩いた、庭園の小道。何気ない会話の一つ一つ。彼の笑い方、声の抑揚、隣を歩くときの歩調まで、一つ一つが、鮮明な色彩を伴って、私の中に蘇ってくる。
その全てに、失っていたはずの温かさが戻っていた。
そして――。
婚約を解消された、あの瞬間。
「愛する女性が、できたんだ」
その言葉を聞いた瞬間の、体の芯から冷たくなっていくような感覚。
自分の全てを捧げてきた相手から、たった一言で、切り捨てられた屈辱。あの日の応接間の空気、ティーカップの重み、窓の外に咲きかけていた薔薇の色までもが、今、はっきりと蘇ってくる。
母の、「大丈夫よ、すぐに次の縁談を」という言葉に感じた、深い喪失感。
自分の人生が、また誰かの手によって、勝手に決められようとしていることへの、耐えがたい怒り。
それら全てが、一気に私の中に押し寄せてきた。
「……っ」
私は、思わず、その場に膝をついた。床の冷たさが、膝を通して、鋭く体に伝わってくる。
涙が、次から次へと、頬を伝って落ちていく。
これまで、忘却香によって静かに抑え込まれていた感情の全てが今、一気に、私の胸を満たしていた。
苦しい。
悲しい。
悔しい。
それでも――。
愛していた。
私は床に座り込んだまま、声を上げて泣いた。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
侯爵令嬢として育てられた私は、常に感情を表に出すことを、良しとされてこなかった。幼い頃から、涙は人前で見せてはならないものだと、繰り返し教え込まれてきた。
誰かに見られることも、恥ずかしいと思うこともなく、ただ、自分の感情に、正直に向き合っていた。ランプの灯りだけが、その様子を静かに見守っていた。
涙が涸れる頃、私はゆっくりと顔を上げた。
窓の外は、既に夜の深い色に染まっていた。
胸の中には、まだ確かな痛みが残っている。けれど、それと同時に不思議な静けさもまた、そこに存在していた。それは、忘却香がもたらしていたあの凪いだ静けさとは、まったく違う種類のものだった。
戻ってきた感情を、私はもう、否定しなかった。
これが、私の人生の一部なのだ。
苦しかったことも、悲しかったことも全て、私自身がこれまで生きてきた証なのだ。
けれど、感情を取り戻したからといって、すべてが一晩で整理されたわけではなかった。
翌朝、目を覚ました瞬間、不意にアルベルト様の笑顔を思い出した。
婚約したばかりの頃、庭園で私の髪に花びらがついていると笑いながら取ってくれた、そんな取るに足らない記憶だった。
胸が、きゅっと痛んだ。昨夜、あれほど泣いたのに。もう受け止めたつもりだったのに。
それでも涙が滲んでくることに、私は少し戸惑った。
けれど今度は、その涙を止めようとはしなかった。
きっと、こうして何度も思い出し、何度も痛みながら、少しずつ過去になっていくのだろう。
それから数日、思いがけない瞬間に昔の記憶が蘇った。
紅茶の香り。窓から差し込む午後の光。誰かの何気ない笑い声。
そのたびに胸は痛んだが、私はもう、その痛みから逃げようとは思わなかった。
さらに数日後、私はアルベルト様に手紙を送った。
最後に直接、話をしたいと。ペンを走らせながら、私はこれまでにない、確かな落ち着きを胸に感じていた。
彼はその手紙を受け取ってすぐ、王都から再び、リュミエールへとやってきた。
店の中で二人、向かい合って座る。窓から差し込む午後の光が、二人の間に静かな影を落としていた。
アルベルト様は、以前訪れたときよりも幾分か、穏やかな表情をしていた。
「セレナ、話とは」
「解除香を、使いました」
私は冷静に告げた。
「あなたへの気持ちも、婚約破棄された痛みも、すべて、思い出しました」
アルベルト様は目を見開いた。驚きと、そしてどこか複雑な感情が、その表情に浮かんでいた。
「……そうか」
「アルベルト様」
私はまっすぐに彼を見つめた。
「私は確かにあなたを愛していました」
声が、わずかに震えた。
アルベルト様は、しばらく言葉を失っていた。
「セレナ……」
「五年間、あなたのために、多くのものを諦めてきました。それでも、その全てが、無駄だったとは思っていません。あの時間の中に、確かに、私の愛情があったからです」
私は、穏やかに、けれど確かな声で続けた。
「だからといって」
私は一度、言葉を切った。窓の外を、一羽の鳥が静かに横切っていった。
「今もあなたを選ぶ理由にはなりません」
その一言に、アルベルト様の表情が、大きく揺れた。
「セレナ、それは……」
「過去に、あなたを愛していたことは、確かな事実です。けれど、今の私は、あの頃とは違う場所に立っています」
私は、これまでの日々を思い返しながら、言葉を続けた。エマの涙、ルーカスの言葉、王都の令嬢との対話――それら全てが、今の自分を形作る、確かな礎になっていた。
「この町で、多くの人々と出会い、多くのことを学びました。自分の感情に、正直に向き合うこと。誰かに決められた幸せではなく、自分自身で選んだ道を歩むこと。その大切さを、私は、ここで知りました」
アルベルト様は、しばらく私の顔を見つめていた。その視線には、これまで見たことのない静かな敬意のようなものが、浮かんでいた。
やがて、彼は深く息を吐いた。
「……分かった」
その声には、諦めと、どこか安堵のような響きが入り混じっていた。
「君が、そう決めたなら、私は、それを尊重する」
「ありがとうございます」
「セレナ」
「はい」
「五年間、共に過ごした時間の中で、私も、確かに、君を大切に思っていた。それだけは、信じてほしい」
その言葉に、私はゆっくりと頷いた。
「はい。信じています」
その返答は、もう、恨みや怒りを含んだものではなかった。ただ、過去への静かな受容だった。
アルベルト様は、それから、忘却香の技術について、改めて言及した。
「王都では、まだこの技術への関心が、燻り続けている。だが、君が、この技術を、自分自身の責任のもとで、慎重に扱っていくというのなら――私は、それを、侯爵家の名において、支持しよう」
「……本当ですか」
私は、少し驚いて尋ねた。
「ああ。強引に管理下に置くことが、必ずしも正しいわけではないと、今回のことで、私自身、学ばせてもらった」
その言葉には、以前の彼にはなかった柔らかさがあった。
アルベルト様が店を出た後、私は一人、窓辺に立っていた。
夕暮れの光が、港町を静かに橙色に染めていく。漁を終えた船が、一艘、また一艘と、港へと戻ってくるのが見えた。
胸の中には、まだ、複雑な感情の余韻が残っていた。けれど、それは、もう、恐れるべきものではなかった。
苦しかったことも、悲しかったことも、全て含めて、私自身の人生だった。
その事実を、私は、初めて、確かな実感を持って、受け止めることができていた。
窓の外を、潮風が吹き抜けていく。その風の中に、かすかに、白い花に似た香りがまだ残っているような気がした。
私は深く息を吸い込み、これまで抱えてきた過去に区切りをつけた。




