第十九話 好きという気持ち
解除香を使ってから、私の中の世界は、以前とは、確かに違って見えるようになっていた。
朝、目を覚ましたとき、窓から差し込む光の温かさに、以前よりも、はっきりとした喜びを感じる。埃の粒子が朝日に舞う様子さえ、以前は気にも留めなかったのに、今は、なぜか目を奪われてしまう。
依頼人と話しているとき、その人の痛みに、より深く共感できるようになった気がする。相手の言葉の端々に滲む感情の色合いを、以前よりも、ずっと繊細に感じ取れるようになっていた。
感情というものが、こんなにも豊かに、私の日々を彩っていたのだと、私は改めて実感していた。まるで、色褪せていた世界に、少しずつ、鮮やかな色が戻ってきたかのようだった。
そして――ルーカスに対する気持ちも、これまでとは、まったく違う輪郭を持って、私の中に浮かび上がるようになっていた。
ある日の午後、店の扉が開き、ルーカスが姿を見せた。
その瞬間、私の胸に、じんわりとした温かさが広がった。以前は、その温かさの正体を、うまく言葉にできなかった。けれど今は違う。この胸の高鳴りが、確かに何を意味するのか、私にははっきりと分かっていた。
「いらっしゃいませ」
私が声をかけると、ルーカスは、いつものように、少し素っ気なく頷いた。
「近くまで来たついでだ」
その、もう数え切れないほど聞いた言い訳を、私は思わず微笑ましく感じてしまった。彼のこの決まり文句を聞くたびに、口元が緩んでしまう自分に、私はもう抗おうとはしなかった。
彼が来ると、うれしい。
その事実を私は今、はっきりと自覚することができていた。
けれど、それだけではなかった。
新しい香りがうまくできたとき、私はいつの間にか、ルーカスに見せたいと思うようになっていた。店で困ったことがあれば、彼なら何と言うだろうと考える。嬉しいことがあった日には、次に会ったとき話そうと思う。
それは、胸が高鳴るような瞬間だけではなかった。
私の日々の中に、いつの間にか彼の居場所ができていたのだ。
誰かを好きになるということは、もっと劇的なものだと思っていた。
けれど今の私には、こうして自分の毎日の続きを、この人にも知っていてほしいと思うことの方が、ずっと確かな気持ちに思えた。
その日の夕方、店の片付けをしていると、ルーカスが、通りで若い女性と親しげに話しているのが、窓越しに見えた。
町の娘の一人だろうか、彼女は、ルーカスに向かって明るく笑いかけている。潮風に揺れる髪を押さえながら、屈託のない笑顔で、彼に何かを話しかけていた。
その光景を目にした瞬間、私は胸の奥に小さなざわめきを感じた。
彼が誰と話そうと、私が口を挟むことではない。
そう思ったのに、胸のざわめきは消えなかった。
私はただ彼を好きなのではない。彼の人生の中で、自分も特別な場所にいたいのだ。
これは――嫉妬なのだ。
自分でも驚くほど、はっきりとそう自覚できた。胸の奥が、じくじくと、小さな痛みを訴えている。この痛みの正体が、こんなにも明確に分かることに、私自身、少なからず驚いていた。
「今日は、機嫌が悪いのか」
しばらくして店に入ってきたルーカスが、私の様子に気づいて不思議そうに尋ねた。
「いいえ、そんなことは」
私は慌てて平静を装った。頬の熱さを、彼に悟られたくなかった。
けれど、ルーカスは少し訝しげな表情を崩さなかった。
「何かあったなら、言えよ」
その言葉に、私は少し迷った。棚の瓶を意味もなく並べ直しながら、私は心の中で言葉を探していた。
正直に、先ほど感じた気持ちを、伝えるべきだろうか。
「……先ほど、通りで、女性と話していらっしゃいましたね」
私が遠回しに尋ねると、ルーカスは、意外そうな顔をした。
「ああ、漁師の娘だ。父親の網の修繕について、相談を受けていた」
「そうでしたか」
「それが、何か」
私は少し、頬が熱くなるのを感じた。自分の中の子どもじみた感情に、私自身、少し気恥ずかしさを覚えていた。
「いえ……何でもありません」
私は、話を逸らそうとした。けれど、ルーカスは私の様子から、何かを察したようだった。
「もしかして」
彼は少し、口の端を上げた。その表情には、これまでにない悪戯っぽい光が宿っていた。
「妬いたのか」
その言葉に、私は思わず動きを止めた。
「……分かりません」
私は正直に答えた。
「でも、少し、胸がざわついたのは、確かです」
ルーカスは、しばらく私の顔を見つめていた。夕暮れの光が店の窓から差し込み、彼の表情を柔らかく照らしていた。
その夜、私はこれまでの日々を振り返っていた。
彼が来ればうれしく、来なければ寂しい。危険な仕事へ向かえば心配で、他の女性と話していれば嫉妬する。
全部、恋だった。
今なら、そのことが分かる。
解除香を使う前は、この感情の輪郭が、どこかぼんやりとしていた。それが、単なる友情なのか、あるいは、もっと別の何かなのか、判断がつかなかった。
けれど今は、違う。
この温かさも、このざわめきも、この寂しさも、全て確かな「恋」という感情の、様々な現れなのだと、私ははっきりと自覚することができていた。
翌日、私はミレイユにその気持ちを打ち明けた。
「セレナ、ついに自覚したのね!」
ミレイユは、両手を合わせて喜びを表した。彼女の瞳には、まるで自分のことのような、心からの喜びが浮かんでいた。
「それで、どうするの? ルーカス様に、伝えるの?」
「はい」
私は、迷わず頷いた。
「今度は、待つのではなく、私自身から、伝えたいと思います」
その言葉に、ミレイユは、少し驚いたような表情を見せた。
「セレナ、本当に、変わったわね」
「そうでしょうか」
「うん。以前のあなたなら、こういうこと、自分から動くのは、苦手そうだったもの」
私はその言葉を冷静に受け止めた。窓の外の潮風が、店の扉の隙間から、かすかに吹き込んでくるのを感じた。
確かに、以前の私なら、相手から選ばれるのを待っていただろう。
けれど今度は、私から伝えたかった。
その日の夕方、私は店の片付けを終えたルーカスに、声をかけた。心臓が、いつもより、少し速く鼓動を刻んでいるのを、私は自分自身、はっきりと感じていた。
「ルーカス様、少し、お話ししてもよろしいでしょうか」
「ああ」
ルーカスはいつものように、ゆっくりと頷いた。
私たちは店を出て、いつもの港沿いの道を歩いた。
夕暮れの光が、海面を金色に染めている。石畳を踏む二人の足音が、静かに重なり合っていた。
しばらく歩いた後、私は足を止めた。
「ルーカス様」
「何だ」
私は一度、深く息を吸った。
「ルーカス。私は、あなたが好きです」
初めて、彼の名を敬称なしで呼んだ。
その響きが、夕暮れの静けさの中に、はっきりと落ちた。
ルーカスの目が、わずかに見開かれる。
いつもなら、どんなときでもほとんど表情を崩さない人だった。けれど今だけは、私の言葉をどう受け止めればいいのか分からないように、しばらく何も言わなかった。
「……もう一度、言ってくれないか」
思いがけない言葉に、今度は私が目を瞬いた。
「あなたが、好きです」
今度は、迷わずに言えた。
ルーカスは小さく息を吐いた。その口元が、ほんの僅かに緩む。
「……セレナ」
彼は、穏やかな声で私の名を呼んだ。
「俺も、お前が好きだ」
その言葉が、ゆっくりと胸に染み渡っていった。
「ずっと、前から、そう思っていた」
ルーカスは続けた。
「お前が、依頼人のために、真剣に調香する姿を見るたび、惹かれていった。お前の強さと、優しさに。最初は、危なっかしい店主だと思っていた」
「それは……否定できませんね」
私が苦笑すると、ルーカスも僅かに口元を緩めた。
「だが、誰かの痛みに向き合うたび、お前は必ず自分でも考え直していた。間違えたと思えば、立ち止まることもできた。そういうところを見ているうちに――気づけば、放っておけなくなっていた」
「ですが」
私は続けた。
「すぐに、結婚へ進むのは、まだ、早いと思うのです」
ルーカスは、少し意外そうな表情を見せた。
「まずは、一緒にいるところから、始めましょう」
私ははっきりとそう告げた。
「これから、少しずつ、お互いを知っていきたいのです。焦らずに」
ルーカスは、しばらく私の顔を見つめていた。夕暮れの光の中で、その表情はこれまで見たことのない、穏やかな柔らかさを湛えていた。
やがて、彼はゆっくりと頷いた。
「それで、いい」
彼の声には、確かな理解と、温かさが込められていた。
「お前が、そう決めたなら、俺は、それに従う」
その言葉に、私は穏やかに微笑んだ。
夕暮れの光が、次第に紫色へと変わりつつあった。
私たちは並んで、港沿いの道をゆっくりと歩いていった。
言葉を交わさなくても、その静かな時間が心地よかった。




