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千田フーヅシリーズ  作者: カワニナ
7/21

余裕(陣内目線)

課長……落ちた?

(陣内目線)


 出入りの業者さんに出汁パックの新商品の試供品を貰ったのが、事の始まり。


 小分けになったそれをその時シフトに入っていた古参のパートさんにあげたら、 「あら、嬉しいわ。実は私今日誕生日なのよね~」と。

 あっけらかんと素直に喜んだパートさん。

 タダで貰ったもの、しかも出汁パックなのに、かえって申し訳ないような気にもなったりもしたが、 そういう実用性のあるものは貰う側に負担なく喜んでもらえるものらしい。


 俺はその時不動産業から千田フーヅに転職したてだった。 それでパートさんの多いそんな職場にどう馴染んだらとか考えていたのでこれはいいかな、 と、なんとなく始めたんだった。


 ま、中には理由がないって嫌がる人もいる。そこはまぁ、人それぞれ。 いらない人は、それでいい。モノあまりの今の世の中、迷惑に思われることのほうが多いかもしれない。

 それでも戸川部長みたいに俺より立場が上なのに自分から請求してきて、 気に入らない物をわたすと「これだったらいらない」とか平気で言って来るような場合もあったりしてな。

 これはこれでまた他人の人となりが見えて面白いと思ったりもする。




 喫煙所で一服していると、商品開発の静川が通りかかる。


 長身でちょっとキリッとした顔立ちをしている彼女。一応はコッチの方が上司だから会釈をされるんだが、 目線が俺の手元のタバコに向けられていて、鼻の上に小じわをこさえられる。

 むっつりして何か一言言いたそうにちょっと立ち止まって、 そして足早に去っていった。最近、愛煙家は立場ないよなぁ。


 どうにも俺は彼女にあまり好かれていないようで。

 それでもちょっと仕事上の事でやりあった後、ヒートしかけていた互いの頭を和ませるのに丁度いいだろうと、 俺は彼女にも一応粗品を用意した。生真面目な彼女の事だから、遊び心のありそうなものを渡しても逆効果だろうと、 文房具屋で目に付いた和風のデザインの付箋を差し出した。


 案の定「なんですか」と言う目線。まぁ、ここまでは予想の範囲。

 俺も普通のを束で買ったら混ざっていて、みたいな言い訳を用意して。 俺なんかが使うわけにいかないし、貰ってくれないか、と。


 誕生日、って事は言わなかった。彼女の鋭い目線に、小物で他人の好意を釣ろうという 俺の浅はかな考えが見透かされている気がして。

 つき返されるかと思いきや、素直に受け取ってもらえた。ちょっとはこの前の互いの棘が 抜けたのかどうかはわからないが、これで人間関係と仕事が少しでも潤滑に進むようになるなら安いもんだ。


 自分から媚を売るような行為。でも俺は常に下手に出ることでしか人間関係を維持できない。 いいんだよ、別に本当に嫌じゃないし。


 それにもちろん素直に喜んで受け取ってもらえれば嬉しいのはあたりまえで。 パートのオバチャンたちなんかもともと明るいから大っぴらに喜ばれたりして、 こっちの気分も上がるから卑下するほどの事でもないかと。




 で、及川、だ。


 部下、だ。直属の、というと大袈裟だが。


 なんと言うかヤツの笑顔には屈託がない。喜怒哀楽の表情がまんまで、本当に素直な性格の持ち主で。

 一緒に営業先をまわった時の事。ウチの弁当を卸しているスーパーの菓子売り場で、 チビッコどもに混ざって立ち止まってチョコレートの箱なんか振ってやがった。

 何かと思えばオマケを集めているとか言って。

 仕事中スミマセン、等といいながら2、3個手に取ってレジに並んだ。


 ああ、そういえばニュースの特番かなんかで観たっけ。いい大人がコレクションに走っているというアレか。 と、言っても及川はまだいいオトナとは言いがたいガキっぽさが残ってるよなぁ。


 などと思いつつ、俺はそんなんで喜ぶのかと半信半疑でヤツの誕生日にはそれを用意した。




 で。



 案の定、というか。



 スッゲー驚いた、とかいった顔をして、で、満面の笑顔だ。

 お前本当に社会人か、と。なんだそのキラキラした笑顔は、ってな具合で喜びやがった。


 俺は結婚してないし、身内にも小さい甥っ子やら姪っ子やらいないんだが。 子供や孫にやたら物を贈りたがってしまう親バカ、 爺婆バカな気持ちをきっとこの時初めて味わってしまった気がした。



 もっとも、アイツ自身は自分のそんな子供っぽさや、 若いが故の経験の少なさでの手際の悪さをいつも気にしている。

 だがそれはある種の財産だと俺は思う。そんな風だからアイツの笑顔は見ていて気持ちがいい。 それに足りない部分を補おうと前向きにちゃんと努力もしている。 バカでもガキでもそんな真摯なヤツを嫌うような人間はそうそういない。



 そんな感じでほのぼのとして明るく、屈託のない男だと思っていたから俺も素直に面倒見ていた。



 それがあんなどえらい秘密を抱えていたとはなぁ……。



 しかも驚きは二重。


 わかんないモンだ。なんだってアイツが?







 それも、どうして俺を?







「何、喰う」


「あ、何でもいいッス。課長の好きなモンで」



 最近、及川はだいたいがこうだ。俺の諦めというか、覚悟とは裏腹に及川のほうが妙によそよそしい。


 なに喰う?と訊けば「おまかせします」とか「同じもので」とか。


 もともとコイツはどちらかと言えば大雑把な方だ。だからこういう時別に 本当に食べたいとか飲みたいとかいったこだわりが無いのはわかっている。 だが、そんな最近の及川の遠慮気味の態度にやっぱり俺に気を使っているのかという気がしてしまう。


 俺は自分が人に気を使っても、使われる姿を見るのは少々しんどいと感じてしまう。 一般的な上司と部下として、社交辞令のという儀式は確かに必要だ。 だけど、俺にとって及川のいいところは、それをちゃんと踏まえた上で緩い態度をとってくる、 そんな甘え上手な部分だった。


 だからコイツの告白を受止めるのに抵抗を感じなかったのかもしれない。 あの緩い笑顔がより多く俺に向けられるのは、今の俺にとってかなり魅力的な話しだったんだ。


 だから俺はコイツが望んでいる形で──つまりは恋愛対象として側にいられるわけじゃないのに 「OKサインのようなもの」を出した。 もっと真剣に考えるべきなのはわかっているんだが、ただ、 もうこの年齢になってしまってそういう事がもうどうでも良くなって来ていて。 その真意はどうであれ、表面上で誰かが幸せだと感じる瞬間があるのなら、もうそれでいいじゃないかと。



 かなり無責任な話。



 及川は確かにお子様なところがあるが、決して基本的な考えが甘いヤツなわけではない。 だから俺がそんな曖昧な動機でコイツと一緒に過ごしている事もきっと見透かしている。




 だからだろう、気のせいかもしれないがあの笑顔、最近あまり見なくなってきた気がする。 仕事が上手く行ったときとかは確かに見られるんだが、以前のように、何でもないときでも「にへら」とか緩んでいたあの顔が。









 結局互いの家への距離から考えて、I小路のちゃんこ鍋屋に向かった。


 店に入ると、食べ物のほかに何か爽やかな匂いが混ざっている事に気づく。 匂いの正体は畳で、通された個室の畳敷きの部分に、まだ青さが残る新しい畳が敷いてあった。


 実は俺は青畳にはあまりいい思い出がない。子供時分、畳を張り替えたばかりの新しい家に引っ越してから、 生活が嫌な方に傾いた時期があった。別に畳に原因があるわけではないんだが、 爽やかなイグサの香りは俺にその頃の嫌な気持ちを思い出させるんだ。


 別にそれほど不幸な話と言うわけでもないので、誰彼に話したこともない。 だけど俺はなんとなくそんな嫌な思い出を塗り替えたくて、ちょっとふざけた態度にでた。


 及川の告白の後も前も。コイツと過ごす時間は俺を和ませる。 だからそんな雰囲気で俺の昔の嫌な気分が癒されればいいと思ったのだ。

 案の定、及川のあきれた顔、困ったような態度。ひとまず、 「うん、ウケたか」と俺の笑いを取りたい欲求が満足した。


 あの喫煙所でのやりとりは、そんな感じで今のところあまりいい展開をもたらしてはいない。 そう判断したもとの俺の感情が邪なだけに当たり前といえば当たり前なんだが。

 何の事はない、俺は覚悟を決めたというよりは、ただ考える事を放棄して開き直っただけに過ぎないから。

 その結果、かえって及川は変に緊張しだして、結果俺がコイツといる最大のメリットであるあの呆けた笑顔が よりによって俺の前では弾けにくくなってしまった。


 それでは、意味がない。俺はコイツが、そんなコイツの屈託のない表情を向けてくれる事が気持ちよくて、 その機会を少しでも長く独占したいとこうしているわけだから。


 俺は姑息な手段に走る。もっとも確実にコイツの素面を引き出す方法は、コイツの家族の話題を振ることだ。 ほぼ母子家庭で育った俺には兄弟姉妹の多いコイツの話は新鮮で、羨ましくも楽しい思いでそれを聞く。


 今年就職して大変だという妹さんの話、まだ学生さんの弟さんの話など。


 オフクロが二人いるみたいだという一番上のお姉さんの話を聞く。 及川はたぶんこのお姉さんには自分の性癖の事がばれてる気がすると言っていた。


 なんとなく、だがコイツがその辺の事を明かしたとしても、 コイツの家族はきっとそんなコイツの事をしっかり受止めてやるんだろう、と思った。




 やっといつもの調子を取り戻したのか、及川、早速鍋の残りで雑炊を作ろうとして ネクタイを汚しそうになるドジを披露してくれた。


 慌てて拾ってやると、勢いでヤツの胸板を少し小突いてしまった。


 「悪ィ」と、及川の顔を見ると、熱っぽい潤んだ視線とかち合った。





 ああ、また、その顔か。




 また、俺の心がズキズキとし始め───。







 すごい状況だな、これは。小気味いいとでもいうのか、苦しいとでも言うのか。


 どう取り繕ったってコイツはそんな捩れた性分ではないから、 考えている事のおおよその見当がついてしまう。

 頑なな態度も、思いつめた目線も、俺の悪ふざけで困惑するその顔も。



 こんなんならさっさと押し倒されて、好きなように欲望をぶつけられる方がどれだけマシだろう。 俺への気持ちを押さえ込むお前の姿を見ているだけでコッチが辛くなっちまう。


 なぁ、お前、俺のどこがそんなに良いんだよ。悪いけど、こんな気分、ホント学生時代以来だよ。 30の頃結婚したいと思って付き合っていたあいつと一緒にいた時だって、 どっちかっつーと俺の方がアイツにそういう強い気持ちを抱いていたわけだから。


 もう、最近は本当にキツイんだよ。


 俺、そんな価値ないよ。お前がそんな思い詰めるほど。


 お前が真剣に俺のことを思っていることがビシバシ伝わって来て、



 マジで、苦しい。




 そんな窮屈さから逃れたいと、ついタバコに手が行きそうになった。 及川がコイツにしては珍しく、さり気ない感じで灰皿を回してきた。



 ふと、今日静川に睨まれた事を思い出した。

 確かにタバコはいいもんじゃない。営業だから一応気を使っているが、喫煙者には結構口臭とかヤバイ人いるしな。 俺もヤバイかもな、と。なかなかこういう事は他人には注意しづらいから、誰も何も言わないだけで。


 そうしたら及川が話を意外な方向に持っていく。静姫は別に俺のことを嫌っていないとか。 実は俺の事を心配してくれているとか。


 確かに以前喫煙に関して随分手厳しい事をいわれた事もあったが、そういう事だったのか?


 いや、そうれは違うか、と。単に人間関係に気を使っての発言かと思えば、 しまった、言うんじゃなかった、という及川の顔。





 ああ、こいつ………バカだなぁ。





 そんな及川の表情で静川のその話しがおべっかじゃない事が分る。 俺もいい加減40年も生きてきてるから、案外静川がもっと他の事を言ったかもしれないぐらいの察しがついた。


 そしてまたそんな及川の人のいい反応にあきれもした。 そんなアイツの態度のウラにある気持ちが、なんとなくわかったから────。


 お前、恐いんだよな、恐がってんだよな。

 俺とうまく行くか行かないか、とか、自分が傷つかないように、 そしてそれ以上に俺に嫌な思いをさせないように、とか、そんな事考えてんだろ?


 全部透かして見えるようなそんな及川の態度。相手が異性であれ、同性であれ、誰もが通る道だ。

 そして俺も通ってきた。あの時の自分の気持ちと、今のコイツの気持ちが重なる。


 俺は自分が彼女から突き放された時の事を思い出した。俺たちは決して上手く行ってなかったわけではなかった。 ただ、今ならわかるが、俺は俺が思い込んでいた恋愛の形に彼女を押し込め過ぎて、それが辛くなって彼女は俺と別れた。


 彼女は俺の事をわかっていたんだ。そしてその分だけ誠実だったから、 あえてキッパリと別れた方が互いのためだと判断して。







 だけど、俺は。







 いい加減にしろ、と俺の中の、たぶん「良識」の部分が警鐘を鳴らす。 だがじわじわとそんな俺の心の天邪鬼な部分が次第に頭をもたげて来る。



 俺は今、及川に思われている状況を、申し訳ないと思っている。


 だけどそれ以上に心地良いと感じている。



 あとは及川には悪いが、同性同士の関係として どこまで俺自身が行けるのか試したいという、歪んだ好奇心からの気持ち。 

 そしてまた俺なんかにはお前がそんな思い詰めるほどの価値なんてないから、 逆に嫌われてしまいたいとかいう反動と。














「………っ」














「!!?」











 俺は店を出ようと立ち上がった及川をつかまえると、無理やり襟元を掴んで唇を奪った。









 成る程、と。




 キスに関しては男も女もそう変わらない事がわかる。化粧っ気のない分、素でむしろ気持ちがいい。 そしてお菓子の匂いがしそうだと何となく思っていた及川の唇は、 思っていたより柔らかく、そして卵雑炊味だった。


 同性にこういう事してどうだ、というそのあたりの気持ちはやはりよくわからなかった。 及川には申し訳ないが、何しろ好奇心が強く働いてやってしまったことなので、 ああ、触れたな、ぐらいのモンで。




 ところが。



「こら、おい、及川?」





 怒られるか、慌てられるかとそんな反応が来るかと思っていたのに。






 でっかい図体が目ぇ見開いて、立ちすくんで。


 みるみる顔を真っ赤にさせて。




 そこで初めて俺はしまった、と思った。赤くなった及川を、本気で可愛いとも感じ、 そしてその分だけ強く刺激されてしまう俺の中のあの嫌ぁな優越感を更に強く自覚し。



 及川目が、ウルウルとかして来やがって───。





「何かオレ、酷い事したみてぇじゃねぇか──」



 したんだよ、俺。酷い事。



 俺は傷つけた。及川はそうは思ってないだろうけど、俺は間違いなくコイツを傷つけた。


 ああ、本当に弄んじまったんだ、俺、コイツの事。


 俺はもう結構普通に中年男と呼ばれるだけの人生を歩んできている。 だから今更恋愛ごとでうまくいかなくても、傷ついてもそれなりに やり過ごせるしたたかさを否が応にも身に着けてしまっている。


 だけどコイツは違う。俺はコイツの告白に答えたあの日の、 あんな脅しを真に受けてしまっていた。だけど普段のコイツ見てりゃ分るじゃないか。 コイツがそんな恋愛がらみのやりとりに慣れがあるわけないじゃないか。


 やっぱ駄目だろ。俺みたいにこんな姑息で自分の利益ばっか考えてるようなヤツ。冗談抜きで汚いよ。

 こんな俺なんかに引っかかってる場合じゃないよ、お前。 お前みたいなこんな初心で真面目で、その、カワイイ奴。 きっとほら、そっちの世界でも直ぐ次の出会いがあるって───。


 今更ながらコイツとの歳の差すら自覚する。俺は及川と目が合わせられなくなって下を向いた。

 どっちにしろもうお開きだ。


 とにかくもうこの部屋を出ようと、俺は開けようと襖に手を伸ばした────。






 思いの他、力が強かった。


 何より抱えられ、覆いかぶさられるという体勢。




 俺の体は一瞬強張ってしまった────。





「及か…」



 今度は、及川の方から。まさに強引に、唇を重ねられた。







 やっぱり、駄目だ。最初の感想。



 自分からの、それもあんなイタズラじゃ何も感じないのは当然だ。


 だけど今度のは本当だ。及川が俺を強く抱きしめ、唇を塞ぐ。


 やっぱり本心で感じる強い違和感。それと恐怖心にも襲われた。 その時はその正体は分らなかったが、どっちにしろ強い抵抗感を感じた。


 及川は本気で、本気で本能的に雄の部分で俺を求めていた。 そして俺はそんなむき出しの本能で捕らえられた事に恐怖を感じてしまっていた。


 

 それなのに────。



「愛して…ます、課長」


「好きなんです、課長」


 キスの合間、及川の口がうわごとのように呟く。


 それは何の計算もなく、そしておそらく本人殆ど無意識につぶやいたのだろう。


「スイマセン…俺…」


「こんな、俺……本当に………」





 苦しそうに、喘ぐように言葉がつむがれる。


 そして及川の頬を伝う涙が、重なる唇の間にこぼれて────。





 あっという間に俺のなかにわだかまっていたその抵抗感のような感覚が粉砕された。



 どう言ったらいいのかわからないが、ただ、そんな感じだった。



 無意識なだけに質の高い、そして邪な俺にとって性質の悪い純粋な及川の本能が全てを押しやった。 俺のつまらない良識も、いじましい優越感も何もかもを。


 気持ちいいなんてもんじゃない。むしろ圧倒的な力に押さえ込まれてるみたいだった。 ただねだられるがままに、俺は口を開く。 喰らいつかれる、絡め取られる。闇雲に、純粋にただ、ただ、求められた。


 そんな、真っ直ぐぶつけられる及川の気持ちに、俺はひたすら叩きのめされてしまい────。






「…………スミマセン」


「……何謝ってんだよ……、バーカ」




 たかがキス、されど──。






 少なくともその瞬間、唇を伝って確実にそれは伝染した。


 俺はもうすっかり俺の殆ど全てを及川の熱に侵されてしまって────。


 店を、出て、何も考えられなかった。とにかく一服。一応いつもの自分を取り繕っては見たが、正直内面はグラグラだった。


 及川のくれた灰皿は、俺が以前いいなぁ、なんて目をつけていたモノで。

 そんな偶然までもが俺の心を惑わす。おい、どうすんだよ、及川。 俺、もう「今夜は…帰りたくないの」状態になっちまったぞ…と。



 などと馬鹿な考えにじわじわ頭が支配される。一息つきながらどうにか冷静さを取り戻そうとした。 及川も同じようで、大きく肩で深呼吸とも溜め息ともつかない息を吐いていている。


 明日の仕事、周りの景色、そんな関係ないことを必死に考える。

 俺はもうすっかり流されていた。もう半分ぐらい色んな事がどうでも良くなっていた。 俺は及川が思う程価値のある人間じゃないが、こいつの俺に寄せる思いをもうどうにも手放したくなくなっていた。




 ここで、もし───。




 そして俺は歳を喰った分のずるさを発揮して及川にその判断を委ねる。 もうここ数年殆ど縁のなかったその感情に、すっかり俺の中の正常な判断をするはずの機能は狂わされていて──。











 だが及川はそんな俺よりまだよっぽどまともだった。


 あんだけの熱を抱えながら静かに一言、「帰りましょう」と。



 その一言に、拍子抜けな気分を感じつつも俺は安堵した。コイツはガキっぽい。 でも、ずっと俺なんかよりしっかり芯の強い部分を持っている───。







 I小路を出、信号のところで別れる。繁華街の人ごみに紛れて消えていく及川の姿を俺はぼんやりと見送った。





 バス停について、もう一本。バスが来るまでの間、ベンチに座って夜気で火照った頭と体を冷ます。 鼻を啜りながら帰る及川の後姿が脳裏に浮かんでは消えた。


 俺は今度こそ、本当にどうすべきなのかを真剣に考え始めていた。












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