余裕(及川目線)
もうイッパイイッパイです。
(及川目線)
それは意外にもあっさり訪れた。
それも全く予想してなかった形で。
えーと、改めて確認する必要もないんだけど。先に好きになったのは俺だ。俺のほう。
あ、うん、どっちが先、とかそういう意味のないことにこだわっているのではなくて…えっと、どう言ったらいいのか…。
要するに、その、恋愛対象として強く課長のコトを意識しているのは俺の方なんだけれど───。
お調子者の課長、今日もポケット膨らませて外回りに行くついでに工場棟に出向いてる。今日は誰の誕生日なんだろう。
もしかして課長、社員名簿とかいちいち照らし合わせたりとかじゃなくて、本当にウチの従業員の名前と誕生日、 全部覚えてるんじゃないだろうかと最近思う。
去年、課長が俺にくれたのは食玩だった。オマケつきのチョコレート。結局あのシリーズはコンプできなかったけど。 課長のくれたチョコには翼竜が入っていた。それはレアでも何でもない、しかもダブついていた翼竜の三匹目だった。
だけどもちろん俺は嬉しくて、爪の部分のペイントがちょっとずれてる(こういうオタクっぽい事を言うと引かれるかな) その翼竜だけ別で箱にそのまましまってある。
だってその時は本当に、課長が俺のそんなプライベートな部分まで知っていてくれる、たったそれだけの事が嬉しかったから。
でもって今年のプレゼント───。
確かに俺がスッゲー欲しかったものだった。
だけど俺はそれがもらえるなんてマジで考えた事なかった。
俺が欲しかったのは、陣内課長本人。
いつも調子のいい笑顔で、人を笑わせる事ばかり考えていて。
背はあまり高くなくて、三枚目だけど愛嬌のある顔立ちで、ちょっとデコが禿げかけていて───。
ふざけてばかりいるようだけど、あれはポーズで多分根はかなり真面目な方。 一途の恋が敗れてそれを引きずって40歳って話は嘘じゃないと思う。
とにかく俺はそんな課長の事が好きで、でも、課長はもちろんストレートだから俺は側にいられるだけで良いと。
それだけを願っていたはずが、何を考えているのか課長、俺のついうっかりの告白を真面目に受け取ったりして─────。
だから…正直な話。
俺は今年の課長のプレゼントを…持て余して───いる。
課長が俺の事わかってくれて、本当に俺の求めていた意味で側にいてくれて幸せなことには違いないんだけれど。
俺、どうしたらいいんだろう────。
きっかけは中学生の頃。
レンアイとかそーゆーの興味なかったわけじゃなかったんだけど、俺の場合男女カンケーなく大勢でわいわいやってるのが好きだった。 だからその頃は友達連中とバカばっかやってた。 だからイワユルH関係への興味で頭パンパンになるはずのその時期に、余り女の子がどーの、 とかいう興味が湧かないことに疑問を感じていなかった。
で、フツーよくやるよな?勉強でも遊びでもゲームでも。
とにかくそんな理由でダチの家に泊まりに行って。
もちろん男ばっか。でもってそんな中でも特にテンション合うヤツがいて。そいつも一緒で4人ぐらいでわいわいやって雑魚寝して。
夜中にションベンで目が覚めて。
夏だったからテキトー。皆Tシャツとかタンクトップとか短パンでそのまんま寝ていて。
で、そいつの寝顔にドキッとした。それが最初。
ちょっとエビみたいに丸くなって寝ていて、その恰好を可愛いとか感じてしまった。んで、腰とか短パンはいててむき出しの足とか見てさ。
あ、今思い出しても胸がイタイ。
もちろん、何にもしてないよ。
ただ、今ならハッキリさ、わかるよな。俺ゲイだったわけだから。 ほら、普通の男が女の子の何かを、チラとかたまたま見えちゃって、で、わざと見たわけじゃなくても「悪かった」って思う。
しょうがないんだよ。興奮しちゃうよな、良いモン見ちゃったんだから。
だけどそん時の俺はそんな事わからないから。
ドキドキして。そんで見てたらさ、触りたくなって。
それに気付いて、俺何やってんだろう、って。
落ち着け、とか自分で思うんだけど、ドキドキはおさまんねぇし。
で、またそいつが「ん…」とか言いながら寝返りうったもんだから。
俺、キタ。完全に、チ○コに来た。
ま、ね。俺もそん時はもう、同性愛とかそういうの知らないわけじゃなかったからさ、変なパニックになったりとかはなかったけど。
ただその時、そいつの寝顔で興奮した自分を自覚した時さ。
すっげー悪いとか思ったんだ。もう、すごい罪悪感みたいなのを感じたんだよ。
テンション合うってのは多分、「好き」だったのかな。
だけどそういう風にさ、友達だと思っていたヤツに興奮した事がさ。
その時は、許せなかったわけ。そんな自分が。
その後はスゲ、辛かった。もう、どうしたらいいか分らなかった。
仲は良かったからそれからも普通につるむんだけど。
不自然じゃないだろうか、俺、そいつの事、変な目で見てないだろうか。
あいつ、そんな俺の事に気付いてんじゃないだろうか───。
ま、結局さ。それからもどうと言う事もなくて。
中学卒業して、そいつとはそれっきり。
その時の俺、別れは寂しかったけど、どこかホッとした部分の方がずっと大きかった。
高校からは気をつけた。なんかその頃はまだ軌道修正が出来るんじゃないかと漠然と信じていたので、女の子と付き合ったりもした。
でも結局女の子とは友達以上にはなれなかった。嫌いじゃない。楽しい。でも何か違うんだ。
俺ン家は兄弟姉妹多いしみんな大ざっぱだから、一人ぐらいそういうのいたって家族が受け入れてくれるとは思う。
だけどやっぱ色々わずらわしいので今でもまだカミングアウトとかは考えてない。
俺の住んでいるS市はデカイ。だから俺みたいな連中の溜まり場もちゃんとあって、 俺も専門学校行き始めたあたりからヤッパ寂しかったからそういうところに行くようになっていた。 仲間っつーか、同じ気持ちを抱えている相手がいるのは確かに安心できた。
だけど───何だかだんだん、ちょっと違うか?、みたいな変な気持ちを感じるようになって来ちゃって。
わかるよ、わかるんだけどさ。
だけどそういう所行くとさ、出会ってから次のステップへ、の感覚が妙に早いワケ。
そりゃ、さ、俺たちは出会うだけでも色々大変だから、いわゆる付き合ってる、状態まで早く持ち込みたい気持ちはわかるんだけど。
なんかそうゆうの、何かが違う気がして。
別に普通に異性が好きな連中みたいに、日常生活のまま自然な恋愛に流れていけるとはもちろん思ってない。 だけど俺はまだ夢を見ていたかった。
そう、なれればいいなーとは、
漠然と、
思って。
「おーいーかーわーぁ?」
「は、ハイッ!」
どう考えてもわからない。あの日、もしくはあの前後。
一体、何があったっけ?
「もう、いいの?」
「あ、酒はもういいです」
「ふーん?」
あれから、変わった。課長が変わってしまった。
いや、戻った、のかな?元に戻った…というか。
湯気の向こうで陣内課長が冷酒をグラスに手酌で注いでいる。残り少なくなった鍋を覗き込む。 で、メニューを手にとって〆は雑炊が良いかうどんがい良いかと訊いて来た。
どっちでもいいです、というと最近お前、そればっかりだなぁ、と課長。
「俺になんか遠慮する事ないだろうが」
「べ、別に、遠慮なんてしてないです」
そう言いながら、気付くと課長が空いた俺の小鉢に鍋の具をよそう。
「あ、す、すいませんっ」
「んー?」
手際がいい。っつーか、俺がトロいんだよな。上司にこんな事させて何やってんだ。
陣内課長は営業の仕事が長いからか、すっげー良く色々と気づく。こういうトコ、見習わないといけないんだけど。
鍋のだし汁啜りながら、冷酒をチビり、とやる課長。ネクタイ緩めて、襟元が少しだけ肌蹴て。 で、ほろ酔い加減で顔少しだけ赤くして。
で、眠そうな二重まぶたがコッチを時々チラリとか見る。
あの日、喫煙所でのアレがあってから、課長、なんだか何かが変わった。
俺とつきあうとか何とかそんな感じになってから、ちょっと互いに意識しちゃってギクシャクした感じになった。 ま、あたりまえだ。課長、もともとノンケだし。かえって距離が離れたような感じになって。
ところが、だ。あの日以来課長急に何か吹っ切れたみたいな感じになってしまった。
以前通り、小突いたりとか背中叩いたりとかだけどスキンシップも復活。
で、俺がそれでうろたえるのを上目遣いに見ながらニヤリ、とか笑うワケ。
気のせいなのかな。それともこれは何かの罠なのかな
もしかして、誘ってますか、課長。
だったら、俺、どうしたらいいんですか、課長。
今日なんかも、もう、とんでもない状況。
会社の連中とかとも来た事のあるちゃんこ鍋やなんだけどさ。美味いチェーン店なんだけど、店の半分が個室っぽい作りなワケ。
や、別にアレな店じゃないよ?半分はテーブル席だし、奥のほうでは家族連れの子供の声が聞こえるし、 隣では打ち上げっぽいオッサン方の笑い声なんかがうるさいし。
で、会社帰りでスーツだったから、商談がらみかと思われたみたいで店員さんにテーブル席ではなく個室の方に案内された。
最近は俺の方がこういう時メチャクチャ意識しちゃって替えてもらおうかとオロオロしてしまう。 もちろんそんなの不自然だしおかしいんだけど。 で、課長はというと全っ然いつもの調子で「ありがとネー」なんて調子のいい声でさ、素直に靴を脱いで上がってしまう。
「とりあえず、ビールね、生中」
と、まずは店員さんにVサイン。
慌てる自分もバカみたいだとは思うから、俺も普通に差し向かいの席に。
どうでもいいけどいっつもこういう時、上司の上着も預かってハンガーにかける位、部下としてはやるべきなのかな、と思う。 つっても、課長自身はそういう事、自分がしても人にされるのはあまり好きじゃないみたいだけど。
なんて俺がまごまごしていたら課長、店員さんがひとまず下がって開口一番いきなり。
「靴下も脱いでいい?」
とか言ってきた。
へ?とか俺が間抜けな返事をしている間に、なぜか上着の次に靴下まで脱ぐ課長。
「だってよ、なんかホラ、この部屋、タタミ張り替えたばっかりみてぇだぞ。気持ちよさそうじゃん」
とか言いながら、ぺたぺたと畳敷きの部分でわざわざ無駄に足踏みしてから座布団に胡坐をかいた。
課長、リラックスし過ぎ。っつーか可愛い過ぎ。なんなんスか、それ。
課長のこんなトボケた調子、いつもの事のはずなのに。
ただ飯を食うだけなのに、そんな課長の様子になぜか俺はますますキンチョーしてきてしまう。
2人前のスタンダードなセットを頼む。で、とりあえずビールの後に、課長は冷酒。 課長が遠慮せずに好きなの行けよ、とか言うけれど、俺は酒にはこだわりはないので、飲みたい時は課長と同じものを頼む。で、飲まない時は飲まない。
学生時代のバイトの経験でか、なんかつい店員に気を使って、同じものを頼んでしまってるだけなんだけど、その度に課長は「いいのか?」とか聞いて来る。
会社の飲み会でも課長はそうだ。幹事より早く、飲めない人、飲みの席が苦手な人にとにかく気を使う。 で、戸川部長に「お前がそんなんだと、下が育たないよ?」とか言われたりして。
だけど課長は「や~性分なんスかねぇ」とかおどけて言いながら、ちょっとの間は大人しくするんだけど、すぐ自分の席から居なくなっちゃう。 で、笑い声が上がるところを見ると、だいたいそこに居る。
課長は優しい。要するに、優しいんだ。
誰にでも。
だから俺は余計戸惑う。いっそ普段は黙っていて、時折笑ってくれるぐらいの人のほうが、 案外本音が伝わる事があるのかもしれないとか、最近は思ったりして──。
〆のご飯が来る。
雑炊ぐらいは俺がやります、と立てひざになった拍子にネクタイを鍋にドボンさせそうになった。
すかさず、課長、それに気づいてさっと手で支えてくれた。
俺は自分のドジが恥ずかしくて。
で、俺のネクタイを守ろうと身を乗り出してくれた課長の手が、俺の胸をかすめたりとかして。
思い返してみれば、本当に好きだとか思った相手とこんな風になった事、今までなかったかもしれない。
専門学校時代にあの店で出会って付き合ったアイツとも、こんな風に普通にデートとかしたりしたけど、あの時もここまでドキドキとかはしなかった。
で、俺のこの前の誕生日以降、この前の喫煙所でのアレ以前も。
ここまで課長の事を意識してはいなかった。
だって俺は心のどこかで、どうせ駄目だと思っていたから。
課長、人がいいから。最初は合わせてくれていても、やっぱいつかは嫌になって、少しずつ距離をおいて来るだろうと思っていたから。
「やっぱ半熟がいいっすよね?」
鍋に溶き卵を回し入れて火を落とす。 「手際いいじゃん」とか言われて「そりゃ一応俺、専門ですから」とか行ったら課長、なぜか大袈裟なリアクションで笑った。
鍋の後の雑炊は俺も大好きなんだけど、俺は頭がぐるぐるしてなぜかおいてある鞄に引っかかってる課長の靴下ばかりに目が行っていた。
「?」
課長が一瞬、自分の胸を叩くような仕草をする。
そう言えば、まだ店に入ってから課長は煙草を吸っていない。
「課長こそ、遠慮しないで下さいよ」
俺はたまたま俺の手元の方にあった灰皿を差し出した。だけど課長は曖昧な返事をして遠慮をするように手を振った。
課長は結構ヘビースモーカーな方だとは思う。だけど食事時は禁煙席を頼む事が多い。 俺は吸わないからわからないけど、喫煙者でも食事時は煙草は嫌なんだとか言うような事を言っていた。
で、外へ出てからバス停とかスーパーの入り口とか、俺たち営業は良く外での公共トイレをチェックしておく事があるけど、 課長は目ざとくそういう公共喫煙スペースを見つけては一服するわけだ。
だから俺はその時も、課長が家族連れのいるような店では煙草は遠慮したいのかと思って、だったら食事が終わったらさっさと店を出たいだろうと。
「ン?もうお開きか?」
俺は伝票を手に取った。最近何もなければ素直にワリカン。 チェーンの店のPOSレジの分りやすい伝票を見て計算する。 ふと目を課長にやれば、靴下を履いてくにくにと足の指を動かしている。
なんつーか。
本当になんでもないこんな仕草が、この人は本当に可愛い──とか思った。
「静姫にさ」
「えっ」
静姫、静川さん。商品開発の紅一点で、千田フーヅの経営者一族の縁故採用で。
「下で煙草吸ってたら恐い顔されちゃってさー」
下ってのは社の喫煙所のことだ。工場への通路の脇にある。
静川さんは俺の先輩社員で縁故だけど仕事は一生懸命やっていて、お嬢様育ちでちょっとワガママなところがあるけどいい人だ。
そんで───多分課長の事が───好きだ。
俺、結構女友達にこういう事相談された事があるので、なんとなーくわかる。
静川さんみたいなタイプは好きな人に好きだって素直な態度に出れない。 だけど気になるからつっかかるような態度に出ちゃう。だけど仲良くなれたらきっとそういうところが可愛く見えてくる、 そんな感じの人。
「やっぱあれかなぁ、今時煙草吸ってると嫌われンのかなぁ」
何で急にそんな静川先輩の話が出たのかと思ったら、そういう事だった。静川さんは課長の喫煙が体に悪いって事を真面目に心配していたりして。
彼女は正論だと思う事だと、時と場所を選ばずぽんぽんと飛ばしてくる事が時々ある。 相手が実際にはそれをどう思うか、に気を回さない彼女のお嬢様育ちらしい部分で、また課長に何か言ってしまったんだろうか。
で、つい俺はそんな彼女に同情してだろうか、ついまた余計なことを口走ってしまったんだ。
「そんなことないですよ」
言ってしまってしまった、と思った。
ああ、俺、いっつもこうだ。言わない方がいいような事をついうっかり言っちゃうんだ。 静川さんが課長の事を好きだなんて、そんな事伝えて余裕かましていられる立場じゃないってのに。
課長がびっくりした顔でこっちを見てる。だけどもう言い出しちゃったから、俺の口は止まらなくて。
「静川さん、課長の事、本当はす──尊敬してるって」
しかも言わなきゃいいと思うのに、ちょっとずるい言い回しをした自分が嫌にもなった。
俺ってバカだ。本当にバカだ。
「タバコも──体に悪いから。心配してるんですよ、彼女、陰で課長の事」
でも、もう、言っちゃったからしょうがない。この事を黙っているのって、 なんか卑怯な気がしたし、二人が互いのこと誤解したままってのも──。
じゃないよー……。俺、ホントウに馬鹿だよ………。
これで二人仲良くなっちゃったらどうすんだよ。どう考えたってそっちの方が自然じゃん。
二人の間でのわだかまりがなくなれば、障害は歳の差と身長差ぐらいだ。歳の差は──10歳ぐらいかな。 何でもないよな、それくらい。身長差はたぶん間違いなく静川さんのほうの背が高い。 でもきっと二人とも、そういう事は気にしない。いや、むしろそういう事を気にする静川さんを、課長は可愛いとか思うに決まって───。
「及川?」
課長の一声。きょとん、とした顔で下から見上げられる。眠そうな印象を与える二重まぶたをぱしぱしとかさせて。
「お前、どうよ」
「え?」
「タバコ」
課長、別に今の会話から何をどうとも思わなかったのか。気づいても表に出さないだけなのか。 俺の動揺なんか関係なくのほほんとしている。
俺はハンガーに掛けていた上着を取った。こんなタイミングでどうかとも思ったけど、 俺は今日は最初からそのつもりで、だけどなかなか切り出せなくていたモノを上着のポケットから取り出した。
「何…これ」
「えと…その…」
本当は課長みたくさりげーなーく行きたかったけどどうせ俺なんかにはそういうの無理だし。 だったら気持ち落ち込み気味な今、いっそ思い切って渡してしまってもいいかと俺はちょっとヤケ気味に切り出した。
「課長、誕生日。ちょっと早いですけど…」
今度の19日で課長は41歳。
俺とは…静川さんよりもっと歳が離れてる。
「へぇ、またポケット膨らませてるから、お菓子でも入ってんのかと思ってたよ」
そんな落ち込む俺をよそに、また軽口。それでも俺の勝手な落ち込みがちょっとは軽くなる。
いいか、と目で聞いてきたので「どうぞ、開けて下さい」と言うと、ぱりぱりと包装紙を剥がす音。
「…へー……」
プレゼントを買おうとして、俺、課長のことまだ全然分ってない事に気づく。 今住んでる社宅がどことか実家はI郡でとかそういう事は知ってるけど、聞き上手な課長に俺は自分の事ばっか話していて、 課長の話はいっつもはぐらされる感じで聞き逃していて。
好きな事とかも、休みの日にTVのスポーツ中継を見ている以外の話とか殆どしていない。
じゃぁブランド物の何か、とか贈ったら却って引かれるのは目に見えている。 過ぎた見栄を張ってもみっともない、ってオヤジもよく言っていた。
「っと、じゃ、これが今の質問の答えって事か」
「ああ、そうなりますねぇ」
だから俺が送ったのはポケット灰皿。あ、でもそこそこいいもののはずだよ。野外スポーツ用の、ストラップがついていて、丈夫そうでシックな感じの。
課長はヘビースモーカーだけどマナーはいいので、ポケット灰皿を持ち歩いているところをたまに見かける。 ただ、試供品っぽい小銭入れみたいなヤツで、すぐダメになる、なんて愚痴をこぼしていて。
課長しげしげと灰皿を見て。ストラップの長さを調節したり、蓋の開け閉めしてみたりしている。
「……お前は気にならない?」
「何がですか?」
「俺がタバコ吸ってる事」
「え」
───どういうつもりだろう。
俺は一瞬悩んで、で、この前の喫煙所の会話を思い出す。そうだ、俺、静川さんにつられて、タバコの事でちょっと課長にキツくあたっちゃったんだっけ。
でも、俺ホントウは何とも思ってない。確かに健康には良くないし、マナーの悪いヤツを見るとムカつく。
だけど俺が知る前から課長はタバコを吸っているわけだし。 周囲にちゃんと気づかいながら吸っている姿も知ってるし、それに煙草を吸ってない課長とか想像できないし。
「…っつーか、それが課長なわけだから───」
課長の健康の事まで、静川さんみたいに強気で心配するべきなのかな。
ちょっとそれも出すぎた真似な気もして、でもどういう考え方でいればいいんだろうか。
「だけどよ」
その時だった。
商談だと思われていたせいか、店員も呼ばなければ無駄に空いた皿を下げに来たりはしない。そして個室の襖はぴっちりと閉められていて。
開けようと少し身をかがめて手を伸ばした姿勢になった時、急にネクタイにぐい!と引力がかかった。
「………っ」
「!?」
「口、ヤな匂いとかしね?」
か……
課長────────!!!!!????
「こら、おい、及川?」
それは意外にもあっさり訪れた。
それも全く予想してなかった形で。
匂い、ああ、タバコの匂い、確かにしました。あと、日本酒と鍋の匂いもね。
それと柔らかい感触と、無精ひげがちく、とか。
よくある量産品の男性用化粧品の匂い?とにかく課長の─────。
あんまりにも突然の出来事に俺は言葉を失う。足元ぐらついて、マジ、倒れそう。
課長まだ俺のネクタイを掴んでる。で、こっちを見てる。
何でこのタイミング?しかもどうして、
課長から─────?????
俺、間違いなく真っ赤だ。耳まで熱いのが、自分で、わかる。
鼻の奥が痛い。視界が変な風に歪む。スッゲー舞い上がっちゃったせい?
「…なんで泣いてんだよ…」
え、俺、泣いて?、え?
ア、ホントだ。今、ぽろ、とかこぼれて。
「何かオレ、酷い事したみてぇじゃねぇか──」
課長困ったように眉寄せて、少しだけ口の端を歪めた。
チェーンのちゃんこ鍋屋。個室だけど、襖一枚へだてた向こう、普通に他のお客さんとか店員とか居るんだけど。
喰い散らかしたテーブルの横に男二人して突っ立って───。
軽く触れるだけのモノだったけれど、俺たちの最初のキスは課長から、だった。
「及川……?」
俺、きっと初めてだ。本気で好きな人とのキス。だって嬉しくて本当に涙が出るなんて、こんな事も初めてだから。
「なんか、まずかったかな…」
課長の手がオレのネクタイから離れた。ゴメン、とかいった風に鼻の頭を掻きながら、気まずそうに俯かれてしまった。
それで、もう、そん時。
そんな課長の姿を見て、もう、何も考えられなくなった。
もう、いいんだ、俺。
我慢しなくていいんだ、俺───。
「及か…」
気まずそうに目線を落として、「帰るか」と。
襖をあけようとした課長の腕を今度は俺が掴んだ。
「……っ…」
タバコの匂い、鍋の匂い。
ちょっと夕方で伸びたヒゲがちくちくあたって。
だけど───すごく、気持ちいい。
おそるおそるその薄い唇を舌でなぞると、薄く、課長、口を開いて───。
本当に好きな相手とのキスが、こんなに気持ちいいなんて。
舌が触れて、絡んで。苦しそうに息を継ごうと離そうとする課長の唇。
離したくなくて慌てて喰らいついて歯が当たる。痛そうにちょっと課長眉間にシワをよせて、だけどその顔に余計俺はズキンと来てしまって────。
店員の足音に気づいて課長がどうにか俺を引っぺがすまで、ただメチャクチャに俺は課長を求めていた。 もともとヨレヨレな印象の課長はよけいくたびれた印象になって。
「…………スミマセン」
「……何謝ってんだよ……、バーカ」
俺はきっとまだ顔は赤かっただろうし眼はウルウルしていただろうし。
よっぽど飲みすぎたと思われた俺たちに、店員が気を利かせてお冷を持ってこようとしてくれた。
店を出ると夜の空気が心地良かった。そんな少しひんやりとした空気に少しだけ心が落ち着いた。明日も仕事。 いつもならこれでお開き。
会話もなく、いつも以上に別れを惜しむような空気にさっきの出来事が夢ではなかったのだと思えるのだけれど。
「じゃ、早速、使わせてもらうか」
店を出て、課長、まずは一服。ふーっと大きく紫煙を吐いて、ネオンに紛れて瞬く星を探すように空に目をむけている。
そのとたんに。俺の頭がさっきの異常な興奮から急速に───冷めた。課長はいつもと同じ感じでトボけた表情。 「これからどうする?」といった目線でこっちを見るんだけど。
俺は───課長が何を考えているのかわからなくなって、急に不安に───なった。
課長が遊びとか、俺をからかおうとかいう気持ちで、あんな事をしてきたわけではないのは分っている。
だけど────、だけど。
「帰りましょう──」
明日も仕事だし、と。
俺、ホントのところ、頭の中では課長と色んなことヤル事とかやっぱ考えていた。
だけど実際、こうなってみて。
なんか、なんかブレーキがかかる。俺ん中で。
わからない。何だかわからないけど、俺は一旦気持ちを落ち着けたかった。
「───だな」
課長がちょっと意表をつかれた、みたいな顔を一瞬して。で、いつものポヤヤンとした表情に戻った。
「アリガトな、これ」
「いえ、…役に立てるといいんですけど」
ちゃんこ鍋屋のある繁華街を抜ける。交差点から課長の社宅へのバスの停留所と、俺の自宅への方向は別で。
俺はいつも課長と別れる時は、次の日どうせ社で会えると分っているのにタラタラと未練がましく去っていく姿を見送ったりするんだけど。
その日の俺は、短い挨拶の後振り向く事もなく、鼻をすすりながら真っ直ぐ家に向かった。




