経過報告(4)
(4)
「お前休みだっつーのにゴクローさんだなぁ…」
「いやあ…」
インターフォンの音にドアを開ければアパートの通路に、見慣れた姿が照れた様子でぬぼーっと立っていた。
まぁ、確かにガキの頃は忘れ物大王だったさ。
そしておっちょこちょいな性格を直すより、失敗をフォローするスキルのほうを身につける方向でここまで来てしまった。 で、最近の俺の生活範囲もすっかり固まっているので、どこに電話を置き忘れたかなんてのは直ぐに予想はついていたんだが。
万が一他人の手にあったらと、会社の携帯(こっちはちゃんと持ち歩いてた)から自分のにかけてみたら出たのは及川だった。
やはり会社かと取りあえず一安心した。どこにあるのかわかればよかったので、俺はそのまま引き出しにでも入れておいて貰おうと言おうとした。 俺たち世代は携帯なんか無かった頃の生活も長いから、手元に無くても用が無ければ不安な気持ちにはならない。
だけど及川世代たちはそうでもないらしい。
《ご自宅ですか、俺、今日車なんで届けます》
そう言って、まるで大変な事みたいに焦った声で、俺の返事も待たずに電話を切ってしまった及川―――。
俺はもう一度、自分の携帯にかけて「来なくていい、と」。
そう言おうと。そう思ったのに俺はそのまま端末を握りしめていて。
「(何焦ってんだ――あのバカ)」
何故か俺は、耳に残る及川の声のせいか妙にくすぐったいような気分になっておいり―――。
俺が「やっぱやめよう」と言ったとき、及川は思っていた以上に冷静に俺の話を受け止めた。 理由も聞いてもこなかった。あまりの落ち着いた受け答えに、大騒ぎするほど俺のことを好きじゃなかったのかも知れないとも思った程だった。
だったらずっとこっちも気が楽だったのだが、及川の気持ちがまだこっちを向いていることバレバレだった。 別れたってのに、気がつくと感じる及川の視線。しかも本人はと言えばまったく無自覚らしく、 目が合うと慌てたように逸らしてはもじもじとしていて。
残念ながら…あの隠し事の下手さに気づかないほど、俺は朴念仁ではない。
俺はあの視線を覚えていた。告白されるもうずっと以前から、アイツはずっとあんな目で俺のことを見ていたんだ。
あの頃はまさかこんな裏があったなんて考えもし無かったから。だが今の俺はその視線の意味を知っていて、 それは思い起こすたびに俺の心をちくちくと苛み―――。
だけど俺は自分に言い聞かせた。その焼けるような感覚は、切り離そうとしてるから余計に未練がましく感じているだけだと。 自分のものじゃないと、返って惜しいとか思う人の心の罠だと。
そんなまだ及川へ感じている未練と言うエゴを否定する為に色んな事を考えた。 目の前の仕事、世間体、俺の嫁さんの心配をしているオフクロの事、及川自身の将来のこと。
なのに、電話を届けてくれると言う及川を俺は待っている。まだ何かを期待して。
おれはもうそんな自分が情けないやら可笑しいやらで――――。
「アリガトな」
「いえ」
それでもまだ、俺は何でもないって顔で及川を迎えた。俺の礼に答える及川のはにかんだ笑顔。
俺がしていい事は、せめてこの瞬間の及川の笑顔を独占する事だけだ。及川が早く気持ちが切り替えられるように、 いつも通り、いや以前よりはもう少し距離を置いて接するように気をつけながら。
だけど、携帯電話を受け取った瞬間だった。
「お前、ナニこの匂い」
「え、やば、ヤッパ匂います?」
お菓子のような、ココナッツ系の甘ったるい匂いが及川からした。
急にあの日のキスが脳裏に蘇った。これまでだって別に実際はそんな匂いはしなかったんだが。 ただ良くパートさんや年配の女性社員に可愛がられている及川は、よくチビッコみたいに何故かお菓子を貰っていて。 そのせいか俺は何となくずっとコイツからはこんなお菓子みたいな匂いがするのではと思い込んでいて――――。
「オフクロの車借りて来たんですけど―――ちょっとキツイっすよね」
こんな事で簡単に俺の気持ちはぐらついてしまう。カーコロンの匂いを感じながら玄関から顔を出して指で示す方向を見れば、 路肩に派手な色の軽自動車が停まっていた。及川は家族と同居だ。 及川自身はまだ車は持っておらず、普通のセダン以外にあと一台を共有しているとの話だったが。
「え、あれ?あれか?例の。スゲェな。あの窓飾ってるヤツか」
「普段ほとんどオフクロ専用なもんで」
すごいのがあるとは聞いていたが、確かにすごかった。フロントのあたりに色々ゴチャゴチャと随分と実に賑やかな飾りまでついて。
「いやー、もう痛いッスよ?あれ乗ってると周りの視線が」
パステル調のカラーリングに、後部座席にはお約束のようにぬいぐるみが並んでる。
「何でだろうなー、視界を妨げて危ないと思うんだが」
「ですよねぇ」
世のカーチャンって人たちは何で車とかも飾りたがるんですかねぇ、などと話す及川は一応出社と言う事でいつも通りのスーツ姿。 で、この格好であの車を運転してきたのだからこれは笑うしかなかった。
笑って、そしてぐらついた自分を立て直して及川の暢気な話題にあわせて。
それでこのまま携帯届けてくれて助かった、ありがとう、と。及川を帰して今日はそれで終わりにすればよかった。
それなのに。
「―にしてもこの匂い、スーツに染み付いちゃったらヤバイですかね」
「ンー?」
にへら、と緩い笑顔で、及川がそんな事を言うから。
俺はついそれまで通り、及川のスーツの襟を掴んでしまい―――。
以前のように、ここで遠慮なく肩でも叩いて笑って済ませば良かった。
だけどやはり―――ここでそうできるほどまだ開き直りきれていなかった俺は―――。
「すまん…」
「いえ……」
しまった、と思ったときはもう遅く。
少しの間、互いに言葉を無くし。
別れるきっかけを無くし―――。
ポケットに課長の携帯の重みを感じながら、俺はまだ何か期待しようとしている自分をなだめようと努力した。
課長は時々自分の携帯を忘れる。無くてもちゃんとメモも持ち歩いていてるし、仕事の携帯は今のところ忘れた事はないから 仕事に支障はないといつも言ってはいるけれど、俺からすっと携帯が無いって状況が信じられない。
だけどそうやって本人が持ってきて、なんて頼んでないのに、俺、何やってんだろうと思ってた。
やっぱダメなんだ。俺、ちょっとでも課長と一緒にいる時間が欲しいんだ――――――。
でもあんま追い回すと、流石の課長だって嫌な気分になるだろう。
今手元に課長の忘れ物があって、立派に会う理由にはなっていて。 だけど、こんな風に自宅に押しかけたりしたら絶対引かれるかも、とか、ゴチャゴチャの頭。
社員名簿を見なくても課長の家は知っていた。この近くの大手スーパーに通っていた時課長が教えてくれた。
よくある単身用のアパートの2階。予想していたよりはこざっぱりとした私服で課長は出迎えてくれた。 心配したほどでもなく、あきれた様子だったけど俺がここまで来たことを嫌がってる風でもなかった。
「アリガトな」、なんてニッと笑った顔に胸がマジでキュン、とかなった。 さっきまで胸焼けがしそうだと思っていたカーコロンの匂いも、話のネタになって 俺は少なくとも課長をそんな不愉快な気持ちにさせたわけじゃなかったと安心した。
でもこれ以上しつこくウロウロしていては迷惑だろうから、と。
染み付いたコロンの匂いを気にしつつ帰ろうと思った瞬間―――。
課長がまた例の調子で俺のスーツの襟を掴んで。匂いをかごうとふっとその体を近づけて。
俺は「来た」と、思う。ずっと緊張していた瞬間。
こういう軽いスキンシップは課長の癖だ。片思いでいた時期、近づかれるたびに本当にドキドキした。
でももう俺たちの間は終わってるから。俺は気にしないつもりでいようと思っていたのに―――。
「あ…、ん、スマン、悪かった」
俺は――問題なかった。たぶん。
なのに課長の方が――――うろたえて。
互いに何でもないつもりでいた空気はあっという間に崩れてしまって――――。
「(………え)」
ああ、嘘だ。待ってくれ。待ってくれ、何で課長がうろたえるワケ?
瞬間、俺の中でずっと抱えていてもやもやしていた部分に光が当たった。
俺、もしかして何か勘違いしていたかもしれない。課長の事、違う風に思い込んでいたかもしれないって――――。
でも、だとしても、今更、今更聞ける話しじゃない。
だけどもしかしてもしかして、俺の思い込みと違ったところに課長の気持ちがあったとしたら―――――。
「お、及川―――」
俺は玄関の中に踏み入った。ゆっくりと――後ろ手でドアを閉めて―――。
俺にとって、別れ話が当たり前だったから。
まさか、本当にここに希望があるなんて思ってなかったから。
だけど俺がそうやって、課長の家に踏み込んだのに、課長は怒りもしなければ嫌がりもしなかった。
ただ、戸惑っていた。いつものポーカーフェイスが完全に崩れていた。
こんな課長、見た事ない。いつもどんな時も、本当は色々と抱えてるだろうモノを全部あのいたずらっぽい雰囲気で覆い隠しているけど。
「課長、もう一度―――」
「な、何――」
俺は思わず課長の腕を掴む。ちゃんと正面から俺を見て欲しかった。
「あ、の、スンマセン。あの、確かめ―――たいんです―――!」
「や、その――」
俺、別にそんな力は入れてない。
でも、課長、俺に抑えられたままで――――。
「(嘘だ――――)」
泳いだ目が、俺の正面にその焦点を結んでくる。ものすごく、困って―――切ないような表情が浮かんでる。
「及…川……」
悲しそうな、苦しそうな―――。
「何で―――」
「何で、ここで――ハッキリ俺の事、拒否しないんですか―――。」
ヘタレな俺に誰かを脅すような迫力なんてない。っつーか自分でも声が情けないほどへろへろしているのがわかる。
ここまで来て、やっぱウソだとしか思えない。でも、見た事ない課長のうろたえた態度に俺の中の希望がどんどんふくらんでしまう。
その希望が本当なのかここで 確かめないと、俺はきっとこのまま、アイマイな片思いを抱えたままの状態から抜け出す事ができなくなる。
「俺と付き合えないって言ってください――、あ、えっと、キライ、とか、気持ち悪いでもいいや――!!」
ムチャクチャなやり方やってるのはわかってる。でももう他に方法なんてわからない。 だからハッキリ否定の言葉がもらえれば、今度こそあきらめられると思ったから。
なのに、課長、途端に悲しそうな顔になって―――。
「何で課長、そんな顔するんです。普通、こんな事されたら嫌でしょう?気持ち悪いでしょう?」
「お前――」
課長、そんな俺の言葉に、逸らしていた目を見開いて俺を見た。
その中には――俺が恐れていた嫌悪感みたいな気持ちはひとつも感じなかった。
「そういう事…言うな」
課長の腕に、ゆっくりと。力が入って俺の腕をそっと引き剥がした。大きなため息を漏らしてその手であのデコをペチリとやって―――。
「ああ、クソッ」
課長、そのまま後ろの壁にもたれて顔をおおう指のスキマから俺をチラリと見た。そしてまた辛そうに目を閉じて――――。
「バカヤロウ……」
その一言で、俺は。
俺のわずかだった希望が本当にここにあるんだと感じた。
「課長、もしかして―――――」
「……」
もしかして――俺がずっと欲しかった形で―――――俺の事を―――――。
「―――――っ、」
抱きしめていた。ここで踏み込まなきゃ、もう何も手に入れることなんて出来ないと思った。
「こら及――、」
「課長、俺やっぱ課長が好きです。あきらめらんないです!」
腕の中、骨ばった感触。タバコの匂い、課長の匂い。
切なくて苦しくて――だけど。
「課長、頼むから。俺の事引っぺがして。「いい加減にしろ」とか言っていっそぶん殴って――」
「そうしないと――俺、夢、見ちゃいます――――。…課長もちょっとは――俺の事を―――――」
好きでいて、くれてるって。
抱きしめて一層、俺の不安は強くなる。
課長は多分色々な事を考えて、俺との距離を置こうとした。
普段の課長を見ていればわかる。俺の告白に答えてくれたのも、結局分かれようと課長から言った事も全部課長の優しさの形だ。
俺は結局課長に甘えている。どっちに答えが転ぼうと、課長の心の負担である事に変わりはない。
でも。
それでも俺は課長を好きでいる事を止めない。どうせ、俺の気持ちなんてこの人は皆お見通しだから、俺は正直に甘えたい人に甘えてやる。
俺の持ってる全部を晒して、それに課長がどんな答えを用意しても、それは俺にとって傷になんかにはならないから――――――。
肩口にかかる、課長の息。俺は更に抱きしめる腕に力を込める。
「……バカヤロウ………」
呟くような、小さな声。その言葉に力はなかったけれど。
骨ばった腕が俺の背中に回って。
そのまま、優しく、力が込められて――――――。
松本が要らない噂を流してくれて、余計な言葉をかけてくる相手もいたが、俺は皆適当に受け流した。 人の噂も何とやら。俺は俺が今、ここで求められている仕事をする。 会社の望むように働いているというスタンスは変わらないかも知れないが、少なくともあの頃と違い、 今の俺は自分が自分で何をやっているかはわかっているつもりだから、もう仕事の上では自分で責任を取れない失敗はしないだろう。
窓の向こう、またパートさんに捕まってお菓子をもらっている及川が見える。目が合って、にへら、と笑顔。
結局俺は――――あいつにとって、いい人生の先達でいようと努力を続ける事が出来なかった。
この歳になって久々に感じる甘酸っぱい気分。俺はしっかりその泥沼にずぶずぶと足を踏み入れてしまった。
俺が思っていた以上に、アイツは俺の事をわかっている。アホ面で隠した姑息で卑怯な部分も含めて―――。
もう通り過ぎた人生の折り返し地点。見えてきた俺の残りの人生。
「(しかし、ここに来てこういう道に嵌っちゃうかー……俺……、)」
目の前に切り開かれた思いっきり想定外だった道。だが改めて考えてみれば、 いい加減年齢的に鈍くも図太くもなっていた俺に、その事自体はそれほど衝撃的な出来事でもなかった。
だが間違いなくこれからも俺は、保身の為に自分の為にアイツに嫌な思いをさせる事があるだろう。
ま、こんな面倒なオッサンを好きになった及川が悪い、という事で。
俺はもうよっぽどのことが無い限りは今まで通りのらりくらりと行ってやれ、と。ウダウダと悩みの先取りをする事を放棄したのだった。




