3-5
『何も返せないというのに、彼らは、悸暎は私にたくさんの愛情をくれた。……ここで、この里で過ごせて良かった。だから――ありがとう、悸暎』
告げられた言葉に、悸暎は涙を浮かべそうになった。だがそれを堪えて、笑みを浮かべる彩霞を見た。
とても嬉しいと思うのにとても、悲しかった。
「……やはり、この里に残っては下さらないのですね」
落胆を思わせる声音に、彩霞は笑みを消した。何も感じさせない表情でふっと息をついた。
先程の笑みが嘘のように、その表情も声音も冷たさを増していく。
「言っただろう。私はいつだって、自分のために生きていると。――どのみち、この里にはいられない。かといって紅家にも行くつもりはない。私の望みは変わらない」
はっきりと告げると、彩霞は顔を背けた。先ほどと同じように窓の外を見る。そして、呟いた。
「紅家が動けば、奴らも動き始める」
悸暎は言われた言葉を反芻して首を傾げた。
「……何故…?」
「恐らく、奴らは紅家が動くのを待っているんだ。紅家に知らせるだけの時間をこちらに持たせたということは、そういうことだろう? ――やはり私が狙いなようだ」
不遜に笑う彩霞に、悸暎は眉を寄せた。
「姫様のことを知る者がいるのですか、彼らの中に」
「そうとしか考えられない。奴ら、試しているんだ。紅家が動くほどの人間がここにいるかどうか――」
「ですが、彼らはもう既に色家に追われているはずです」
「だが、この里は奴らに何も利益を与えない。金目の物があるわけじゃない、小さな里だ。それをわざわざ姿を見せて居座っている。居座ってまで手に入れたいものは何だ?」
確かに彼女の言葉はもっともだ。
「それを承知で紅家当主も誰かしら送ってくるはずだ」
「……長春といい、息子といい紅家の男はどいつもふざけた性格をしている。――失礼、気になさらず」
返ってきた低い声に振り返ると、にっこりと笑みを向けられた。
そういえば悸暎は先代当主と知り合いだったな、と思い出す。彩霞の祖父とも付き合いがあったとも言っていた。昔の話を聞かせてくれる度に、彼は紅家の先代に小言を呟いていた。
「では、姫様はどうなさるのですか?」
「何も。ああでも紅家の人間は気になるかな」
興味深そうに呟いた彩霞に、悸暎は呆れたように溜息をついた。
「……目立つ行動は避けてくださいね」
くれぐれも、と念押しすると彩霞は肩をすくめて答えたのだった。
悸暎が部屋を去るのを見届けて、再び外を見た。よく晴れた青空が広がっている。
穏やかな日常だった。少しだけ状況は異なるが、子供たちがはしゃぐ姿は、広がる景色は、穏やかな日常そのものだった。
これを幸せと言わず何と言うのだろう。少なくとも彼女はこれ以上の幸せを知らない。
だが、ここに祖父がいればと思ってしまうのも確かだった。
人間は欲深な生き物だ。当たり前にある日常を舞台に、自身の欲を満たそうとする。何かを求めようとする。なんて滑稽で、脆弱な生き物だろうか。それでいて、強さもあわせ持つ。なんて奇怪な生き物なのだろうか。
生きていく中で人々は求め続ける。求めなければ立っていられない、とでもいうかのように。
何かに縋り、依存して欲を満たし続けて、彼らは一体どこへ向かうのだろうか。そこに彼らの幸せがあるのだろうか。
では、彼らの幸せとは何を示すのだろう。ただの日常が当たり前になっている、彼らの幸せとは何なのだろうか。
――分かるわけがない。私は彼らではないのだから。
生きていく限り、答えなんて見つからないかもしれない。だが、疑問に思ってしまうのだ。人々が何を思い、何を想って生きているのか――。
彩霞は、思考を止めると溜息をついた。自分に呆れ、冷やかに笑う。
「今更、答えを求めて何になる」
すべて、どうでもいいことだ。今の彼女にとって必要なのは、彼女の願いを叶えてくれる人間なのだから。
彩霞は感謝していた。この状況を作り出してくれた間抜けな賊に。彼らが作り出したこの状況を利用して、彩霞は自らの望みを叶えられるのだ。
嬉しくてたまらなかった。どうしても頬が緩んだ。ずっと待ち続けた時が近づいていることを思うと、彩霞は笑っていた。
それは、ひどく冷たい頬を歪ませただけの作られた笑みだった。




