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ーー随分、感情表現が豊かになった。
とは言っても、まだまだ豊かというには程遠い。しかし、かつての彼女に比べればはるかに豊かと言えた。
窓際に頬杖をついている彼女の横顔を見て、彼は頬が緩むのを感じずにはいられなかった。
彼女の生い立ち、これまでの生活など一通りのことは聞かされた。正直、彼女を預かることに不安はあった。だが、彼女を目にしたとき、そんなことを思った自分を恥じた。
彼女はこの里に来た時、感情を見せることはなかった。無表情でまるで人形のようだったのだ。
何が彼女をそこまで追い詰めたのか。藍家の話を聞いて予想はできたものの、一切の感情を失った彼女に追求はできなかった。
彼にできることは、彼女に全く別の世界を与えてやることだった。
それからは、彼女の心を取り戻そうと必死だった。妻とともに新しくできた子供を育てるかのように、彼女に懸命に話しかけた。息子も、彼女を家族のように大切にしてくれた。
最初は、誰かが傍にいるとまともに食事すらしなかった。傍にいなくても彼女はほとんど食事に手をつけなかった。ただの置物のように座っているだけだったのだ。
だがそんな彼女も少しずつ、変わっていった。誰もがそれに喜び、彼女は他の人間とも接するようになった。
今では、彼女は里の者にとって大切な姫になった。
藍家の人間だという事実は妻と息子だけが知っている。それ以上のことは彼だけが知らされているのだが、それは言う必要のないことだ。
紅家の現当主が、彼女の生存を知れられないためにこの里を選んだのは正解だった。
紅家縁の姫ーーいつの間にか里の者たちの間で、そう定着しているのは知っている。
しかし皆、それぞれ複雑な事情を背負ってこの里で暮らしているからこそ、深く追究せずにいてくれる。それどころか、この里の人々は彼女をとても大切に思っている。
強い者たちだと思う。どれだけ過去に酷い目に遭おうと、経験をしようと彼らは人を愛することができる。この里にいる者たちはとても他人を大切にする、強い者たちばかりだった。
幸せそうに今を生きる彼らを想い微笑むと、ふいに現実に引き戻された。
「――悸暎?」
「ああ、いえ。少し、昔を思い出しておりました」
怪訝そうに振り返った彩霞に、矢神の里の長――悸暎は穏やかな笑みを浮かべた。彩霞は一瞬、不思議そうに悸暎を見た後、目を逸らした。
「……悸暎はことあるごとにそればっかりだな」
ため息混じりのその言葉に、どうやら昔話を聞かされると思っているのだと分かる。さっさと、話を変えられてしまう。
「――首尾は」
「相変わらず、動きはありません。もうすぐ彼らが現れて三月になりますが……」
この一年鳴りを潜めていたはずの賊が矢神の里から北西にある、今は使われていない寺跡に居座り始めた。
最初にその姿を確認したのは、彼女だった。里周辺を嗅ぎ回っている彼らを見つけ、すぐに悸暎に知らせにきた。
「皆は」
「さして混乱を招くこともなく、常日頃と同じように振舞っています。強い者たちです。ある程度のことは耐えられます」
「……子供たちが何もしなければいいが」
外で動き回っている子供たちを見て彩霞が呟く。
矢神家の庭では、総悟や結を含めた子供たちが遊んでいる。いつもは、広場や里からすぐの川などで遊ぶことが多い彼らは、ここ最近この矢神家に入り浸っていた。
「今は遊び場を取り上げられたも同然ですから。それに無茶はしないよう言い聞かせてあります」
この里長は、里の人間にとても信頼されている。おおらかな人柄もあって、この矢神邸には、皆、気軽に訪ねてくる。
「大人たちもよく目を配ってくれていますので、さほど心配ないかと。……まぁ二人ほど問題児はいますが、姫様の言うことなら聞くでしょう」
二人というより一人な気もするが、と溜息混じりに呟いて悸暎を睨む。
「それより、その呼び方はやめろと言っているだろう。確実に彼らに知られるだろう」
彩霞の言う彼らとは賊のことではない。それを正しく理解して、悸暎は笑みを消した。
「……紅家は動くでしょうか」
「……動かざるをえない状況だからな」
「姫様は、どうなさるおつもりですか」
悸暎だけは、彩霞が藍家を滅ぼしたことを知っている。そして、彼女の望みも――。
「……悸暎。私はね、ここに来れて幸せだったよ。この里が好きだった」
突然告げられた言葉に、悸暎ははっと息を飲む。
「ここでの暮らしは温かくて、まるで昔に戻ったかのようだった。私を受け入れることが、どれだけの危険を伴うか分かっていたのに、お前は断らなかった。私のしたことを聞いてもなお、守ってくれた。里の人間も私を受け入れてくれた。それはとても嬉しかった」
ふと寂しそうにかすかな笑みを浮かべる。
「何も返せないというのに、彼らは、悸暎は私にたくさんの愛情をくれた。……ここで、この里で過ごせて良かった。だから――ありがとう、悸暎」




