私たちは、代金ではありません
オルド大司教は、北方へ入る最後の大きな町で待っていた。
宿の前に神殿の馬車が停まっていた。
つないだ手を、反射的に放しかける。
アレンは放さなかった。
「隠す必要はない」
私は握り直した。
大司教は食堂の奥にいた。
王都で見たのと同じ、穏やかな顔だった。
手元を見て、目を細める。
「順調なようで、安心しました」
私は座る前に聞いた。
「何が、ですか」
机には北方の地図があった。
黒い染みが、幾つもの村を覆っていた。
「裂け目は予測より速く広がっています。これ以上の寄り道は――」
「代償について説明してください」
アレンが遮った。
大司教は私たちを見比べた。
やがて、うなずく。
「先代聖女の説明は、事実です」
私は膝の上で両手を握った。
否定してほしかったのだと分かった。
誤った伝承だ。
今は改善されている。
そう言われることを、まだ期待していた。
「封じの核になるのは、二つの適性を持つ者が、互いと生きる未来を望むことです。その心と、そこへ至る記憶を用います」
「どうして、最初に教えなかったんですか」
「知れば、恐れるからです」
「当然でしょう」
大司教は指を組んだ。
「互いを避け、封じを完成させられなかった代があります。魔王の身体を倒しても、新しいものが生まれた。多くの民が失われた」
「だから、次の二人には黙っておくと?」
「同じ犠牲を繰り返さないためです。命を捨てろと申し上げているのではない。お二人は、生きて帰れる」
「忘れるだけなら、安いと言いたいんですか」
「そのような言い方はしていません」
「言い方を整えただけです」
返す気のない借金を、返済時期の再検討にする。
奪う土地を、境界の再調整にする。
失わせる恋を、帰還後の混乱にする。
よく知っている仕事だった。
「私たちは、何を失うのかも知らずに、ここまで来ました」
「だからこそ、自然に結びつくことが――」
「自然?」
大きな声が出た。
後ろの神官兵が動いた。
アレンが半歩、私の前へ出る。
「婚約式も、一つしかない寝台も、用意した台詞も。必要な準備だったんですか」
「互いを知る機会が増えるよう、配慮はしました」
胃の奥が冷たくなった。
川辺の告白まで、予定の中にあったのだろうか。
「ノエル」
アレンが呼んだ。
顔を上げられなかった。
「俺が橋を直したのは、この人に言われたからじゃない」
大司教が口を開きかけた。
アレンは続けた。
「君が子供を数えたことも、俺の悪い夢につき合ったことも。誰かの台本ではない」
私は、ようやく彼を見た。
彼は大司教へ向き直った。
「会うきっかけを作ったことまで、なかったことにはできない。でも、そのあとの全部を、あなたの手柄にするな」
静けさが落ちた。
大司教は王家の命令書を広げた。
北方要塞へ集結し、討伐の準備を行うこと。
「詳しい説明は要塞でいたします。それまでは別々にお休みください。旅の記録も提出を」
私は鞄を抱えた。
「これは私のものです」
「儀式に関わる内容が――」
「私の恋まで、あなたの管理する資料にしないでください」
ダグが命令書を読んだ。
「集結命令は承りました。ただ、私物の提出は記載されていません」
「協力を求めています」
「では、拒否もできると理解します」
彼は私の前に立った。
要塞へは行くことになった。
アレンは剣を抜かなかった。
命令を聞いて立っている兵士まで、敵と決めたくなかったのだと思う。
馬車へ乗る前、彼が私へ言った。
「さっきの告白は、取り消さない」
私は、大司教の前で初めて、婚約者らしく笑った。
「私もです」




