聖女を降ります
要塞の客室は、牢ではなかった。
鉄格子はなく、寝台は清潔で、食事も温かい。
ただ、外へ出ようとすると兵士が困った顔をした。
「大司教様の許可を、お待ちください」
断れない親切は、よくできた鍵になる。
私は帳面を開いていた。
書けなかった。
自分の気持ちまで仕込まれたのではないか。
そう考えると、どの言葉にも、誰かが手を加えた跡があるように見えた。
夕方、リゼが来た。
机へ二つの冊子を置いた。
一つには、まだ起きていない出来事が書かれていた。
勇者を抱きしめる聖女。
民衆の前で永遠を誓う二人。
祝福の帰還。
「よく書けていますね」
冷たい声が出た。
彼女はうなずいた。
「はい。私の仕事でした」
もう一冊が開かれる。
『聖女、勇者を叱責。
理由、自身を保護対象に含めなかったため』
『両名、菓子の分配について口論。
深刻ではない』
私は最後の行を指で押さえた。
「深刻な場合もあります」
「訂正します」
少し笑えた。
「王都に弟がいるんです。まだ九歳で」
リゼは言った。
「世界を救ってほしい。それは今も変わりません。だから、知らない方がよいこともあると思っていました」
指先に、乾いたインクがついていた。
「でも、お二人が怖がることまで、私が記録から削ってよいわけではありませんでした」
扉が叩かれた。
ダグとアレンが入ってくる。
「どうやって?」
「要塞司令官に、命令の範囲を確認しました」
ダグが答えた。
「集結と準備は王命です。ですが隔離は、大司教の指示にすぎない。異議があれば王都へ照会するとお伝えしました」
廊下の兵士が、要塞側の制服に替わっていた。
「しばらく揉めますな。ですが、揉めないためにお二人を閉じ込めておく仕事は、引き受けておりません」
アレンが私を見て、息を吐いた。
それだけで、私も呼吸しやすくなった。
*
私は、大司教との面会を求めた。
広間には兵士や役人がいた。
その前で、白い外套を脱いだ。
金の糸で祈りの縫い込まれた重い布を、机へ置く。
「その衣を脱ぐ意味が、分かっていますか」
大司教が言った。
「はい」
「聖女の務めを放棄すると?」
「あなたの指示どおりに笑う聖女を、やめます」
どよめきが起きた。
「私の気持ちを説明しないでください。言っていない言葉を、私のものとして配らないでください。何を失うのか隠したまま、差し出す約束をしたことにしないでください」
「それで、民を見捨てるのですか」
「それは今から、自分で考えます」
私は息を吸った。
「世界を救いたい気持ちまで、あなたに返すつもりはありません」
そのとき、鐘が鳴った。
短く、何度も。
北の空に黒い線が走っていた。
世界の皮膚を、爪で裂いたような線だった。
アレンが剣を抜く。
私も走った。
通路で、少女が倒れていた。
脚に窓の破片が刺さっている。
「布を!」
振り返ると、リゼが外套を抱えて追ってきた。
私が机へ置いたものだった。
受け取り、裾を裂いた。
傷の周囲を圧迫する。
「聖衣を、そのように――」
神官の声がした。
「布です!」
私は叫んだ。
「今は、血を止めるための布です!」
ダグが少女を抱き上げた。
私は右手を上げ、階段の窓を塞ぐ結界を張った。
外套がなくても、聖印は光った。
それが、不思議なくらい嬉しかった。
*
夜明け前、リゼが避難所へ戻ってきた。
書類箱を抱えていた。
「行政棟から、搬出している途中で見つけました」
疲れた顔をしていた。
けれど、震えている理由は疲れだけではなさそうだった。
一枚の紙が置かれた。
表題は、聖女ノエル・フェン帰還後発表文。
『私は勇者様への気持ちを、旅の熱に浮かされた一時のものと誤って受け止めておりました』
私は最後まで読んだ。
そこには、私の心変わりで婚約を解消する、と書かれていた。
まだ帰ってきてもいない私の、帰還後の言葉だった。




