好きにならないための追加条項
その夜、アレンは私の向かいに座らなかった。
食堂には席が空いていた。
それでも、ダグの隣を選んだ。
いつも向かいに座る契約ではない。
そう思いながら飲んだ汁物は、味が分からなかった。
食後、廊下で呼び止めた。
「避けていますか」
彼はすぐには答えなかった。
女将が洗濯物を抱えて通っていく。
見えなくなるまで待ってから、言った。
「少し」
「理由を聞いても?」
「近くにいると、難しくなる」
何が、とは聞けなかった。
答えをもらってしまいそうだった。
部屋へ戻り、契約書を広げた。
「追加条項を考えましょう」
アレンが椅子を引いた。
いつもより遠くへ座った。
私はペンを持った。
婚約者としての演技は、公の場に限る。
「これなら、余計な誤解を避けられます」
「そうだな」
「菓子も、できれば二つ買いましょう」
「そうする」
「個人的な贈り物も」
「ああ」
二人の間を広げるための文章が並んだ。
仕事なら、得意なはずだった。
顔も見たくない求婚者への断り状。
仲直りするつもりのない兄弟への通知。
どれも、もっと滑らかに書けた。
「ノエル」
私はペンを置かなかった。
「何ですか」
「君が嫌になったわけじゃない」
「分かっています」
「分かっていない顔をしている」
顔を上げた。
彼は困っていた。
礼法の練習よりも、魔獣を見たときよりも。
「君を好きになるのが、怖い」
インクが落ちた。
拭おうとして、余計に染みを広げた。
「ずいぶん、手遅れみたいな言い方ですね」
アレンは否定しなかった。
私も、笑えなかった。
*
翌日、私たちはできるだけ勇者と聖女として振る舞った。
訓練し、移動し、食事をした。
私的な話は避けた。
結界は問題なく張れた。
距離を取る技術は、上達していた。
それなのに、彼がどこにいるかは何度も確かめてしまった。
夕食の菓子には干し葡萄が入っていた。
私がそれを皿の端へ寄せる前に、アレンの手が動きかけた。
途中で止まった。
私は自分で食べた。
おいしくなかった。
夜中、水を飲みに出ると、隣の部屋から苦しそうな声がした。
扉を叩く。
返事はない。
「アレン」
少しして、扉が開いた。
額に汗が浮いていた。
「夢ですか」
「ああ」
入っていいか聞くと、彼は迷ってから横へ退いた。
私は窓辺の椅子へ座った。
「昔、一緒にいた兵士が死んだ」
アレンは寝台の端で、自分の手を見ていた。
「俺が先に戻れと言っていれば、助かったかもしれない」
あなたのせいではない。
その人も恨んでいない。
そう言い切るほど、私は何も知らなかった。
「お水を持ってきましょうか」
「……頼む」
杯を渡すと、指が震えていた。
私は空いた方の手を見た。
「触れてもいいですか」
彼が顔を上げる。
「演技ではない」
「知っています」
うなずいたので、握った。
ただ、そうしていた。
祈りも、慰めの台詞もなかった。
水差しの水が、ときどき揺れた。
やがて呼吸が落ち着いた。
「また、君に無理をさせているだろうか」
「眠いのは、本当です」
「なら――」
「戻るかどうかは、私に決めさせてください」
彼は口を閉じた。
握っていた手が、少し緩む。
帰ってもいい強さだった。
だから私は、もう少しだけ、ここにいることにした。
「追加条項は」
「明日、見直しましょう」
私は答えた。
「今のところ、あまり役に立っていないので」
彼は疲れた顔で笑った。
朝、部屋へ戻ると、契約書の染みは乾いていた。
消しても、なかったことにはならない。
私は追加条項に、一本ずつ線を引いた。




