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勇者様、私との婚約は世界を救ったあとで破棄してください  作者: 週休七日


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6/20

世界を救った人の台所

 先代の聖女は、豆の筋を取っていた。


 王都には、彼女の大理石の像がある。

 純白の衣をまとい、天へ祈る美しい像だ。


 目の前の女性は、色の褪せた前掛けをつけていた。

 爪の間に少し土が入っている。


「聖女セラ様でしょうか」

「今は、セラ・ラウよ。豆が焦げるから、中で話してもいい?」


 台所には湯気が立っていた。


 白髪の男性が、椅子を運んでくれる。


「夫のミロ。昔は本を売っていたの」

「今は、家の中で本につまずく係です」


 穏やかに笑う顔は、先代勇者の肖像と似ていなかった。


 セラさんが私の視線に気づいた。


「エドガーではないわよ」


 私は慌てて頭を下げた。


「申し訳ありません」

「よくあることだから」


 その言い方に、長い年月があった。


 冊子の写しを見せると、彼女は鍋の火を弱めた。


「どこまで聞かされているの」


 アレンが答えた。


「魔王を倒したあと、聖剣と聖印で裂け目を閉じる。代償に、力を失うと」


「それだけ?」


 彼はうなずいた。


 セラさんは、しばらく目を閉じていた。


「変わらなかったのね」


 私は右手を見た。

 白い印が、皮膚の下に沈んでいる。


「ほかに、何を失うんですか」


 彼女は棚から、二冊の帳面を持ってきた。


 一冊は、旅の間の日記。

 もう一冊は、帰還後の記録だった。


 古い方を開く。


『エドガーが、また傷を隠していた。

 私が怒ると、困った顔で笑った。

 あの顔をされると、それ以上怒れなくなる。

 ずるい人だ』


 普通の文章だった。


 祈りでも、讃歌でもない。

 好きな人への、小さな不満。


「封じに使うのは、聖なる力だけじゃない」


 セラさんが言った。


「二人が互いを、生涯を共にしたい相手だと思う心。そして、そこへ至るまでに育てた、二人の間の記憶よ」


 私は、言葉を理解できなかった。


 意味は分かった。

 けれど、自分と結びつかなかった。


「忘れる、ということですか」


「相手への恋と、相手に向けて生きてきた私的な時間を」


 彼女は、説明を急がなかった。


「自分の家族や、友達まで忘れるわけではない。身につけた技術も残る。相手の名前や役職、公に起きた出来事は知識として分かる。儀式で何が起こるか、という説明も覚えている」


「では、旅は」


「穴の空いたものとして残るわ。仲間と川を渡ったことは分かる。でも、その間、あの人と何を話して笑ったのかがない。帰りたい町は覚えているのに、そこへ誰と帰りたかったのか、気持ちが取り出せない」


 アレンの指が、机の下で少し動いた。


 私の方へ。


 けれど、触れなかった。


「紙は、残るんですね」


 彼が聞いた。


「ええ。贈り物も、他の人の記憶も消えない。だから何があったか、学び直すことはできる」


 セラさんが日記を撫でる。


「でも、読むことと、思い出すことは違った」


 私は、ずるい人だ、という文字を見た。


 どんな顔で書いたのだろう。


 それが、もう本人にも分からない。


「また、好きになることは……」


「できるかもしれない」


 答えは優しかった。


「でも、必ずではない。私たちは、ならなかったから」


 ミロさんが、黙って湯を足した。


 セラさんは、その手へ自然に触れた。


「恋する力まで、なくなるわけではないの。エドガーにも、今は別の家族がいる」


「新しく恋をしたら、封印は?」


 アレンが聞く。


「影響しない。差し出すのは、儀式のときまでに生まれた二人の結びつきだけ。未来の心まで、取り立て続ける術ではないから」


 私は、少しだけ息を吐いた。


 それが救いなのかは、まだ分からなかった。


「私の人生を、不幸だったことにはしたくない」


 セラさんが言った。


「でも、旅をしていた私が失ったものを、たいしたことがなかったことにも、したくないの」


 私は黙っていた。


 失っても、生きていける。


 その言葉を、まだ救いとして受け取れなかった。


「なぜ、隠すんですか」


 アレンの声は低かった。


「知ったことで互いを避け、封じを完成させられなかった代があったそうよ。同じ被害を繰り返さないためだと、私たちは説明された」


「いつ」


「魔王を倒しに行く、直前」


 王都の薔薇。

 一つしかない寝台。

 まだ言っていない恋の台詞。


 それらが、別の形に並び替わっていった。


「私は帰ってから、次の二人には伝えるべきだと何度も書いた。でも、治療が必要な人の言葉として扱われた」


 彼女は冊子を持ち上げた。


「全部は隠せない。だから、信じるに値しないものにしたのでしょうね」


 帰り際、彼女は私の手を取った。


 聖印のない、年を重ねた手だった。


「嫌だと思っていいのよ」


 私は顔を上げた。


「世界を救いたいことと、払うものを勝手に決められていいことは、同じじゃない」


 戸の向こうで、ミロさんが豆をかき混ぜていた。


 世界を救った人は、その人と夕食を食べるために、私たちを見送っていた。


 私は初めて、世界を救ったあとの自分が怖くなった。

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