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勇者様、私との婚約は世界を救ったあとで破棄してください  作者: 週休七日


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20/20

今度の約束には、世界を入れない

 二度目の食事では、アレンがお茶を倒した。


 三度目には、私が待ち合わせの店を間違えた。


 四度目は木工道具の展示を見に行き、途中で、正直に足が痛いと言った。


「つまらなかったか」


 帰り道、彼が聞いた。


「最初は面白かったです」

「最初は」

「似たような鉋を十二種類見たあたりから、少し」


 彼は黙った。


 私は慌てた。


「あなたと出かけるのが嫌だったわけではありません」

「分かっている」


 真面目な顔で続ける。


「十三種類目を見なかった理由が分かった」


 私は笑ってしまった。


 楽しかったこと。

 うまくいかなかったこと。

 互いの考えていたことの違い。


 少しずつ増えていった。


 五度目に会ったあと、気まずくなったこともある。


 母の店の棚を直しに来た日だった。


 頼んだ棚だけでなく、入口の戸と裏の踏み台まで直そうとしていた。


 夕方には肩を庇っていた。


「今日は、終わりにしてください」

「あと少しだ」

「その『少し』が、ずっと増えています」

「困っていたから」


 私は口を閉じた。


 頼んでいない親切は、受け取る側を断りにくくする。


 そう説明すると、彼は長い間黙った。


「役に立てた方が、また来やすいと思った」


 小さな声だった。


 私は、さっきまで持っていた怒りを、机へ置くような気持ちになった。


「棚を直さなくても、来てください」


 彼が顔を上げた。


「次は、お茶を飲みに」


「……そうする」


 次に来たとき、道具箱は持っていなかった。


 代わりに菓子を持っていた。


 笑うと、少し不満そうな顔になった。


 私たちは、前の二人を上手に演じたのではなかった。


 今の二人として、小さく失敗した。


     *


 王都では、記録の訂正が始まっていた。


 大司教は儀式運営の職を外れ、説明を伏せた経緯について審理を受けた。


 王家も、本人たちの意思を確かめずに婚約を決めた責任を問われた。


 それで、何もかも綺麗になったわけではない。


 私たちが再び会っていると知り、結局は幸せなのだからよいではないか、と言う人もいた。


 公開の説明会で、そう質問された。


 私は、配布された記録を閉じた。


「今の私が誰かを好きになることを、前の私から何かを奪ってよかった理由にはしないでください」


 会場が静かになった。


「私は前の気持ちを思い出せません。だから、記録を残します。声を出せなくなった人が、黙って賛成していることにされないように」


 リゼが、その言葉を書いた。


 書いたあと、私へ読んで確認してくれた。


 一字だけ直した。


 そこには、私が言ったことだけが残った。


 古い儀式の記録は、より多くの術師に開かれた。

 別の方法を探す仕事が始まった。


 すぐに答えが出たわけではない。


 けれど、次の二人が選ばれるまで待つのは、やめることになった。


 セラさんから手紙が来た。


『私の小冊子も、今度は証言として扱ってもらえるそうです。


 先日、ミロが豆を焦がしました。

 何十年一緒にいても、新しく知ることはあります。


 そちらの台所は、いかがですか』


 アレンは、まだ台所は別々だと真面目に返そうとした。


「たぶん、そういう質問だけではありません」

「難しいな」


 私は、彼のそういうところを好きになっていた。


 気づいたのは、別れたあとだった。


 家へ戻ってから、さっきの続きを話したくなった。


 日記へ書くより先に、本人へ聞いてほしくなった。


 次に会ったとき、そのことを伝えた。


 母の店の裏で、二人で棚を組み立てている最中だった。


 今回は、作業の終わりを先に決めていた。


「アレン」

「この板は、まだ持っていてほしい」

「はい。持っています」

「どうした」

「好きです」


 金槌の音が止まった。


 私は板を持ったまま続けた。


「前の私の代わりではなく、今の私が」


 彼はゆっくり息を吐いた。


 私から板を受け取り、安全な場所へ置いた。


「先に、それを置いてもらうべきだった」

「返事もお願いします」


 彼は笑った。


 見慣れてきた、少し緊張した笑顔だった。


「俺も、好きだ」


 その日は、予定のところまで棚が完成しなかった。


 母には作業が遅いと言われた。


 理由を知ると、もっと早く言いなさいと言われた。


     *


 世界を封じ直してから、一年が過ぎた。


 記憶は戻らなかった。


 雨の宿で、どんなふうに手を握ったのか。

 最初の口づけは、どんな感触だったのか。


 最後の儀式の直前に、何を言い合ったのか。


 紙にも、誰かの記憶にも残っていない言葉は、誰にも分からないままだった。


 あの旅の二人には、もう会えない。


 それでも、いなかったことにはならなかった。


 茶色い帳面は残した。


 小さな看板も、引き出しにある。


 青い帳面は二冊目になっていた。


 秋、私は店を借りた。


 旅の記録にあった空き店舗とは、違う建物だった。


 家賃が安く、母の家にも近い。

 ただし窓枠が歪み、床が少し傾いていた。


「直せますか」


 アレンは部屋を一周した。


「直せる」

「無料ですか」

「仕事として請けるなら、有料だ」

「生活として相談するなら?」


 彼が足を止めた。


 私は、机の寸法を測るふりをした。


 背後で声がした。


「それは、こちらから言おうと思っていた」


 振り返ると、上着の内側から紙を出していた。


 表題は、婚約の申込み。


「律儀ですね」

「書面の方が、言った言わないで揉めないと聞いた」


 私は笑った。


「ただ、声でも言いたい」


 ペンを置いた。


 彼が前に立つ。


 勇者の礼服ではない。

 袖口に木屑のついた、働く人の服だった。


「ノエル。俺と、結婚してください」


 外で荷車が通った。

 隣の店が戸を開ける音がした。


 世界は、私たち以外の人たちの暮らしで忙しかった。


 誰も拍手をしなかった。

 返事を急かす人もいなかった。


「はい」


 彼の肩から、目に見えて力が抜けた。


「世界を救ったからではなくて」


 私は言った。


「あなたと、暮らしたいので」


 彼が笑った。


 椅子を二つ並べた。


「では、条件の相談を」

「まだあるのか」


「店を開ける時間と、家事の分担と、道具を机へ置きっぱなしにしないことと」

「それは直した」

「昨日、ありました」

「仮置きだった」

「長期の仮置きは、置きっぱなしと呼びます」


 彼は降参したように両手を上げた。


 私たちは、新しい紙へ書いた。


 嫌だと言われたら、立ち止まって話すこと。


 一人で我慢すれば丸く収まる、と決めつけないこと。


 相手の手紙を勝手に読まないこと。


 昔の二人が決めたことも、読み直した。


 残すものは残した。

 今の暮らしに合わせて、書き換えるものもあった。


 最後の菓子は、半分にすること。


「これは、残すんですね」


 私が言うと、アレンはうなずいた。


「今でも、一番揉めそうだ」


 机の端に、開店祝いの焼き菓子が一つあった。


 半分に割って、それぞれの皿へ置いた。


 それから、自分の分を少しちぎった。


「これも、どうぞ」


 彼が私を見る。


「半分にしたばかりだ」

「私の分から、あなたへあげたいので」


 アレンは、少し考えた。


 受け取って、食べた。


「おいしい」


 私は笑った。


 次に彼が何かを多くくれたときは、私も受け取ろうと思った。


 窓の外で風が鳴った。


 歪んでいた戸は、もうきちんと閉まる。


 机の上には、新しい契約書があった。


 今度の約束には、世界を救う話を、ひとことも入れなかった。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


 最初は、知らない相手との結婚から逃げるためだった「婚約破棄」が、最後には、好きな人の未来を勝手に決めないための約束になる。


 その変化を、二人の旅の中心に置きました。


 ノエルとアレンの記憶は戻りません。


 もう一度恋をしたことは、最初の恋を取り戻したことではありません。

 失った時間も、最後に交わした言葉も、そのままです。


 それでも、最初の恋が無意味だったことにはならない。

 同時に、その恋を守るために、未来の二人が同じ自分でい続ける義務もない。


 茶色い帳面を捨てずに、青い帳面へ新しいことを書く。

 二人には、そのように暮らしてほしいと思いました。


 代筆屋のノエルは、人の言葉を整える仕事をしてきた人です。

 だからこそ、相手の返事まで書いてしまわないことを、最後には自分自身にも求めます。


 それは立派で、同時に、ひどく難しいことだったと思います。


 好きな人に自由でいてほしい。

 それでも、自分を好きでいてほしい。


 二人には、その両方を持っていてほしかったのです。


 世界を救ったあとの幸せが、戸を直したり、棚を作ったり、お菓子を少し分けたりする暮らしだったら。


 旅の途中で欲しがっていたものは、きっと、そのくらい具体的だったのだと思います。


 二人の旅と、その先の暮らしを見届けてくださって、ありがとうございました。

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