恋人らしい右腕
翌朝から、婚約者の演技の練習が始まった。
「腕を組んでください」
礼法教師に言われ、私はアレンの隣に立った。
彼は右腕を差し出しかけ、止まった。
「右腕と左腕、どちらが恋人らしい?」
「利き腕の問題ではないと思います」
「剣を抜きやすいのは左側だ」
「襲撃される予定のある恋人なのですか」
「ないとは言えない」
教師が目頭を押さえた。
私は第二条に従い、尋ねた。
「左腕に触れても?」
「ああ」
肘に手を添えた。
礼服の上からでも硬い腕だった。
近くに立つだけで、自分の歩幅が分からなくなる。
「もっと親しげに」
教師に言われ、私は笑った。
「これくらいでしょうか」
「聖女様、それは借金を返さない客を玄関で迎える笑顔です」
見抜かれた。
次は、見つめ合う練習だった。
三十秒。
長い。
たいへん長い。
私は彼の瞳が灰色をしていることと、右の睫毛だけ少し下向きに生えていることを知った。
アレンは、私の耳飾りが外れかけていることを指摘した。
恋人らしい空気は、ついに発生しなかった。
*
午後は、本当の訓練だった。
聖剣と聖印は、界脈と呼ばれる世界の力に触れられる人間を、それぞれ一人ずつ選ぶ。
選ばれる時期は同じではない。
アレンは六年前。私は三か月前だった。
北方では、四十三年前に閉じた裂け目が再び開き始めている。
漏れ出した夜が魔獣になり、その中心に魔王が生まれる。
剣が魔王を断ち、印が世界の綻びを結ぶ。
今回の侵食を止めるには、その両方が必要だった。
「一度閉じたら、永久に安心なのですか」
私が聞くと、指導役の術師は首を振った。
「今までの封じは、長い年月で摩耗しました。それでも、次の世代が生き、別の方法を探す時間を作れます」
説明は、王都の演説より少し小さくなった。
その分、私にも掴める形になった気がした。
訓練場の床へ術式を広げる。
線を引き、角を閉じ、最後に終止点を置く。
光の膜が立ち上がった。
「最後の一点までは、力を流さないように。書いている途中で動かすと、意図しない場所へ逃げます」
「契約書に、本文より先に署名をしないのと同じですね」
「……そのたとえは、初めて聞きました」
術師は、私の線を覗き込んだ。
「筆順が安定しています。写字の経験は役に立ちますな」
アレンが剣を抜くと、膜の端が揺れた。
「最初は、近い方が安定します」
私は彼の手に触れた。
揺れが止まる。
「おお。やはり、お二人の相性は――」
神官が言いかけたところで、アレンが聞いた。
「今のは、距離の問題ですか。婚姻の相性ですか」
術師が咳をした。
「距離です。熟練すれば、離れていても制御できます」
私は、つないだ手を見下ろした。
彼は、放そうと思えば放せる強さで握っていた。
次に習ったのは、陣紙だった。
紙へ術式を書き、力を蓄えておく。
開いて終止点をつなげれば、私がそばにいなくても小さな結界になる。
ただし、長く保管すれば力は抜ける。
広く展開すれば、それだけ早く尽きる。
「これは、人一人を七呼吸ほど守れます」
私は薄い紙を光にかざした。
「七呼吸でも、ないよりはいいですね」
術師は、今度はすぐにうなずいた。
*
夕方、同行者が紹介された。
護衛隊長のダグは大柄な騎士だった。
手首には、赤と黄色の糸を乱暴に編んだ腕輪がある。
「娘たちが作りましてな。置いていくと、戦場より恐ろしいことになる」
「何人いらっしゃるんですか」
「三人です」
強敵だと分かった。
記録官のリゼは、私より二歳年上だった。
「旅の記録と王都への報告を担当します。お二人の発言は、できるだけ事実に即して――」
抱えた冊子から紙が落ちた。
拾うと、こう書いてあった。
『勇者は聖女の手を取り、誓った。
君こそが、私の帰る場所だ』
私はアレンを見た。
「いつおっしゃいました?」
「言っていない」
次の行では、私が感極まって泣いていた。
「いつ泣きました?」
「今から泣きそうな顔ではあるな」
リゼが紙を回収した。
「儀礼上の発言案です。採用するかは別として、用意するよう指示されていまして」
「私の感情まで、先に納品しないでください」
彼女は少し困って、それから謝った。
悪い人ではなさそうだった。
ただ、たぶん、仕事が悪い。
その夜、私は自分用の帳面を買った。
茶色い表紙の、誰にも提出しなくていいもの。
最初の頁に、今日のことを書いた。
耳飾り。
結界。
勝手に用意されていた恋の台詞。
最後に一行、足した。
手を放してもいいように、握る人だった。




