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勇者様、私との婚約は世界を救ったあとで破棄してください  作者: 週休七日


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2/20

恋人らしい右腕

 翌朝から、婚約者の演技の練習が始まった。


「腕を組んでください」


 礼法教師に言われ、私はアレンの隣に立った。


 彼は右腕を差し出しかけ、止まった。


「右腕と左腕、どちらが恋人らしい?」

「利き腕の問題ではないと思います」

「剣を抜きやすいのは左側だ」

「襲撃される予定のある恋人なのですか」

「ないとは言えない」


 教師が目頭を押さえた。


 私は第二条に従い、尋ねた。


「左腕に触れても?」

「ああ」


 肘に手を添えた。

 礼服の上からでも硬い腕だった。


 近くに立つだけで、自分の歩幅が分からなくなる。


「もっと親しげに」


 教師に言われ、私は笑った。


「これくらいでしょうか」

「聖女様、それは借金を返さない客を玄関で迎える笑顔です」


 見抜かれた。


 次は、見つめ合う練習だった。


 三十秒。


 長い。

 たいへん長い。


 私は彼の瞳が灰色をしていることと、右の睫毛だけ少し下向きに生えていることを知った。


 アレンは、私の耳飾りが外れかけていることを指摘した。


 恋人らしい空気は、ついに発生しなかった。


     *


 午後は、本当の訓練だった。


 聖剣と聖印は、界脈と呼ばれる世界の力に触れられる人間を、それぞれ一人ずつ選ぶ。


 選ばれる時期は同じではない。

 アレンは六年前。私は三か月前だった。


 北方では、四十三年前に閉じた裂け目が再び開き始めている。


 漏れ出した夜が魔獣になり、その中心に魔王が生まれる。


 剣が魔王を断ち、印が世界の綻びを結ぶ。

 今回の侵食を止めるには、その両方が必要だった。


「一度閉じたら、永久に安心なのですか」


 私が聞くと、指導役の術師は首を振った。


「今までの封じは、長い年月で摩耗しました。それでも、次の世代が生き、別の方法を探す時間を作れます」


 説明は、王都の演説より少し小さくなった。


 その分、私にも掴める形になった気がした。


 訓練場の床へ術式を広げる。


 線を引き、角を閉じ、最後に終止点を置く。

 光の膜が立ち上がった。


「最後の一点までは、力を流さないように。書いている途中で動かすと、意図しない場所へ逃げます」


「契約書に、本文より先に署名をしないのと同じですね」

「……そのたとえは、初めて聞きました」


 術師は、私の線を覗き込んだ。


「筆順が安定しています。写字の経験は役に立ちますな」


 アレンが剣を抜くと、膜の端が揺れた。


「最初は、近い方が安定します」


 私は彼の手に触れた。


 揺れが止まる。


「おお。やはり、お二人の相性は――」


 神官が言いかけたところで、アレンが聞いた。


「今のは、距離の問題ですか。婚姻の相性ですか」


 術師が咳をした。


「距離です。熟練すれば、離れていても制御できます」


 私は、つないだ手を見下ろした。


 彼は、放そうと思えば放せる強さで握っていた。


 次に習ったのは、陣紙だった。


 紙へ術式を書き、力を蓄えておく。

 開いて終止点をつなげれば、私がそばにいなくても小さな結界になる。


 ただし、長く保管すれば力は抜ける。

 広く展開すれば、それだけ早く尽きる。


「これは、人一人を七呼吸ほど守れます」


 私は薄い紙を光にかざした。


「七呼吸でも、ないよりはいいですね」


 術師は、今度はすぐにうなずいた。


     *


 夕方、同行者が紹介された。


 護衛隊長のダグは大柄な騎士だった。

 手首には、赤と黄色の糸を乱暴に編んだ腕輪がある。


「娘たちが作りましてな。置いていくと、戦場より恐ろしいことになる」


「何人いらっしゃるんですか」

「三人です」


 強敵だと分かった。


 記録官のリゼは、私より二歳年上だった。


「旅の記録と王都への報告を担当します。お二人の発言は、できるだけ事実に即して――」


 抱えた冊子から紙が落ちた。


 拾うと、こう書いてあった。


『勇者は聖女の手を取り、誓った。

 君こそが、私の帰る場所だ』


 私はアレンを見た。


「いつおっしゃいました?」

「言っていない」


 次の行では、私が感極まって泣いていた。


「いつ泣きました?」

「今から泣きそうな顔ではあるな」


 リゼが紙を回収した。


「儀礼上の発言案です。採用するかは別として、用意するよう指示されていまして」


「私の感情まで、先に納品しないでください」


 彼女は少し困って、それから謝った。


 悪い人ではなさそうだった。

 ただ、たぶん、仕事が悪い。


 その夜、私は自分用の帳面を買った。


 茶色い表紙の、誰にも提出しなくていいもの。


 最初の頁に、今日のことを書いた。


 耳飾り。

 結界。

 勝手に用意されていた恋の台詞。


 最後に一行、足した。


 手を放してもいいように、握る人だった。

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