婚約破棄の予約をお願いします
婚約が決まった日の夜、私は婚約者と、婚約を破棄するための契約を結んだ。
王城の客間には、白い薔薇が飾られていた。
机にも、窓辺にも、暖炉の上にも。
椅子を引くと花びらが落ち、座れば甘い匂いに包まれる。これから結婚する二人を祝福するために、王城じゅうの庭師が結託したようだった。
私は、その祝福を踏まないように足を寄せた。
向かいには、勇者様が座っている。
アレン・グレイ。
二十三歳。
十七歳で聖剣に選ばれて以来、北方から現れる魔獣を討ち続けてきた王国の英雄。
昼間の式典では、一度も笑わなかった人だ。
金糸の入った礼服を着て、背筋をまっすぐ伸ばしている。膝に置かれた手には、細かい傷が多かった。
私は、大広間での宣言を思い出した。
『聖女ノエル・フェンと勇者アレン・グレイの婚約を、ここに認める』
陛下がそう告げると、貴族たちは拍手した。
私に承諾を求める声は、拍手が終わるまで一度も聞こえなかった。
三か月前まで、私は地方の写字院で代筆の仕事をしていた。
恋文、借金の催促、相続でもめた兄弟の罵倒。
そういうものを、代金に応じた上品さに整えるのが仕事だった。
古い祈祷文の写しを届けに行った神殿で、右手に聖印が浮かんだ。
それから、魔法の訓練を受け、王都へ連れてこられた。
私に任された仕事は、簡単に言えば、勇者が魔王を倒したあとに、北の裂け目――世界に開いた穴を塞ぐことだった。
簡単に言えば、である。
王国ではこれを「世界を救う」と呼び、ついでに私の結婚相手まで決めることにしたらしい。
二十一年かけて育ててきた人生の行き先が、三か月で、ずいぶん雑に変更された。
「勇者様」
私が呼ぶと、彼は顔を上げた。
「大切なお話があります」
「俺もある」
先を越されかけた。
私は膝の上で両手を握った。ここで黙ると、勇者の妻として守るべき十八の心得などを説明されかねない。
「先に、よろしいでしょうか」
「ああ」
「私との婚約は、世界を救ったあとで破棄してください」
暖炉の薪が、ぱちりと鳴った。
勇者様は動かなかった。
私は早口になった。
「もちろん、旅の途中でご迷惑をおかけするつもりはありません。必要な式典には出ますし、婚約者の演技もします。でも、魔王を倒して、裂け目を封じたあとは、お互い、自由に生きるということで――」
彼が、深く息を吐いた。
怒らせた。
私は背筋を伸ばした。
命乞いも、上品な文章にできるだろうか。
「助かった」
「……はい?」
「俺から切り出すと、脅しているように聞こえないか考えていた」
今度は、私が動けなくなった。
彼は襟元に指を入れ、少し緩めた。ずっと苦しかったらしい。
「君も、断れなかったんだな」
「断る場面がありませんでした」
「俺にもなかった」
それで、ようやく少しだけ、同じ机に座っている気がした。
「昼間、ずっと笑っていただろう」
彼が言った。
「はい」
「ここでは、無理にしなくていい」
私は返事をし損ねた。
聖女らしく。
幸せな婚約者らしく。
国民に希望を与えるように。
そう言われて笑い続けた頬が、その一言で、急に疲れていることを思い出した。
「……では、契約書を作りましょう」
私は鞄から紙とペンを取り出した。
「契約書?」
「口約束は、王命と比べて大変に弱いので」
「紙に書けば勝てるのか」
「これだけでは勝てません。でも、私たちが何を望んでいたかは残せます」
彼は考えてから、うなずいた。
私は表題を書いた。
婚約解消に関する当事者間の合意書。
「物々しいな」
「中身は円満です」
第一条。
魔王討伐と北の裂け目の封じ直しを終え、両名が生還した後、本婚約の解消を申し入れる。
第二条。
救命その他の緊急時を除き、相手の身体に触れる際は、その意思を確かめる。
第三条。
相手の手紙、日記、私物を、許可なく見ない。
第四条。
この合意は、当事者双方が望んだ場合にのみ変更できる。
「ほかに、希望はありますか」
「旅の食事については?」
「食事?」
「俺は食べるのが速い。最後の一つを、考えずに取るかもしれない」
あまりに生活に密着した申告だった。
私は少し考えて、第五条を加えた。
最後の菓子は、半分にする。
勇者様は、真剣にその条文を読んだ。
「これでいい」
「世界を救う二人の契約書にしては、締まりませんね」
「一番、揉めそうだ」
確かにそうだった。
清書を二通作り、署名を求めた。
彼は慣れない様子でペンを握った。
剣を持つときにはためらわない指が、紙の前では少し止まる。
アレン・グレイ。
几帳面で、少し窮屈そうな文字だった。
私は、その隣に自分の名前を書いた。
ノエル・フェン。
聖女でも、勇者の婚約者でもない名前。
「よろしく、ノエル」
「よろしくお願いします、アレン様」
「様は、いらない」
「では、アレン」
「ああ」
名前で呼んだだけなのに、彼の肩からわずかに力が抜けた。
机には、焼き菓子が一つ残っていた。
彼がそれを取り、割ろうとして止まる。
「刃物を使った方が、正確か」
「聖剣はやめてください」
「さすがに、そこまでは考えていない」
小さく笑った。
昼間の式典で、国王にも貴族にも見せなかった顔だった。
菓子は、少し不平等に割れた。
大きい方が私の皿に載ったので指摘すると、アレンは真顔で言った。
「粉が、そちらに多く落ちた」
「それを含めて半分ということですか」
「そうだ」
「契約初日から、解釈で逃げないでください」
薔薇の匂いが、さっきより薄く感じられた。
私たちは、世界を救うために婚約した。
その夜、初めて二人で決めたことは、その婚約を終わらせることだった。




