勇者様は、荷物に数えません
王都を出て三日目、私は初めて、本物の魔獣を見た。
犬に似ていた。
ただし、顔のあるはずの場所に、縦に裂けた口があった。
雨に濡れているのに、影がない。
「馬車から離れるな!」
ダグの声が飛んだ。
後ろを走っていた商人の荷車が傾く。
木箱と人が、ぬかるみに落ちた。
アレンは、すでに走っていた。
白い剣が灰色の雨を切った。
魔獣の首が落ち、黒い灰になった。
一頭ではなかった。
森の中で、いくつもの口が開いた。
私は馬車から飛び降りた。
泥に足を取られる。
転びかけた腕を、アレンがつかんだ。
「緊急時だ」
「異議ありません!」
右手を雨の中へ突き出した。
線を引く。
角を閉じる。
急いでいても、最後の一点を忘れない。
街道を横切る光の膜が立ち上がった。
魔獣がぶつかるたび、骨を内側から叩かれるような痛みがした。
ダグが商人たちを誘導する。
リゼが荷台の下から子供を引っ張り出していた。
私は叫んだ。
「乗っていた人の名前を、順番に!」
ばらばらに返事が来る。
木箱は十一。
大人が六人。
子供が――。
「娘が、もう一人!」
母親の声がした。
横転した荷車の向こうで、小さな手が動いていた。
アレンが走る。
私は結界を広げた。
伸ばした端が薄くなる。
「そこまででいい!」
彼が子供を抱き上げた。
背後へ、黒い口が迫る。
私は境界をずらした。
彼の背中の、さらに向こうへ。
魔獣が弾かれた。
右腕の感覚が、一瞬消える。
アレンが転がり込んできた。
ダグが子供を受け取る。
「今の幅を保て!」
私は歯を食いしばってうなずいた。
弓兵が、膜の内側から矢を放つ。
この結界は、内側から出るものを妨げない。
押し戻された魔獣を、アレンが端から一頭ずつ討った。
一頭。
二頭。
三頭。
最後の口が崩れたあとも、私は手を下ろせなかった。
「全部、倒した」
アレンが言った。
そこでようやく、膝が折れた。
支えてくれた彼の襟を、私はつかんだ。
「なぜ、自分だけ外でいいことにするんですか」
「子供を助けるには――」
「助けたあとの話です。戻る場所まで、必要でしょう」
彼が黙った。
「守る人数に、一人、入れ忘れています」
「……俺か」
「ほかに誰がいます」
彼は、私の腫れ始めた腕を見た。
「無理をさせた」
「反省する箇所が、少し違います」
*
その晩の宿には、上等な部屋が用意されていた。
大きな寝台が一つ。
その上には白い薔薇。
王城の庭師には、宿屋にも親戚がいるらしい。
「神殿から、格別にもてなすようにと」
主人が笑顔で言った。
アレンは部屋を見回した。
「寝台を、もう一つ頼めるか」
「ですが、お二人は――」
「俺は寝相が悪い」
主人の目が、聖剣へ落ちた。
「ただちに」
とても速かった。
夕食のあと、私はアレンの肩の傷を洗った。
荷車の金具で切ったらしい。
「触りますよ」
「ああ」
襟をずらすと、古い傷がいくつもあった。
誰かに拍手されたあとまで残るものだった。
「痛くないんですか」
「痛い」
「顔に出ませんね」
「出した方が、治りやすいか」
「周りが気づきやすくはなります」
廊下では、助かった子供たちが走っていた。
叱る母親の声がする。
その声を聞きながら、包帯を巻いた。
「自分を守る人数に入れたことは、あまりなかった」
アレンが言った。
怒るつもりだった。
けれど、淡々とした言い方に、怒りの置き場所が分からなくなった。
「今後は、入れてください」
「分かった」
「勇者一名。大きいので、少し場所を取ります」
「食事も取る」
「荷物には数えません」
彼は少し笑った。
次に、彼が私の手へ冷たい布を当てた。
「代筆屋一名も、入れてくれ」
「私は聖女ですが」
「今の君が、どちらで呼ばれたいかと思って」
返事に困った。
布は冷たくて、気持ちがよかった。
「……代筆屋で、お願いします」
灯りを消す前、追加の寝台から声がした。
「ノエル」
「はい」
「今日は、助けてくれてありがとう」
私は、一度息を整えてから答えた。
「どういたしまして」
勇者に守られる聖女。
それだけでは、ないらしい。
「明日も、人数に入れますからね」




