他人のような、私の恋
母の家へ戻って、一か月が過ぎた。
朝、紙を店先へ出す。
昼、頼まれた手紙を書く。
夕方、戸を閉める。
暮らしは、思っていたより早く形を取り戻した。
世界を救っても、紙の湿気が分かるようになるわけではない。
母には、保管の仕方が雑だと叱られた。
「偉い人に囲まれて、片づけてもらうのに慣れたでしょう」
「そこは、多少」
「正直なのは結構」
私は少し笑った。
帳面は、部屋に置いてあった。
読まなくてよいと言われると、かえって扱いに困った。
昔の自分と、比べてしまいそうだった。
昔の私は、ちゃんと泣けた。
ちゃんと誰かを愛せた。
今の私は、それより何かが欠けているのだろうか。
「前と、変わりましたか」
母へ聞いた。
彼女は紙を数える手を止めた。
「変わったところもあるでしょうね」
「分かりますか」
「前から、全部は分かっていませんよ」
顔を上げた。
「娘だからって、頭の中まで知っていたわけじゃない。私に見せずに書くものもあったでしょう。それを黙って置いておくことくらい、前からしています」
その晩、私は自分の封筒を開いた。
『未来の私へ。
この人を、好きにならなくてもいいです。
たぶん、これを書くとき、私はひどい顔をしています。
立派なことを簡単に言える人だったとは、思わないでください。
私は、この人を忘れるのが嫌です。
でも、あなたの人生を、私の続きをするためだけに使わせるのも嫌です。
日記には、私の恋を書きました。
命令は、なるべく書かないようにしました。
うまく分けられていなかったら、あなたの方で線を引いてください。
私は、好きな人ができて、嬉しかったです。
あなたにも、誰かといて嬉しくなる日があるといい。
相手が誰かは、あなたが決めてください。
ノエル』
不器用な手紙だった。
他人の恋文なら、もっと滑らかに書けるはずなのに。
それから帳面を開いた。
王城の夜。
契約書。
恋人らしい腕の組み方。
二頁目で笑ってしまった。
読み進めると、何度か手が止まった。
剣の腕前より、菓子の分け方。
顔立ちより、困ったときの眉。
戦いより、眠れない夜の呼吸。
この帳面を書いた私は、彼を、ずいぶん見ていたらしい。
手をつないだ日は、似たことを二度も書いていた。
「一度で、分かりますよ」
誰もいない部屋で言った。
胸が苦しくなる箇所もあった。
けれどそれは、誰かの大切な話を読んだときの痛みに近かった。
私の中から、場面は戻ってこなかった。
紙に触れても、その人の温度は分からない。
そのことを、残酷だと思った。
同時に、過去の私が、それを知ったうえで手紙を書いたことも分かった。
私を、自分の恋の読者にしてもいいと思ってくれた。
同じ役を引き受けることまでは、求めずに。
最後に、アレンの封筒を開いた。
『ノエルへ。
今のあなたにとって、俺はよく知らない男だと思います。
知らない男から長い手紙が来るのは、困るかもしれないので、短く書きます。
俺は、あなたと旅をしました。
よく叱られました。
叱られないようにしたいと思ったことはありますが、いなくなってほしいと思ったことはありません。
一緒にいた時間が、嬉しかったです。
話してみてもいいと思ったら、連絡をもらえたら嬉しいです。
会うなら、あなたの行きたい場所で。
前に行った場所でなくて、大丈夫です。
この手紙を書いている俺ではなく、そのとき会う俺を見てください。
そいつにも、同じことを頼んでおきます。
アレン』
一枚で終わっていた。
裏の隅に、小さく書いてあった。
『日記には、格好の悪いことも書かれていると思います。
そこは、だいたい事実です』
笑った。
少しだけ、涙も出た。
思い出したからではなかった。
この手紙を書いた人と、話してみたいと思ったからだった。




