婚約破棄が受理されました
男の人と、手をつないでいた。
石の床に座っている。
身体じゅうが痛かった。
右手は赤く腫れ、白い印が消えている。
隣の男性が、こちらを見た。
灰色の瞳。
傷だらけの上着。
勇者アレン・グレイ。
名前は知っていた。
王都で私と婚約した人だ。
けれど、その手を痛いほど握っている理由が、私の中になかった。
儀式に必要だったのだろう。
説明されたとおりの喪失が起きた。
そう理解することはできた。
理解しても、何も戻ってこなかった。
「あの」
声をかけると、彼も似た顔をした。
「手を、放しますね」
彼はうなずいた。
指が離れた。
風が当たり、掌が冷たくなった。
そのとき、床が揺れた。
「こちらへ!」
ダグが走ってきた。
よく知っている顔だった。
リゼもいる。
眼鏡が曲がり、袖が破れていた。
「ノエル様、立てますか」
立とうとして、足に力が入らなかった。
アレンが支えようとして、肩を押さえた。
ダグが二人を見た。
「よろしい。予定どおり、大切な怪我人が二名です」
兵たちが私たちを支えた。
崩れた橋の跡には、板が渡されていた。
両脇に縄がある。
私は、それをつかんだ。
魔法の光はなかった。
それでも板は、私の重さを支えていた。
途中で、リゼの持つ陣紙が一枚、光を失った。
彼女はもう一枚を開こうとして、やめた。
外から朝日が差している。
黒い獣の姿はなかった。
「終わったんですね」
私が言うと、彼女はうなずいた。
そのあと、泣いた。
*
要塞へ戻り、診察を受けた。
名前。
年齢。
出身地。
母の仕事。
旅の目的。
答えられるものと、穴の空いたものがあった。
儀式の説明は覚えていた。
婚約を解消する手続きを進めたことも分かる。
けれど、そのとき隣の人へ向けていた気持ちは、取り出せなかった。
誰かが泣くたび、自分も泣かなくてはいけない気がして困った。
リゼへそう言うと、彼女は首を振った。
「泣かなくて、大丈夫です」
「でも」
「私たちの方が、今のお二人との話し方を覚えている途中なんです」
数日後、正式な通知が来た。
討伐と封じの完了を確認。
当事者の合意と王家の事前承認に基づき、婚約を終了する。
私は文面を読んだ。
隣の椅子に、アレンが座っていた。
肩を固定する布が巻かれている。
彼も同じ紙を読んでいた。
私の署名は、確かに私のものだった。
その隣に、少し窮屈そうな文字で彼の名前がある。
「今後の婚姻には、改めて本人の意思確認が必要です」
使者が言った。
私たちはうなずいた。
帰り際、アレンが頭を下げた。
「お身体を、大切に」
「あなたも。肩を無理なさらないでください」
「ありがとうございます」
丁寧な人だと思った。
それ以上の言葉は出てこなかった。
*
その晩、リゼが預かりものを持ってきた。
茶色い帳面。
二通の封筒。
小さな木の看板。
それから、私が保管を頼んだ公文書の写し。
帰還前に作られていた、私名義の発表文もあった。
『一時のものと誤って受け止めておりました』
私はそこを読んだ。
意味は分かる。
でも、その気持ちが本当だったかどうかは、今の私には分からない。
紙の上には、私の字で訂正が添えられていた。
『この文章を、私は承認していません』
日付と署名があった。
私は、長くそこを見た。
昔の私は、今の私が困らないように、言い返してくれていた。
私の方へ残されていたのは、沈黙ではなかった。




