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勇者様、私との婚約は世界を救ったあとで破棄してください  作者: 週休七日


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16/20

勇者様、私との婚約は

 裂け目の前には、何もなかった。


 祭壇も、玉座も、祈りのための階段も。


 ただ、剥がれた世界の端が白く光っていた。


 私は聖印のある手を向けた。

 アレンは、反対側へ聖剣を置く。


 細い線が生まれた。


 まだ始まってはいない。


 両方が力を渡し、線を閉じたとき、封じは動く。

 一度始まれば、取り戻すことはできない。


 説明は覚えていた。


 私は手を下ろした。


 アレンも剣を下げた。


 世界の端が軋んだ。


 時間は、あまりない。


 それでも彼は急かさなかった。


「怖いです」

「ああ」

「世界が終わるのも、あなたを忘れるのも」

「俺もだ」


 私は彼の上着をつかんだ。


 昨日の縫い目に触れる。


 不格好だった。


 もっと上手に縫えるようになりたかった。

 これからも、直すつもりでいたかった。


 小さな予定が、次々に浮かんだ。


 橋の完成を見る。

 母に会わせる。

 大きな看板を作ってもらう。


 世界を救う褒美として、欲しがったわけではないのに。


 アレンが、私の手へ自分の手を重ねた。


「言っておきたいことがある」

「はい」


「君が俺を好きになってくれて、嬉しかった」


 声が掠れていた。


「勇者だからじゃなく、一緒に菓子を食べる相手として。帰ってきてほしい人の中に、俺を入れてくれて」


 私は首を振った。


「ありがとうで、終わらないでください」


 彼が息を呑んだ。


「終わらせる言葉に聞こえるので」


 アレンは、泣きそうな顔で笑った。


「君が好きだ」


 私は、ようやくうなずけた。


「はい。私もです」


 頬に触れた。


 温かかった。

 生きていた。


 死ぬために来たのではない。


 生きて帰るために来た。


「アレン」

「何だ」


「勇者様、私との婚約は、世界を救ったあとで破棄してください」


 彼の目が揺れた。


 王城の夜と同じ言葉だった。


 あのときは、知らない相手と結婚しないために言った。


 今は、好きな人を、自分の知らない未来まで閉じ込めないために言った。


「私が、あなたをもう一度選べるように」


 息を吸った。


「あなたが、私を選ばないこともできるように」


 アレンがうなずいた。


「約束する」


 私は彼の首へ腕を回した。


 身を寄せてくれたので、口づけた。


 忘れないためではなく、今、そうしたかったから。


 離れたあと、彼が小さく言った。


「また、会いたい」

「私もです」


 必ず、とは言わなかった。


 今の私たちの願いだった。


 これからの二人への、命令ではなかった。


 私はもう一度、手を上げた。


 アレンも剣を置き直した。


 二つの力が、同じところへ届く。


 最後の一点を結んだ。


     *


 最初に、薔薇の匂いが遠くなった。


 王城の客間。

 窮屈そうな礼服。

 割った菓子。


 その夜が、手の届かない場所へ移っていく。


 待って。


 せめて、それだけは。


 けれど、次が来た。


 雨の街道。

 泥のついた外套。

 寝台の向こうから聞こえた、ありがとう。


 踊りの足を間違えたこと。

 放された手を、寂しいと思ったこと。


 場所の名は残る。


 そこにいた彼へ、触れられなくなっていく。


 紙も、贈り物も残る。

 人に話した言葉も残る。


 それを思い返したとき、胸の中に生まれるはずのものが遠ざかる。


 アレンの手に力が入った。


 彼も同じことを感じていた。


 私は、その顔を見た。


 どうして、この人を。


 続きを急いでつかもうとする。


 好きに、なったのだろう。


 分かっていた。

 さっきまで、幾つでも言えた。


 今は、言おうとしたところから白くなる。


 名前は分かる。


 役目も。

 ここにいる理由も。


 それなのに、目の前の人が遠くなる。


 怖くて指を握った。


 相手も握り返した。


 最後まで、手だけは放さなかった。


 裂け目の向こうで、夜が閉じた。


 世界に、朝の光が差し込んだ。

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