あなたの返事まで、欲しくない
小さな店にいた。
窓の外には川があり、新しい橋が架かっていた。
壁には、ノエル代筆店、と書かれた看板。
机には紙とインク。
焼き林檎の菓子が二つ。
アレンが戸を閉めた。
「風が入る」
私は立ち尽くした。
灰色の上着。
傷のない肩。
疲れていない顔。
「夕食にしよう」
外で、誰かが笑った。
私は何も言えなかった。
欲しかった。
あまりに、そのままだった。
同じ家で起きること。
仕事をして、食事をすること。
明日も会うつもりで眠ること。
世界を救うことより小さく見える願いが、私たちには難しかった。
アレンが近づく。
「もう、怖い思いをしなくていい」
「みんなは?」
「心配しなくていい」
「要塞にいる人たちは、どうなったんですか」
「ここにいれば、君は安全だ」
返事になっていなかった。
分かっているのに、聞き直したくなかった。
ここにいたかった。
彼が私の手を取る。
傷はなかった。
でも、それだけで偽物だと決められるだろうか。
治ったのかもしれない。
長い時間が経ったのかもしれない。
確かめるための秘密の言葉もない。
私が知っていることなら、夜も知っているのかもしれない。
「外を見たいです」
私は言った。
彼が微笑む。
「あとにしよう」
「今、見たいです」
「君は疲れている」
戸へ向かおうとした手を、握る力が強くなった。
「放してください」
笑顔は変わらなかった。
「ここにいれば、幸せになれる」
私は、その手を見た。
この人が本物かどうかより先に、私には返事があった。
「それは、私が決めます」
指を一本ずつ外した。
店の奥から、黒いものが滲んだ。
『お前が望んだのだ』
彼の口から、別の声がした。
『この男と、ここにいたいと』
「はい」
私は答えた。
声が震えていた。
「でも、私の望む返事しかできないあなたとではありません」
床が軋む。
帰ってきてほしい。
ここにいてほしい。
世界より私を選んでほしい。
そう願ったことはあった。
でも、その返事まで私が書いてしまったら、この人はもう、アレンではない。
「アレン!」
私は叫んだ。
店の壁が揺れた。
どこかで、自分の名前が聞こえた。
細く、遠い声。
「嫌です!」
もう一度叫ぶ。
「一人で二人分の幸せを決めるのは、嫌です!」
窓が割れた。
冷たい空気が流れ込む。
指先に、痛いほどの力を感じた。
*
本物の床へ倒れ込んだ。
アレンが目の前にいた。
額から血を流し、右肩を庇っている。
「ノエル」
その声に、泣きそうになった。
「何を見ていたんですか」
「君が、俺を止めていた」
彼は息を整えた。
「もう誰も助けなくていい。ここにいてほしいと」
「言いそうです」
「ああ」
痛そうに笑う。
「だから、しばらく動けなかった」
立派な幻を見たのではなかった。
相手に言ってほしかった言葉を、見せられていた。
「嫌だと、君の声が聞こえた。それから、名前を呼び続けた」
私たちの手は、まだつながっていた。
最初からそうだったのだ。
幻の中では、その温度さえ分からなくなっていた。
背後で巨大なものが立ち上がった。
角も腕も、数えられない。
黒い身体に、窓のような光が浮かぶ。
一つ一つに、誰かの帰りたい場所が見えた。
黒い腕が振り下ろされた。
私は膜を立てた。
衝撃で床が割れる。
アレンが斬り込む。
だが、肩が震えた。
刃は浅く入り、すぐにつながった。
「大きく振らないでください!」
彼がこちらを見る。
私は、奥で瞬く白い核を見た。
そこへ届けばいい。
全部を切り払う必要はない。
結界を斜めに立てた。
黒い腕を受け止めず、滑らせる。
床へ落ちた腕が、魔王自身の動きを一瞬塞いだ。
その隙間へ、細い道を作る。
途中では流さない。
終止点を、最後に置く。
「真っ直ぐに!」
アレンが走った。
振りかぶらず、身体ごと剣を押し込む。
母の声がした。
昔の仲間の声がした。
私は目の前の人を見ていた。
一画ずつ、線をつなぐ。
聖剣が核へ届いた。
白い光が、黒い身体を内側から裂いた。
私は走った。
城が崩れていく。
中心に、大きな裂け目が残った。
魔王を倒した。
まだ、終わっていなかった。
アレンが私を見た。
私は、その手を取った。




