第一楽章~無音の時間~
「それでは、ミーティングを始めましよう。」
ガラッ
「遅刻よ、アイシャ」
「えへへ、ごめんなさい」
部屋に小さな笑いが起こり、張りつめていた空気が少しだけやわらいだ。
「じゃあ、当日の流れを確認するぞ」
大地が資料に目を落とし、集合時間や楽器の搬入、移動の段取りを順番に説明していく
「サポートメンバーは、ブレザーや楽器の搬入準備、大丈夫そう?」
若菜が視聴覚室の後ろへ目を向けると、小春は待っていたように姿勢を正した。
「はい。私はコンクールには出られませんけど、準備はしっかりやります。だから皆さんは、明日の演奏を楽しんできてください」
そう言って、ホルンパートでサポートメンバーの光井小春は少しだけ視線を落とした。
ほんの一瞬だった。
けれど、その表情に気づいた者は、きっと若菜だけではなかった。
「ありがとう。あなたたちサポートメンバーのおかげで、私たちは演奏に集中できます。明日もよろしくね」
「はい!」
小春は顔を上げ、今度こそ明るくうなずいた。
窓の外では、風に流された雲が太陽の前を通り過ぎていく。
視聴覚室に差し込む夏の日差しが、ふいに強くなった。白い机の上に並べられた楽譜や予定表が光を反射し、何人かが眩しそうに目を細める。
その瞬間だった。
一斉に、部員たちのスマートフォンから不穏な警告音が鳴りだした。
聞き慣れているはずなのに、決して慣れることのない音。
誰かが椅子を引いた。誰かが机の下へ身をかがめた。若菜が声を上げるより早く、足元から突き上げるような揺れが視聴覚室を襲った。
机が跳ね、椅子が倒れる。窓ガラスが激しく震え、棚に置かれていたファイルが床へ滑り落ちた。
いくつもの警告音と悲鳴が重なり、部屋中に反響する。
「地震……?」
アイシャの声をかき消すように、揺れはさらに激しさを増した。
若菜はとっさに机へ手をついた。立っていることもできない。誰かを呼ぶ声も、何かが倒れる音も、もう聞き分けられなかった。
一瞬、あたりが暗くなる。
その刹那――
世界から、音が消えた。
*
耳が痛くなるほどの静寂だった。
先ほどまで床を揺らしていた振動も、窓ガラスの音も、スマートフォンの警告音も消えている。
誰も動かなかった。
机の下に身を伏せたまま、顔だけを上げている者。倒れた椅子につかまり、周囲を見回している者。何が起きたのか分からず、握りしめたスマートフォンを見つめている者。
その静寂のなか、大地が声を上げた。
「なんだ、あの木は……」
全員の視線が、窓の外へ向いた。
そこには、青々とした木々が立ち並んでいた。
普段なら、部室棟と本校舎をつなぐ連絡橋が見える。その向こうには、つい先ほどまで練習をしていた音楽室があるはずだった。
しかし、どちらも見当たらない。
若菜は倒れた椅子を避けながら視聴覚室を飛び出した。廊下を走り、連絡橋へ続く扉に手をかける。
勢いのまま扉を開けた瞬間、息をのんだ。
その先にあるはずの床がなかった。
連絡橋は途中で崩れたのではない。初めから存在しなかったかのように、扉の向こうには何もない。
目の前には、深い森と青い空だけが広がっていた。
「橋が……ない」
誰に伝えるでもなく、若菜はつぶやいた。
*
大地を中心に、現在の状況が整理された。
空調は止まっていたが、照明はついた。廊下や階段にも異常はなく、部室棟そのものが壊れている様子はない。
手分けして建物内を確認していた生徒たちが、順番に視聴覚室へ戻ってきた。
「トイレも流れます。手洗い場の水も出ます」
「ほかの部室には、誰もいませんでした」
報告が重なるたびに、分からないことだけが増えていく。
建物の外に出た生徒たちが確認できたのは、部室棟の周囲に見渡すかぎりの森が広がっていることだけだった。
本校舎はない。グラウンドも、道路も、近隣の住宅もない。木々の間を探しても、電柱や標識さえ見つからなかった。
森の中に、この部室棟だけが取り残されている。
そして、ここにいるのは、視聴覚室でミーティングをしていた二十数人だけだった。
何度確認しても、その事実は変わらなかった。
部室棟は地域の避難場所に指定され、防災拠点も兼ねている。
「そうだ。倉庫に非常食があったな。確認しよう」
大地の言葉で、何人かが防災用品を保管している倉庫へ向かった。
棚には箱詰めされた飲料水と非常食が並び、奥には毛布や簡易トイレなども保管されていた。二十数人がすぐに困ることはないと思えるだけの量がある。
少なくとも、今夜は越えられる。
それが分かっただけでも、張り詰めていた空気はほんの少し緩んだ。
しかし、誰にも何が起きたのかは分からない。
助けが来るのか。
ここはどこなのか。
明日になれば、すべて元に戻っているのか。
答えのないまま、時間だけが過ぎていった。
やがて、窓の外で森を照らしていた光が失われていく。木々は黒い影となり、その奥は何も見えなくなった。
その夜、全員が視聴覚室に集まった。
机を端へ寄せ、床に毛布を敷く。誰も一人になろうとはしなかった。小声で話す者もいたが、その声も一人、また一人と途切れていった。
眠れるはずもなかった。
それでも、横になっているうちに――
いつの間にか、朝を迎えていた。




