序曲 ~Overture~
いつもとは違う景色に見えた。
朝焼けに染まる坂道。
見上げると、いつもより少し多い雲が、ゆっくりと流れている。
夏樹のもとへ、クラリネットを担当する一年生のアイシャがやってきた。
「おはようございます。先輩、早いですね。
ん、もしかして緊張してます? らしくないですね」
アイシャは、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「お前もな」
低音パートリーダーで、ユーフォニアムを担当する日向夏樹がそう返すと、坂の上から声が降ってきた。
「おはよう。二人とも早いのね。それにしても、朝から暑いわね」
「部長、おはようございます」
二人の声が重なる。
吹奏楽部部長で、トランペットを担当する結城若菜だった。
「今日も長くなりそうね。頑張りましょう」
「はいっ」
三人は並んで、学校へ続く坂道を上っていった。
『異世界ウインドオーケストラ
― あの日見た空の向こうは ―』
*
「ストップ!」
顧問の声で、演奏が止まった。
「木管、今のハーモニー。休憩中にピッチを確かめておいて」
「ごめんなさい。私、少し高くなってたかもです」
「大丈夫よ。少し休憩してから、もう一度合わせましょう」
クラリネットのパートリーダーが答える。アイシャやほかの部員たちは、それぞれ額の汗をぬぐった。
朝は雲が多く、少し涼しいくらいだった。それが、いつの間にか窓の外には夏の日差しが降り注いでいる。
県立有田川高校吹奏楽部。
吹奏楽コンクール支部大会を翌日に控え、最後の練習は熱を帯びていた。
かつては県大会の常連だったが、ここ数年は金賞に届きながらも、代表の座を逃している。
今年こそは――。
そんな思いを胸に、最後の調整が続いていた。
休憩を終えると、練習が再開された。通し練習やソロの確認など、ひととおりの最終調整を終えたところで、顧問が指揮棒を下ろした。
「よし。午前の練習は、ここまでにしよう」
「はい。昼食休憩のあと、視聴覚室で明日のミーティングを行います。パートリーダーとサポートメンバーは集まってください」
若菜に続き、副部長でパーカッションを担当する黒木大地が声を上げた。
「休憩の前に、明日の準備を済ませてください。各パートリーダーは、チェックリストへの記入を忘れないように」
解散の合図とともに、各パートが動き始めた。
明日の本番に向けた練習は、これで終わった。
楽器を片付ける部員たちは、どこか落ち着かない様子だった。比較的楽器の小さい木管パートが先に準備を終え、何人かは連絡橋で最後の練習を続けている。
低音パートのメンバーが部室棟へ楽器を運んでいる途中、オーボエを担当する天音奏の姿が目に入った。
奏は一人、自由曲のソロパートを繰り返していた。オーボエソロは、この曲の大きな見せ場だった。
その音色は、夏の日差しのなかへ溶けていった。
奏が楽器を下ろすのを待って、アイシャが声をかける。
「先輩、一緒にご飯食べましょう」
「ありがとう。もう少ししたら行くね」
「はーい。待ってます」
そんなやり取りを聞きながら、夏樹は連絡橋を渡った。
*
昼食後、視聴覚室で休憩していると、若菜が夏樹に声をかけてきた。
「日向君、ちょっといい?」
「はい。なんでしょうか?」
「少し、メロディーラインの合わせに付き合ってもらえる?」
「分かりました」
夏樹は、楽器室へ運んだばかりのケースをもう一度開いた。
若菜の堂々としたメロディーに答えるように、夏樹がオブリガートを重ねる。二人で何度も確認してきた箇所だった。
「ありがとう。日向君、本番もよろしくね」
「はい。先輩についていきます」
「もう少し主張しても大丈夫だから……」
「何か、おかしいところがありますか?」
「いいえ、大丈夫よ。とにかく、明日は楽しんでいきましょう」
「はい。頑張ります」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
そこへ、大地が声をかけてきた。
「二人とも、気合い入ってるな。明日もその調子で頼むぞ」
「大地さん、ありがとうございます」
「さあ、そのくらいにしておけ。もうすぐミーティングの時間だぞ」
「あら、もうこんな時間なのね」
気がつくと、パートリーダーやサポートメンバーが集まり始めていた。
二人は慌ただしく楽器を片付け、ミーティングの準備を始める。
ふいに、視聴覚室へ冷たい風が流れ込んできた。空調が入ったようだ。
誰かが窓を閉めると、吹き込んでいた夏の風が途切れた。
「それじゃあ、ミーティングを始めましょう」




