八 帰る道
ルアリは、丸一日、眠った。
竜が死んだ朝、彼は自分の足で村まで歩いた。だが、マーラの家の敷居をまたいだところで、糸が切れたように眠りに落ちた。
いったんマーラの寝台へ寝かせたものの、そこには道具も薬草も足りない。結局、村の男たちが戸板を持ち出し、崖上の家まで運ぶことになった。
丘を越えるあいだも、ルアリは一度も目を覚まさなかった。
「あの人、未婚の令嬢を男の家に入れるものではない、と言っていたのでしょう」
ソルカが言うと、マーラは鼻を鳴らした。
「言った口が寝てるんだ。構いやしないよ」
そうして、ソルカとマーラは、開け放たれたままだったルアリの家に彼を寝かせた。
夜半、熱が上がった。
魔力を使い果たした者の熱だと、マーラは言った。命に関わるものではない。ただ、体が空になっているのだと。
マーラが水を替えに外へ出た、その短いあいだに、ソルカは寝台の縁に膝をついた。
疲れきった様子ばかりが目についていたが、こうして眠る顔を見れば、骨格は驚くほど整っている。
ソルカは、その額に自分の額を当てた。
こつん、と軽い音がした。額は、熱かった。
「……大丈夫よ」
それだけ言って、ソルカは身を起こした。
ルアリは、目を覚まさなかった。
翌朝、村のほうから子供が駆けてきた。
「魚がいた!」
息を切らし、頬を真っ赤にして、子供は叫んだ。
「潮だまりに、魚がいた! 銀色の、ちっちゃいの、いっぱい!」
ソルカは村人たちと浜へ下りた。
本当だった。
昨日まで何もいなかった潮だまりに、小指ほどの銀の魚が群れて、朝の光を弾いていた。
洞窟へ下りる道筋の赤黒い苔は、心なしか色が薄い。
枯れ草の根元には、針の先ほどの緑が覗いている。
崖のまわりに、海鳥が降りていた。
北は、呪われた土地ではなかった。
最初から、美しい土地だった。
その美しさが、火傷のかさぶたの下から、ゆっくりと戻ろうとしていた。
ソルカは洞窟の入口まで下り、石の隙間から、油布の包みを取り出した。
骨札の下に置かれた、彼の帳面。
戻れなかった場合、記録だけでも残るように――そう言って、彼が置いていったものだ。
返してやろうと包みを解き、ソルカは、開いたままの最後の頁を見た。
――次に来る誰かへ。
封印の仕組み。補修の順。潮見表と観測記録の在り処。道具の置き場所。几帳面な指示が、道具箱の鍵の隠し場所ひとつに至るまで、延々と続いていた。
その最後に、短く、こうあった。
――封印守の名は、私で最後とする。誰にも継がせるな。村の者に責はない。
――南のマクラウド家に、伝える必要はない。
日付は、決行の前夜だった。
ソルカは、その頁を長いあいだ見ていた。
戻れなかった場合の指示は、これほど丁寧に書いてある。
戻った場合のことは、一行もなかった。
ルアリが目を覚ましたのは、その日の昼だった。
彼は起き上がるなり水を一杯飲み、机に向かおうとして、扉の前に立つソルカに気づいた。
「……潮を、見に行きます」
「座りなさい」
「観測が一日半、空いています」
「座りなさい」
声の低さに、ルアリは動きを止めた。
ソルカは、机の上に帳面を置いた。
決行前夜の頁が、開いたままになっている。
ルアリの顔から、表情が消えた。
「私が来なければ、あなたは死ぬつもりだった」
「その可能性はありました」
「可能性じゃないわ」
ソルカは、頁を指で押さえた。
「次代は用意していない。子に継がせる気もない。南へ助けを呼ぶ気もない――伝える必要はない、とまで書いてある。戻れなかった場合の指示は道具の鍵の場所まであるのに、戻った場合のことは、一行もない。これのどこが、可能性なの」
ルアリは、目を逸らした。
長い沈黙のあと、彼は言った。
「……はい」
認めた声は、記録を読み上げるときの抑揚のなさを保とうとして、失敗していた。
「三百年よ」
ソルカの声が、怒りで震えた。
「私の家は、三百年あなたたちを待たせた。迎えに行くと言って行かず、名誉だけを壁に飾って、三百年。その挙句――最後のルアリまで、独りで死なせるところだった」
「それは、あなたの家の責任では――」
「私の家の話をしているの!」
遮った声が、思ったより大きく出た。
ソルカは一度、深く息を吸った。
「あなたは……あなたって人は、本当に――」
「では、どうすればよかったのですか」
ルアリの声から、初めて、悟ったような平坦さが剥がれた。
「誰に継がせろと? 村の子供にですか。生まれてもいない自分の子に、名を捨てろ、家を捨てろ、竜が死ぬまで見張れと教えろと? それとも、三百年黙っていた南に、今さら手紙を書けと言うのですか」
「そうよ」
「……は?」
「書けばよかったのよ」
ソルカは、まっすぐに彼を見た。
「三百年黙っていた南は、一通の手紙で走ってくる家に変わっていたかもしれない。確かめもしないで、あなたは勝手に締め切った。――現に、手紙もないのに、剣を持った娘が一人、来たでしょう」
ルアリは、口を開き、閉じた。返す言葉が、見つからないようだった。
ソルカは、少しだけ声を和らげた。
「私は、あなたに生きて戻れと命じたのよ。あの命令は、洞窟を出たところで終わりじゃないの」
「……理不尽だ」
「マクラウドですから」
ルアリは額を押さえ、椅子に座り込んだ。
数日後の夕方、二人は崖の上にいた。
洞窟の口には、もう鳥が出入りしている。潮だまりの魚は日ごとに増え、道筋の苔は白く枯れ始めていた。
ルアリは新しい帳面を開き、それらを数えて書き留めていた。
表紙には初めて、災いではない題が書かれていた。
――回復の記録。
ソルカは、その手元を眺めてから、言った。
「ルアリ。あなたの家名を取り戻す方法、思いついたわ」
「家名などありません」
「私の夫になればいいのよ」
筆が、止まった。
海鳥が一声、鳴いて崖を越えていった。
「……それは、あなたの家名です」
「私の名を半分あげる。二人で持てば、ちょうどいいでしょう」
ルアリは、ゆっくりと顔を上げた。
「同情なら」
「同情で結婚を申し込むほど、私は暇ではないの」
ソルカは、腕を組んだ。
「これは施しでも、救済でもないわ。南で家名だけになった兄と、北で名前だけになった弟――両方をまとめて終わらせる方法が、ほかにあるなら言ってみなさい」
ルアリは、言わなかった。
言えなかったのだろう。三百年分の記録のどこにも、そんな方法は書かれていない。
彼は長いあいだ、海を見ていた。
それから、言った。
「……考える時間を、ください」
「断るため?」
「いいえ」
ルアリはもう一度、今度は目を逸らさずに言った。
「いいえ」
「なら、いくらでも」




