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剣の姫君と封印守の魔法使い  作者: 如月アトリ


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9/11

八 帰る道

 ルアリは、丸一日、眠った。

 竜が死んだ朝、彼は自分の足で村まで歩いた。だが、マーラの家の敷居をまたいだところで、糸が切れたように眠りに落ちた。

 いったんマーラの寝台へ寝かせたものの、そこには道具も薬草も足りない。結局、村の男たちが戸板を持ち出し、崖上の家まで運ぶことになった。

 丘を越えるあいだも、ルアリは一度も目を覚まさなかった。

「あの人、未婚の令嬢を男の家に入れるものではない、と言っていたのでしょう」

 ソルカが言うと、マーラは鼻を鳴らした。

「言った口が寝てるんだ。構いやしないよ」

 そうして、ソルカとマーラは、開け放たれたままだったルアリの家に彼を寝かせた。


 夜半、熱が上がった。

 魔力を使い果たした者の熱だと、マーラは言った。命に関わるものではない。ただ、体が空になっているのだと。

 マーラが水を替えに外へ出た、その短いあいだに、ソルカは寝台の縁に膝をついた。

 疲れきった様子ばかりが目についていたが、こうして眠る顔を見れば、骨格は驚くほど整っている。

 ソルカは、その額に自分の額を当てた。

 こつん、と軽い音がした。額は、熱かった。

「……大丈夫よ」

 それだけ言って、ソルカは身を起こした。

 ルアリは、目を覚まさなかった。


 翌朝、村のほうから子供が駆けてきた。

「魚がいた!」

 息を切らし、頬を真っ赤にして、子供は叫んだ。

「潮だまりに、魚がいた! 銀色の、ちっちゃいの、いっぱい!」

 ソルカは村人たちと浜へ下りた。

 本当だった。

 昨日まで何もいなかった潮だまりに、小指ほどの銀の魚が群れて、朝の光を弾いていた。

 洞窟へ下りる道筋の赤黒い苔は、心なしか色が薄い。

 枯れ草の根元には、針の先ほどの緑が覗いている。

 崖のまわりに、海鳥が降りていた。

 北は、呪われた土地ではなかった。

 最初から、美しい土地だった。

 その美しさが、火傷のかさぶたの下から、ゆっくりと戻ろうとしていた。


 ソルカは洞窟の入口まで下り、石の隙間から、油布の包みを取り出した。

 骨札の下に置かれた、彼の帳面。

 戻れなかった場合、記録だけでも残るように――そう言って、彼が置いていったものだ。

 返してやろうと包みを解き、ソルカは、開いたままの最後の頁を見た。

 

 ――次に来る誰かへ。

 封印の仕組み。補修の順。潮見表と観測記録の在り処。道具の置き場所。几帳面な指示が、道具箱の鍵の隠し場所ひとつに至るまで、延々と続いていた。

 その最後に、短く、こうあった。

 ――封印守の名は、私で最後とする。誰にも継がせるな。村の者に責はない。

 ――南のマクラウド家に、伝える必要はない。

 日付は、決行の前夜だった。

 ソルカは、その頁を長いあいだ見ていた。

 戻れなかった場合の指示は、これほど丁寧に書いてある。

 戻った場合のことは、一行もなかった。


 ルアリが目を覚ましたのは、その日の昼だった。

 彼は起き上がるなり水を一杯飲み、机に向かおうとして、扉の前に立つソルカに気づいた。

「……潮を、見に行きます」

「座りなさい」

「観測が一日半、空いています」

「座りなさい」

 声の低さに、ルアリは動きを止めた。

 ソルカは、机の上に帳面を置いた。

 決行前夜の頁が、開いたままになっている。

 ルアリの顔から、表情が消えた。

「私が来なければ、あなたは死ぬつもりだった」

「その可能性はありました」

「可能性じゃないわ」

 ソルカは、頁を指で押さえた。

「次代は用意していない。子に継がせる気もない。南へ助けを呼ぶ気もない――伝える必要はない、とまで書いてある。戻れなかった場合の指示は道具の鍵の場所まであるのに、戻った場合のことは、一行もない。これのどこが、可能性なの」

 ルアリは、目を逸らした。

 長い沈黙のあと、彼は言った。

「……はい」

 認めた声は、記録を読み上げるときの抑揚のなさを保とうとして、失敗していた。

「三百年よ」

 ソルカの声が、怒りで震えた。

「私の家は、三百年あなたたちを待たせた。迎えに行くと言って行かず、名誉だけを壁に飾って、三百年。その挙句――最後のルアリまで、独りで死なせるところだった」

「それは、あなたの家の責任では――」

「私の家の話をしているの!」

 遮った声が、思ったより大きく出た。

 ソルカは一度、深く息を吸った。

「あなたは……あなたって人は、本当に――」

「では、どうすればよかったのですか」

 ルアリの声から、初めて、悟ったような平坦さが剥がれた。

「誰に継がせろと? 村の子供にですか。生まれてもいない自分の子に、名を捨てろ、家を捨てろ、竜が死ぬまで見張れと教えろと? それとも、三百年黙っていた南に、今さら手紙を書けと言うのですか」

「そうよ」

「……は?」

「書けばよかったのよ」

 ソルカは、まっすぐに彼を見た。

「三百年黙っていた南は、一通の手紙で走ってくる家に変わっていたかもしれない。確かめもしないで、あなたは勝手に締め切った。――現に、手紙もないのに、剣を持った娘が一人、来たでしょう」

 ルアリは、口を開き、閉じた。返す言葉が、見つからないようだった。

 ソルカは、少しだけ声を和らげた。

「私は、あなたに生きて戻れと命じたのよ。あの命令は、洞窟を出たところで終わりじゃないの」

「……理不尽だ」

「マクラウドですから」

 ルアリは額を押さえ、椅子に座り込んだ。


 数日後の夕方、二人は崖の上にいた。

 洞窟の口には、もう鳥が出入りしている。潮だまりの魚は日ごとに増え、道筋の苔は白く枯れ始めていた。

 ルアリは新しい帳面を開き、それらを数えて書き留めていた。

 表紙には初めて、災いではない題が書かれていた。

 ――回復の記録。

 ソルカは、その手元を眺めてから、言った。

「ルアリ。あなたの家名を取り戻す方法、思いついたわ」

「家名などありません」

「私の夫になればいいのよ」

 筆が、止まった。

 海鳥が一声、鳴いて崖を越えていった。

「……それは、あなたの家名です」

「私の名を半分あげる。二人で持てば、ちょうどいいでしょう」

 ルアリは、ゆっくりと顔を上げた。

「同情なら」

「同情で結婚を申し込むほど、私は暇ではないの」

 ソルカは、腕を組んだ。

「これは施しでも、救済でもないわ。南で家名だけになった兄と、北で名前だけになった弟――両方をまとめて終わらせる方法が、ほかにあるなら言ってみなさい」

 ルアリは、言わなかった。

 言えなかったのだろう。三百年分の記録のどこにも、そんな方法は書かれていない。

 彼は長いあいだ、海を見ていた。

 それから、言った。

「……考える時間を、ください」

「断るため?」

「いいえ」

 ルアリはもう一度、今度は目を逸らさずに言った。

「いいえ」

「なら、いくらでも」

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