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剣の姫君と封印守の魔法使い  作者: 如月アトリ


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8/11

七 干潮の洞窟

 剣は、重かった。

 ソルカは、その重さを知っていたつもりだった。

 幼いころから何度も持ち、何度も振り、何度も父に構えを直された。

 足を開きすぎるな。

 肩に力を入れるな。

 刃を置くな、運べ。

 剣は腕で振るものではない、体ごと届かせるものだ。

 けれど、決戦の前夜、マーラの家の隅で膝に置いた剣は、これまでとまるで違う重さをしていた。

 黒い刃に、赤い筋が走っている。

 初代の兄が竜に入れた、傷の記憶。

 三百年分の、重さだった。


 夕食は、また薄い粥だったが、今夜は少しだけ干した海藻が入っていた。

「明日かい」

 マーラが言った。

 ソルカは匙を止めた。

「聞いたの?」

「聞かなくてもわかるよ。洞窟の音が違う」

「……あなたたちは、竜のことを知っていたのね」

「竜と呼ぶかどうかは、人によるね。年寄りは竜と言う。若い者は、洞窟の毒と言う。子供は、赤い霧と言う」

「マーラは?」

 マーラは鍋をかき混ぜた。

「私は、ルアリを眠らせないもの、と呼んでいる」

 ソルカは、その言い方に少し息を呑んだ。

 暖炉の火が、鍋の底を赤く照らしている。

「あの子は、若いんだよ」

「ええ」

「若いのに、ずっと年寄りみたいな顔をしている。先代が死んでから、特にね」

「先代?」

「叔父だよ。父親ではない。封印守の名を継ぐ者が、いつも親から子へ続くとは限らない。続けられる者が継ぐ。継げる者が、ほかにいなかった」

 ソルカは、匙を置いた。

「だから彼は、自分の子に継がせたくないのね」

「子どころか、嫁を取る気もないさ」

 マーラは鼻を鳴らした。

「自分が最後でいいと思っている。腹の立つ子だよ」

「責めないの?」

「責めてどうする。ここを出ていった若い者は何人もいる。出ていかずに残ったルアリだけを責めるなら、それは筋が違う」

 ソルカは、何も言えなかった。

 マーラは粥をよそい直し、ソルカの前に置いた。

「食べな。剣を振るなら、腹に入れときな」

「竜退治の前に粥なのね」

「肉があれば肉を出すよ」

「ごめんなさい」

「謝るほどのことじゃない」

 マーラは少し笑った。

「でも、生きて戻ったら、何かうまいものを食べるといい」

「何があるの」

「今はないね」

「では、南から持ってくるわ」

「大きく出たね」

「マクラウドですから」

 そう言うと、マーラはしばらくソルカを見た。

 その目は、初めて、少しだけ優しかった。

「そうかい」

 彼女は言った。

「なら、戻っておいで。南のマクラウド」


 夜は短かった。

 眠ったのか、眠っていないのか、ソルカにはよくわからなかった。

 外では風が鳴り、遠くで洞窟が低く唸っている。

 夢の中で、ソルカはまた赤い光を見た。

 だが今度は、光は二つの目になっていた。

 その目の前には、黒い刃があった。

 自分の手が、その剣を握っていた。


 夜明け前、ルアリが迎えに来た。

 マーラが起き上がるより早く、ソルカは外套を羽織って扉を開けた。


 ルアリは、黒い長衣を着ていた。

 腰には鍵束。肩からは革の帯をかけ、そこに小さな瓶や銀の針、骨でできた札を吊っている。片手には細い杖、もう片方の手には油布で巻いた帳面を持っていた。

 赤毛はきつく結ばれ、紫紺の瞳の下には薄い影が落ちていた。

「眠りましたか」

「少し」

「嘘ですね」

「あなたもでしょう」

「私は慣れています」

「それ、自慢にならないわ」

 ルアリはそれには答えず、ソルカの剣を見た。

「持てますか」

「ええ」

「腕は」

「痛いわ」

「正直ですね」

「隠しても、あなたは気づくでしょう」

「ええ」

「腹が立つ」

「よく言われます」

 出立の前に、ルアリはソルカの剣の柄へ、細い銀の糸を巻いた。

「何?」

「私の魔法を通すための、道筋です」

「剣が壊れたりしない?」

「剣より先に、私が壊れます」

「……そういうことは、先に言って」

「言えば、やめましたか」

「やめないわ」

「なら、同じです」

 マーラが奥から出てきた。

 彼女は何も言わず、布に包んだ燕麦の堅焼きをソルカに押しつけた。

「持っていきな」

「ありがとう」

「ルアリ」

「何です」

「この子を死なせるんじゃないよ」

 ルアリは、ほんの少しだけ目を伏せた。

「努力します」

「その返事は嫌いだね」

「私もです」

 マーラは舌打ちした。

「なら、違う返事をしな」

 ルアリは、しばらく言葉を探していた。

 それから、ソルカを見た。

「生きて戻します」

 マーラはうなずいた。

「それでいい」


 外へ出ると、空はまだ暗かった。

 東の端が、ほんの少しだけ白み始めている。

 干潮の時刻が近い。海は大きく引き、昨日まで水に隠れていた黒い岩場が露出しているはずだった。


 村の者たちが、家の前に出ていた。

 老人、女、子供、怪我で足を引きずる男。数えるほどしかいない人々が、黙って二人を見ている。

 誰も歓声を上げなかった。

 その中の一人が、ソルカの剣を見て小さく言った。

「ほんとうに、竜を斬るの?」

 ソルカは、少し考えた。

「斬るわ」

「こわくない?」

「怖いわ」

 子供は目を丸くした。

「でも行くの?」

「怖くても、行かないといけない時があるの」

 子供は、よくわからないという顔をした。

 ルアリが歩き出し、ソルカはその横へ並んだ。

「ソルカ姫」

「何」

「洞窟の中では、私の指示に従ってください」

「内容によるわ」

「内容を選ぶ時間はありません」

「では、変な指示を出さないで」

「努力します」

「それも嫌い」

「――生きて出します」

「よろしい」

 ルアリは、少しだけ横目でソルカを見た。

「あなたは本当に」

「何?」

「厄介な人だ」

「光栄ね」

「褒めていません」

「知っているわ」


 崖を下りる道は、細かった。

 昨日までの稽古で通った岩場を過ぎると、風の音が変わった。

 草の匂いが薄れ、代わりに濡れた岩と塩と、焦げた鉄の匂いが濃くなる。

 道筋の草は枯れ、足元の岩は黒く、ところどころ赤黒い苔がこびりついていた。

 ルアリが赤黒い苔を避けて進むので、ソルカも同じ足場を追った。

「赤苔には、触れないでください」

「毒?」

「竜の息を吸っています」

「それは毒という意味では?」

「おおむね」

「なぜ最初からそう言わないの」

「説明を短くしただけです」

「短くしすぎよ」

 岩棚へ下りると、海蝕洞の口が目の前にあった。

 ――大きい。

 思っていたよりも、ずっと大きい。

 巨大な獣が、口を開けて待っているようだった。

 洞窟の天井からは水が落ち、黒い岩肌を伝っている。

 奥は暗く、風が吹き出していた。風なのに、熱を持っている。

 潮の匂いに混じって、焼けた金属のような匂いがした。

 ルアリは洞窟の入口で立ち止まり、帳面を開いた。

 この状況でも記録するのかと、ソルカは思った。

 けれど彼は、書くのではなく、最後の確認をしているようだった。

「干潮の底まで、四半刻」

「その後は?」

「潮が戻り始めます。奥へ行き、封印を解き、竜を殺し、戻るまでに半刻」

「間に合わなければ」

「溺れます」

「竜以前の問題ね」

「よくある死に方です」

「やめて、その言い方」

 ルアリは油布で帳面を包み直し、石の隙間へ置いた。

 その前に一度だけ、東の空を見た。

 空の底は、まだ青黒い。夜明けには、少し早い。

 その上に、小さな骨札を置く。

「何?」

「戻れなかった場合、記録だけでも残るように」

「縁起でもない」

「必要です」

「でも、戻るのよ」

「はい」

 ルアリは、少しだけ間を置いた。

「戻ります」

 それから、二人は洞窟へ入った。


 内部は、暗かった。

 だが、完全な闇ではない。

 洞窟の壁に、赤い光がうっすらと走っている。苔ではない。岩そのものの奥で、火が眠っているようだった。

 足元には浅く水が残っている。ソルカの靴が水を踏むたび、冷たさが足首まで伝わった。

 ルアリは、迷わず進んだ。

 何度も通った道なのだろう。どの岩が滑るか、どの水たまりが深いか、どこで頭を下げるべきか、すべて知っている。

「よく一人で来るの?」

「はい」

「危ないのに?」

「必要です」

「嫌にならない?」

「なります」

 即答だった。

 ソルカは、少しだけ息を呑んだ。

「でも来るのね」

「必要ですから」

 その言い方は、この数日で何度も聞いた。

 だが今は、少し違って聞こえた。

 嫌でも来る。怖くても来る。必要だから、来る。

 彼もまた、怖くないわけではないのだ。

 洞窟の奥へ進むほど、音が変わった。

 外の波音が遠ざかり、代わりに、低い寝息のような響きが近づいてくる。

 岩の奥で、何かが眠っている。

 大きすぎるものが、狭い洞窟の中に、無理やり押し込められている。

 ルアリが、足を止めた。

 そこには、広い空洞があった。

 干潮で水が引いたために現れた岩床だろう。中央に、黒い巨岩のようなものが横たわっている。最初、ソルカはそれを岩だと思った。

 だが、違った。

 鱗だった。

 黒鉄のような鱗が、岩と一体化するように眠っている。ところどころ白く乾き、ところどころ赤くひび割れていた。

 竜は、伝承の中で想像したほど美しくも、王者のようでもなかった。

 老いていた。

 腐りかけていた。

 それでも、圧倒的に大きかった。

 首は洞窟の奥へ曲がり、翼は岩に埋もれている。尾は水の中へ沈んで見えなかった。

 胸のあたりに、七本の黒い石柱が打ち込まれ、その周りを、淡い光の鎖が巡っていた。

 ソルカは、息をするのを忘れた。

「これが」

「竜です」

 ルアリは、低く言った。

「あなたの祖と、初代のルアリが、殺せなかったもの」

 竜の目は閉じていた。

 だが、その瞼の下で、赤い光がゆっくりと動いている。

 生きている。

 ソルカは、剣の柄を握り直した。

「傷はどこ」

 ルアリは、竜の首元を指した。

 そこだけ、鱗が歪んでいた。

 古い傷が、黒い岩の裂け目のように残っている。周囲には赤い筋が走り、心臓の鼓動のように、ゆっくりと光っていた。

「あそこです」

「届く?」

「首を上げさせなければ、届きません」

「どうやって」

「私が、封印を解きます」

 ルアリは杖を立てた。

 その瞬間、空洞の空気が変わった。

 冷たい潮の匂いの中に、熱が広がる。

 石柱の隙間から、赤い霧が糸のように漏れ、硫黄の匂いが満ちていく。

 石柱がかすかに震え、光の鎖が音を立てた。

 ソルカはルアリを見た。

「解いたら、どうなるの」

「竜が目覚めます」

「それだけ?」

「私が失敗すれば、竜が完全に自由になります」

 石柱の一本が、軋むような音を立てた。空洞の奥で、何かがゆっくりと身じろぎした気配があった。

「それを先に言いなさい!」

「今言いました」

「遅いわ!」

 石柱の一本が、さらに大きく軋んだ。

 ルアリは、ほんの一瞬だけ笑った。

「では、始めます」

「ええ」

「ソルカ姫」

「何」

「私が合図するまで、動かないでください」

「今度は従うわ」

「珍しい」

「必要なときは従うの」

「それは助かります」


 ルアリは、竜へ向き直った。

 彼が呪文を唱え始めると、洞窟の中の音が消えた。

 それは、王都の聖堂で聞く祈りとは違っていた。

 歌でもなければ、詩でもない。もっと古く、数を合わせ、しるしを確かめる言葉だった。

 潮の満ち引きに合わせ、石に刻まれた印を順に起こし、竜の息の隙間へ言葉を差し込むような呪文。

 石柱の光が弱まる。

 鎖が、ひとつ、ふたつとほどける。

 竜の胸が、深く動いた。

 空洞全体が揺れた。

 ソルカは足を踏ん張った。

 ルアリの額に汗がにじむ。彼の紫紺の瞳が、暗い洞窟の中で星のように光っていた。

 鎖が、さらにほどける。

 竜の瞼が、開いた。

 赤い目。

 それは、夢で見た目と、同じだった。

 だが、目の前のそれは、夢よりも大きく、古く、ずっと憎しみに満ちていた。

 竜は、ソルカを見た。

 正確には――ソルカの剣を、見た。

 低い唸りが、洞窟を震わせた。

「覚えているのね」

 ソルカはつぶやいた。

「ええ」

 ルアリの声が、少し苦しそうだった。


 竜が、動いた。

 巨大な爪が岩床を削り、火花が散った。

 石柱の一本がきしむ。ルアリが杖を握り直し、呪文を強めた。

「まだです!」

 彼が叫んだ。

 ソルカは剣を握り、動かなかった。

 竜の首が、少しずつ持ち上がる。

 古い傷が見える。

 だが、まだ遠い。

 洞窟の外から、水音がした。

 潮が、戻り始めている。

「ルアリ」

「わかっています」

 彼の声が硬い。

 竜が口を開いた。奥に、赤い火が生まれた。熱が来る。

「まだ!」

 ソルカは、待った。

 剣を握る手に、父の声がよみがえる。

 刃を置くな。

 体ごと、届かせろ。

 竜の首が、上がる。

 古い傷が、ソルカの正面に来た。

「今です!」

 ソルカは走った。

 岩床は濡れていた。足が滑る。

 だが、稽古で数えた歩数を体が覚えている。半歩短く。踏み込みすぎるな。

 濡れた岩では、力よりも角度。

 竜が炎を吐いた。

 ルアリの魔法が、その炎を横へ逸らした。洞窟の壁が焼け、赤い光が弾ける。

 ソルカは踏み込んだ。

 剣を振る。

 だが――竜が、首を引いた。

 刃は、傷の端を削っただけだった。

 衝撃が腕に走る。体が流れ、足元が滑った。

「ソルカ姫!」

 ルアリの声。

 ソルカは岩床に片膝をついた。すぐに立とうとする。

 竜の爪が迫った。

 ルアリが杖を振る。光の鎖が爪に絡みつき、一瞬だけ止めた。

「下がってください!」

「嫌よ!」

「下がれ!」

「まだ届く!」

 ソルカは、再び走った。

 竜の目が、細くなった。

 そこに、知性があった。

 この赤毛の女が、かつて自分を斬った血の末だと、わかっている。

 竜は――あえて、首を下げた。

 傷が、近づく。

 誘っている。

 ソルカは気づいた。気づいたが、止まれなかった。

 竜の口に、火が生まれる。

 ルアリの顔色が変わった。

「退いてください、ソルカ姫!」

 ソルカは退かなかった。

 剣を両手で握り、夏空のような瞳で、竜の傷だけを見ていた。

 炎が来る。熱で息ができない。

 ルアリの術式が乱れ、杖に、ひびが入る音がした。

「――ソルカ!」

 姫でも、マクラウドでもない。ただの名を呼ばれた瞬間、恐怖が半分になった。

「来て、ルアリ!」

 ルアリが走った。

 黒い長衣が炎にあおられ、結んでいた赤毛がほどける。

「剣を!」

「ええ!」

「私が開きます」

「私が斬る」

 ルアリの手が、剣の柄を握るソルカの手に重なった。

 その瞬間、黒い刃の赤い筋が、燃えるように光った。

「離さないでください」

「離さないわ」

「刃を、傷へ」

「わかっている」

「いいえ」

 ルアリは、苦しそうに息を吐いた。

「あなたは、竜の傷ではなく、剣の記憶へ刃を入れる」

「剣の記憶?」

「三百年前、あなたの祖が届かせた場所です。剣は覚えている。私はそこへ道をつなぐ。あなたは、そこをもう一度斬る」

 竜が吠えた。洞窟が震えた。

 天井から水が落ち、岩の裂け目から赤い熱が噴き上がる。

 潮の戻る音が、外から近づいていた。

 岩床の低い場所には、すでに水が流れ込み始めている。

 ルアリはソルカの手を押さえたまま、ひびの入った杖を竜へ向けた。

 銀の糸が剣の柄からほどけ、細い光となって宙へ伸びる。石柱に残っていた封印の鎖が、その光に引かれて鳴った。

「今から、最後の封印を外します」

「そうしたら?」

「竜は、完全に目覚める」

「それ、最悪では?」

「今のままでは、首が上がらない」

「本当に、竜退治って不便ね」

「だから三百年、誰もやらなかった」

 ルアリの声は、震えていなかった。

 けれど、彼の手は冷たかった。

 ソルカは、重ねられたその手を、一瞬だけ握った。

「ルアリ」

「何です」

「私が斬るわ」

「ええ」

「あなたは、死なないで」

「努力します」

「違う」

 ソルカは、竜を見たまま言った。

「生きて戻るの」

 ルアリは、それに答える代わりに、重ねた指へ、ほんの少しだけ力を込めた。

「では」

 ルアリは、呪文を唱えた。

 最後の鎖が――切れた。


 竜が、起きた。

 それは、眠っていた山が身を起こすようだった。

 黒鉄の鱗が岩から剥がれ、翼の残骸が洞窟の壁を削る。七本の石柱のうち二本が砕け、赤い火花が空洞へ散った。赤い霧が渦を巻き、硫黄の匂いが息を刺す。

 竜の首が、高く上がる。

 古い傷が、見えた。

 だが同時に、竜の口が開いた。

 炎が生まれる。

 赤ではない。白に近い火だった。

 洞窟そのものを焼き尽くす光が、竜の喉の奥で膨らんでいく。

「ルアリ!」

「まだです!」

「でも」

「まだ!」

 ルアリは叫んだ。

 彼は竜ではなく、洞窟の入口を見ていた。

 ソルカも、振り返った。

 洞窟の外。

 海の向こう。

 灰色だった空の底が、ほんの一筋、金色に裂けていた。

 夜明けだった。

 戻り始めた潮が、洞窟の入口で薄く広がっている。

 その水面に、朝陽が触れた。

 光が、跳ねた。

 海に反射した最初の朝陽が、低い角度で洞窟の中へ差し込む。

 細い、金の刃のような光だった。濡れた岩床を滑り、潮だまりに砕け、黒い洞窟の奥へ届く。

 それは、竜の目を、まっすぐ射た。

 竜が、ひるんだ。

 赤い目が細くなる。

 三百年、封印の闇に慣れきった目が、朝の光に焼かれた。

 賭けだった。

 三百年分の帳面のどこにも、朝陽が竜を灼くとは書かれていない。

 あるのは、干潮の底が夜明けと重なるという潮見表の一行だけ。

 闇に慣れきった目は、光に弱い。

 ルアリは、それだけに賭けたのだ。

 その賭けが――当たった。

 ルアリが叫んだ。

「今です!」

 ソルカは走った。

 水が足首を打った。岩が滑る。竜の熱が顔を焼く。

 けれど、道は見えた。

 朝陽が、濡れた岩の上に一本の線を引いている。

 その線の先に、竜の首元の傷があった。

 ソルカは踏み込んだ.

 父の声がした。

 刃を置くな。

 体ごと、届かせろ。

 初代の兄も、こうして踏み込んだのだろうか。

 燃える赤毛を炎に焼かれながら、弟の魔法を背に受け、竜の喉元へ剣を届かせたのだろうか。

 ならば、今度は自分が届かせる。

 ソルカは叫んだ。

「マクラウドの名において!」

 剣を、振った。

 黒い刃が、古い傷へ入った。

 硬い、という感触はなかった。

 むしろ、そこだけ時が裂けているようだった。三百年前に開いた傷が、ソルカの剣を覚えていた。

 刃が沈む。

 赤い筋が光る。

 ルアリの魔法が、剣の中を走る。

 竜が、絶叫した。

 音が洞窟を満たした。耳が裂ける。足元が崩れる。砕けた石柱が水へ落ち、熱い飛沫が上がった。

 ソルカの腕が、弾かれそうになる。

「離すな!」

 ルアリの声がした。

 彼はソルカのすぐ後ろにいた。

 片手で剣の柄へ魔法を流し込み、もう片方の手で、砕けかけた封印の鎖をつかんでいる。

 その手から、血が流れていた。

「ルアリ!」

「押し込んでください!」

「これ以上は」

「押し込め!」

 初めて聞く、荒い命令だった。

 ソルカは歯を食いしばった。

 足元の岩を踏み、全身で剣を押し込む。

 剣が、さらに沈んだ。

 その瞬間、ルアリがソルカの耳元で、知らない言葉を叫んだ。

 古い、北の言葉だった。

 初代のルアリが残した言葉。三百年、記録帳の中で息をしていた、封印の終わりの言葉。

 剣の赤い筋が、白く輝いた。

 竜は、傷に刺さった剣ごとソルカを岩へ叩きつけようと、首をねじった。

 ルアリの手が、剣の柄を押さえ込む。

「今、離したら終わります」

「離さないわ」

 竜の胸の奥で――何かが、割れた。

 火が消える。

 赤い目から、光が抜ける。

 竜は大きく身を震わせた。

 翼が壁を叩き、爪が岩を削り、尾が水を打った。

 だがその動きは、もう攻撃ではなかった。

 死にゆくものが、最後に自分の大きさを思い出しているような、動きだった。

 ソルカは剣を離さなかった。

 ルアリも、離さなかった。

 竜の口から、炎ではなく、黒い煙が漏れた。

 煙は洞窟の天井へ上り、朝陽の中で薄れていく。

 焦げた鉄の匂いが、急速に消えていった。

 竜の首が、落ちた。

 洞窟全体が揺れた。

 水が跳ね、岩が崩れ、砕けた封印石の破片が、朝の光を受けて赤く光りながら散った。

 そして――長い沈黙が、来た。

 竜は、動かなかった。


 ソルカは、荒い息をしていた。

 剣はまだ竜の傷に突き立っている。腕の感覚がない。膝が震えている。

「……倒したの?」

 返事はなかった。

「ルアリ?」

 振り返ろうとした瞬間、後ろの重みが崩れた。

 ルアリが、膝をついていた。

 顔色が紙のように白い。唇に色がない。手から血が流れ、黒い長衣の袖を濡らしている。

 それでも彼は、竜を見ていた。

「記録」

「は?」

「竜の死亡時刻を」

「あとで!」

「潮位と、朝陽が入った時刻も」

「あとで!」

「記録に」

「生きて戻るって言ったでしょう!」

 ルアリは、少しだけ目を瞬かせた。

 それから、かすかに笑った。

「言いましたね」

「なら立って!」

「少し、難しい」

「難しくても立つの!」

 そのとき、洞窟の外から水音が大きくなった。

 潮が、戻っている。

 岩床の低いところは、もう水に覆われていた。入ってきた道の一部が、沈みかけている。

「立てる?」

「たぶん」

「たぶんは嫌い」

「私もです」

 ソルカはルアリの腕を自分の肩へ回した。

 彼は、軽くはなかった。だが、思っていたより重くもなかった。

 ずっと眠らず、ろくに食べず、洞窟を見続けてきた体だった。

 ソルカは歯を食いしばった。

「歩いて」

「剣を、抜いてください」

「あなたを支えながら?」

「はい」

「本当に面倒な人ね!」

 ソルカはルアリを岩にもたれさせ、竜の首元へ戻った。

 剣の柄を、両手で握る。

 抜けない。

「ソルカ」

「黙って」

 もう一度、引く。

 剣は、竜の傷から、ゆっくりと抜けた。

 刃は黒いままだった。だが、赤い筋は以前より深く、静かに光っているように見えた。

 ソルカは剣を鞘へ戻し、ルアリのところへ戻った。

「歩くわよ」

「命令ですか」

「命令よ」

「では、従います」

 二人は、洞窟の出口へ向かった。

 水は膝まで来ていた。潮は冷たい。だが、洞窟の奥から来る熱は、もうなかった。焦げた鉄の匂いも薄れている。

 代わりに、ただの海の匂いがした。

 何度も足を取られた。

 ルアリが一度、完全に崩れかけた。ソルカは彼の腰を抱えるようにして支えた。

「重い!」

「申し訳ありません」

「謝る暇があったら歩いて!」

「努力しています」

「もっと努力して!」

「無茶を言う」

「あなたにだけは言われたくないわ!」

 出口の光が、近づく。

 朝陽はもう、洞窟の入口全体を照らしていた。灰色の海が金色に変わっている。波が岩に砕け、白い泡が朝の光を弾いた。

 最後の岩棚を越えたとき、後ろで大きな音がした。

 洞窟の奥が、崩れたのだ。

 ソルカは、振り返りそうになった。

 ルアリが、止めた。

「見ないで」

「でも」

「終わりました」

 その声は、ひどく小さかった。

「終わったんです」


 洞窟の外は、朝だった。

 崖の上に、村人たちが立っていた。

 誰も、声を出さなかった。


 二人が岩場へ出た瞬間、海風が吹いた。

 赤い霧は、なかった。

 焦げた鉄の匂いも、なかった。

 ただ、潮の匂いがした。

 マーラが、崖上から叫んだ。

「ルアリ!」

 ルアリは手を上げようとして、失敗し、ソルカの肩に半分だけ体を預けた。

「ちょっと。大丈夫?」

「……あとで、寝ます」

「今は駄目よ」

「わかっています。あとで――生まれて初めて、安心して寝ます」


 腕は痛い。足は冷たい。剣は重い。髪は潮風と熱でほどけ、顔は煤に汚れ、服は濡れて岩にすりきれている。

 王都の誰が見ても、令嬢とは呼ばないだろう。

 それでもソルカは、昇ったばかりの朝陽に目を細めた。

 誇らしげに。満足げに。

 古すぎて値がつかなかった娘は、煤だらけの顔で、三百年分の朝陽に向かって笑っていた。

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