七 干潮の洞窟
剣は、重かった。
ソルカは、その重さを知っていたつもりだった。
幼いころから何度も持ち、何度も振り、何度も父に構えを直された。
足を開きすぎるな。
肩に力を入れるな。
刃を置くな、運べ。
剣は腕で振るものではない、体ごと届かせるものだ。
けれど、決戦の前夜、マーラの家の隅で膝に置いた剣は、これまでとまるで違う重さをしていた。
黒い刃に、赤い筋が走っている。
初代の兄が竜に入れた、傷の記憶。
三百年分の、重さだった。
夕食は、また薄い粥だったが、今夜は少しだけ干した海藻が入っていた。
「明日かい」
マーラが言った。
ソルカは匙を止めた。
「聞いたの?」
「聞かなくてもわかるよ。洞窟の音が違う」
「……あなたたちは、竜のことを知っていたのね」
「竜と呼ぶかどうかは、人によるね。年寄りは竜と言う。若い者は、洞窟の毒と言う。子供は、赤い霧と言う」
「マーラは?」
マーラは鍋をかき混ぜた。
「私は、ルアリを眠らせないもの、と呼んでいる」
ソルカは、その言い方に少し息を呑んだ。
暖炉の火が、鍋の底を赤く照らしている。
「あの子は、若いんだよ」
「ええ」
「若いのに、ずっと年寄りみたいな顔をしている。先代が死んでから、特にね」
「先代?」
「叔父だよ。父親ではない。封印守の名を継ぐ者が、いつも親から子へ続くとは限らない。続けられる者が継ぐ。継げる者が、ほかにいなかった」
ソルカは、匙を置いた。
「だから彼は、自分の子に継がせたくないのね」
「子どころか、嫁を取る気もないさ」
マーラは鼻を鳴らした。
「自分が最後でいいと思っている。腹の立つ子だよ」
「責めないの?」
「責めてどうする。ここを出ていった若い者は何人もいる。出ていかずに残ったルアリだけを責めるなら、それは筋が違う」
ソルカは、何も言えなかった。
マーラは粥をよそい直し、ソルカの前に置いた。
「食べな。剣を振るなら、腹に入れときな」
「竜退治の前に粥なのね」
「肉があれば肉を出すよ」
「ごめんなさい」
「謝るほどのことじゃない」
マーラは少し笑った。
「でも、生きて戻ったら、何かうまいものを食べるといい」
「何があるの」
「今はないね」
「では、南から持ってくるわ」
「大きく出たね」
「マクラウドですから」
そう言うと、マーラはしばらくソルカを見た。
その目は、初めて、少しだけ優しかった。
「そうかい」
彼女は言った。
「なら、戻っておいで。南のマクラウド」
夜は短かった。
眠ったのか、眠っていないのか、ソルカにはよくわからなかった。
外では風が鳴り、遠くで洞窟が低く唸っている。
夢の中で、ソルカはまた赤い光を見た。
だが今度は、光は二つの目になっていた。
その目の前には、黒い刃があった。
自分の手が、その剣を握っていた。
夜明け前、ルアリが迎えに来た。
マーラが起き上がるより早く、ソルカは外套を羽織って扉を開けた。
ルアリは、黒い長衣を着ていた。
腰には鍵束。肩からは革の帯をかけ、そこに小さな瓶や銀の針、骨でできた札を吊っている。片手には細い杖、もう片方の手には油布で巻いた帳面を持っていた。
赤毛はきつく結ばれ、紫紺の瞳の下には薄い影が落ちていた。
「眠りましたか」
「少し」
「嘘ですね」
「あなたもでしょう」
「私は慣れています」
「それ、自慢にならないわ」
ルアリはそれには答えず、ソルカの剣を見た。
「持てますか」
「ええ」
「腕は」
「痛いわ」
「正直ですね」
「隠しても、あなたは気づくでしょう」
「ええ」
「腹が立つ」
「よく言われます」
出立の前に、ルアリはソルカの剣の柄へ、細い銀の糸を巻いた。
「何?」
「私の魔法を通すための、道筋です」
「剣が壊れたりしない?」
「剣より先に、私が壊れます」
「……そういうことは、先に言って」
「言えば、やめましたか」
「やめないわ」
「なら、同じです」
マーラが奥から出てきた。
彼女は何も言わず、布に包んだ燕麦の堅焼きをソルカに押しつけた。
「持っていきな」
「ありがとう」
「ルアリ」
「何です」
「この子を死なせるんじゃないよ」
ルアリは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「努力します」
「その返事は嫌いだね」
「私もです」
マーラは舌打ちした。
「なら、違う返事をしな」
ルアリは、しばらく言葉を探していた。
それから、ソルカを見た。
「生きて戻します」
マーラはうなずいた。
「それでいい」
外へ出ると、空はまだ暗かった。
東の端が、ほんの少しだけ白み始めている。
干潮の時刻が近い。海は大きく引き、昨日まで水に隠れていた黒い岩場が露出しているはずだった。
村の者たちが、家の前に出ていた。
老人、女、子供、怪我で足を引きずる男。数えるほどしかいない人々が、黙って二人を見ている。
誰も歓声を上げなかった。
その中の一人が、ソルカの剣を見て小さく言った。
「ほんとうに、竜を斬るの?」
ソルカは、少し考えた。
「斬るわ」
「こわくない?」
「怖いわ」
子供は目を丸くした。
「でも行くの?」
「怖くても、行かないといけない時があるの」
子供は、よくわからないという顔をした。
ルアリが歩き出し、ソルカはその横へ並んだ。
「ソルカ姫」
「何」
「洞窟の中では、私の指示に従ってください」
「内容によるわ」
「内容を選ぶ時間はありません」
「では、変な指示を出さないで」
「努力します」
「それも嫌い」
「――生きて出します」
「よろしい」
ルアリは、少しだけ横目でソルカを見た。
「あなたは本当に」
「何?」
「厄介な人だ」
「光栄ね」
「褒めていません」
「知っているわ」
崖を下りる道は、細かった。
昨日までの稽古で通った岩場を過ぎると、風の音が変わった。
草の匂いが薄れ、代わりに濡れた岩と塩と、焦げた鉄の匂いが濃くなる。
道筋の草は枯れ、足元の岩は黒く、ところどころ赤黒い苔がこびりついていた。
ルアリが赤黒い苔を避けて進むので、ソルカも同じ足場を追った。
「赤苔には、触れないでください」
「毒?」
「竜の息を吸っています」
「それは毒という意味では?」
「おおむね」
「なぜ最初からそう言わないの」
「説明を短くしただけです」
「短くしすぎよ」
岩棚へ下りると、海蝕洞の口が目の前にあった。
――大きい。
思っていたよりも、ずっと大きい。
巨大な獣が、口を開けて待っているようだった。
洞窟の天井からは水が落ち、黒い岩肌を伝っている。
奥は暗く、風が吹き出していた。風なのに、熱を持っている。
潮の匂いに混じって、焼けた金属のような匂いがした。
ルアリは洞窟の入口で立ち止まり、帳面を開いた。
この状況でも記録するのかと、ソルカは思った。
けれど彼は、書くのではなく、最後の確認をしているようだった。
「干潮の底まで、四半刻」
「その後は?」
「潮が戻り始めます。奥へ行き、封印を解き、竜を殺し、戻るまでに半刻」
「間に合わなければ」
「溺れます」
「竜以前の問題ね」
「よくある死に方です」
「やめて、その言い方」
ルアリは油布で帳面を包み直し、石の隙間へ置いた。
その前に一度だけ、東の空を見た。
空の底は、まだ青黒い。夜明けには、少し早い。
その上に、小さな骨札を置く。
「何?」
「戻れなかった場合、記録だけでも残るように」
「縁起でもない」
「必要です」
「でも、戻るのよ」
「はい」
ルアリは、少しだけ間を置いた。
「戻ります」
それから、二人は洞窟へ入った。
内部は、暗かった。
だが、完全な闇ではない。
洞窟の壁に、赤い光がうっすらと走っている。苔ではない。岩そのものの奥で、火が眠っているようだった。
足元には浅く水が残っている。ソルカの靴が水を踏むたび、冷たさが足首まで伝わった。
ルアリは、迷わず進んだ。
何度も通った道なのだろう。どの岩が滑るか、どの水たまりが深いか、どこで頭を下げるべきか、すべて知っている。
「よく一人で来るの?」
「はい」
「危ないのに?」
「必要です」
「嫌にならない?」
「なります」
即答だった。
ソルカは、少しだけ息を呑んだ。
「でも来るのね」
「必要ですから」
その言い方は、この数日で何度も聞いた。
だが今は、少し違って聞こえた。
嫌でも来る。怖くても来る。必要だから、来る。
彼もまた、怖くないわけではないのだ。
洞窟の奥へ進むほど、音が変わった。
外の波音が遠ざかり、代わりに、低い寝息のような響きが近づいてくる。
岩の奥で、何かが眠っている。
大きすぎるものが、狭い洞窟の中に、無理やり押し込められている。
ルアリが、足を止めた。
そこには、広い空洞があった。
干潮で水が引いたために現れた岩床だろう。中央に、黒い巨岩のようなものが横たわっている。最初、ソルカはそれを岩だと思った。
だが、違った。
鱗だった。
黒鉄のような鱗が、岩と一体化するように眠っている。ところどころ白く乾き、ところどころ赤くひび割れていた。
竜は、伝承の中で想像したほど美しくも、王者のようでもなかった。
老いていた。
腐りかけていた。
それでも、圧倒的に大きかった。
首は洞窟の奥へ曲がり、翼は岩に埋もれている。尾は水の中へ沈んで見えなかった。
胸のあたりに、七本の黒い石柱が打ち込まれ、その周りを、淡い光の鎖が巡っていた。
ソルカは、息をするのを忘れた。
「これが」
「竜です」
ルアリは、低く言った。
「あなたの祖と、初代のルアリが、殺せなかったもの」
竜の目は閉じていた。
だが、その瞼の下で、赤い光がゆっくりと動いている。
生きている。
ソルカは、剣の柄を握り直した。
「傷はどこ」
ルアリは、竜の首元を指した。
そこだけ、鱗が歪んでいた。
古い傷が、黒い岩の裂け目のように残っている。周囲には赤い筋が走り、心臓の鼓動のように、ゆっくりと光っていた。
「あそこです」
「届く?」
「首を上げさせなければ、届きません」
「どうやって」
「私が、封印を解きます」
ルアリは杖を立てた。
その瞬間、空洞の空気が変わった。
冷たい潮の匂いの中に、熱が広がる。
石柱の隙間から、赤い霧が糸のように漏れ、硫黄の匂いが満ちていく。
石柱がかすかに震え、光の鎖が音を立てた。
ソルカはルアリを見た。
「解いたら、どうなるの」
「竜が目覚めます」
「それだけ?」
「私が失敗すれば、竜が完全に自由になります」
石柱の一本が、軋むような音を立てた。空洞の奥で、何かがゆっくりと身じろぎした気配があった。
「それを先に言いなさい!」
「今言いました」
「遅いわ!」
石柱の一本が、さらに大きく軋んだ。
ルアリは、ほんの一瞬だけ笑った。
「では、始めます」
「ええ」
「ソルカ姫」
「何」
「私が合図するまで、動かないでください」
「今度は従うわ」
「珍しい」
「必要なときは従うの」
「それは助かります」
ルアリは、竜へ向き直った。
彼が呪文を唱え始めると、洞窟の中の音が消えた。
それは、王都の聖堂で聞く祈りとは違っていた。
歌でもなければ、詩でもない。もっと古く、数を合わせ、しるしを確かめる言葉だった。
潮の満ち引きに合わせ、石に刻まれた印を順に起こし、竜の息の隙間へ言葉を差し込むような呪文。
石柱の光が弱まる。
鎖が、ひとつ、ふたつとほどける。
竜の胸が、深く動いた。
空洞全体が揺れた。
ソルカは足を踏ん張った。
ルアリの額に汗がにじむ。彼の紫紺の瞳が、暗い洞窟の中で星のように光っていた。
鎖が、さらにほどける。
竜の瞼が、開いた。
赤い目。
それは、夢で見た目と、同じだった。
だが、目の前のそれは、夢よりも大きく、古く、ずっと憎しみに満ちていた。
竜は、ソルカを見た。
正確には――ソルカの剣を、見た。
低い唸りが、洞窟を震わせた。
「覚えているのね」
ソルカはつぶやいた。
「ええ」
ルアリの声が、少し苦しそうだった。
竜が、動いた。
巨大な爪が岩床を削り、火花が散った。
石柱の一本がきしむ。ルアリが杖を握り直し、呪文を強めた。
「まだです!」
彼が叫んだ。
ソルカは剣を握り、動かなかった。
竜の首が、少しずつ持ち上がる。
古い傷が見える。
だが、まだ遠い。
洞窟の外から、水音がした。
潮が、戻り始めている。
「ルアリ」
「わかっています」
彼の声が硬い。
竜が口を開いた。奥に、赤い火が生まれた。熱が来る。
「まだ!」
ソルカは、待った。
剣を握る手に、父の声がよみがえる。
刃を置くな。
体ごと、届かせろ。
竜の首が、上がる。
古い傷が、ソルカの正面に来た。
「今です!」
ソルカは走った。
岩床は濡れていた。足が滑る。
だが、稽古で数えた歩数を体が覚えている。半歩短く。踏み込みすぎるな。
濡れた岩では、力よりも角度。
竜が炎を吐いた。
ルアリの魔法が、その炎を横へ逸らした。洞窟の壁が焼け、赤い光が弾ける。
ソルカは踏み込んだ。
剣を振る。
だが――竜が、首を引いた。
刃は、傷の端を削っただけだった。
衝撃が腕に走る。体が流れ、足元が滑った。
「ソルカ姫!」
ルアリの声。
ソルカは岩床に片膝をついた。すぐに立とうとする。
竜の爪が迫った。
ルアリが杖を振る。光の鎖が爪に絡みつき、一瞬だけ止めた。
「下がってください!」
「嫌よ!」
「下がれ!」
「まだ届く!」
ソルカは、再び走った。
竜の目が、細くなった。
そこに、知性があった。
この赤毛の女が、かつて自分を斬った血の末だと、わかっている。
竜は――あえて、首を下げた。
傷が、近づく。
誘っている。
ソルカは気づいた。気づいたが、止まれなかった。
竜の口に、火が生まれる。
ルアリの顔色が変わった。
「退いてください、ソルカ姫!」
ソルカは退かなかった。
剣を両手で握り、夏空のような瞳で、竜の傷だけを見ていた。
炎が来る。熱で息ができない。
ルアリの術式が乱れ、杖に、ひびが入る音がした。
「――ソルカ!」
姫でも、マクラウドでもない。ただの名を呼ばれた瞬間、恐怖が半分になった。
「来て、ルアリ!」
ルアリが走った。
黒い長衣が炎にあおられ、結んでいた赤毛がほどける。
「剣を!」
「ええ!」
「私が開きます」
「私が斬る」
ルアリの手が、剣の柄を握るソルカの手に重なった。
その瞬間、黒い刃の赤い筋が、燃えるように光った。
「離さないでください」
「離さないわ」
「刃を、傷へ」
「わかっている」
「いいえ」
ルアリは、苦しそうに息を吐いた。
「あなたは、竜の傷ではなく、剣の記憶へ刃を入れる」
「剣の記憶?」
「三百年前、あなたの祖が届かせた場所です。剣は覚えている。私はそこへ道をつなぐ。あなたは、そこをもう一度斬る」
竜が吠えた。洞窟が震えた。
天井から水が落ち、岩の裂け目から赤い熱が噴き上がる。
潮の戻る音が、外から近づいていた。
岩床の低い場所には、すでに水が流れ込み始めている。
ルアリはソルカの手を押さえたまま、ひびの入った杖を竜へ向けた。
銀の糸が剣の柄からほどけ、細い光となって宙へ伸びる。石柱に残っていた封印の鎖が、その光に引かれて鳴った。
「今から、最後の封印を外します」
「そうしたら?」
「竜は、完全に目覚める」
「それ、最悪では?」
「今のままでは、首が上がらない」
「本当に、竜退治って不便ね」
「だから三百年、誰もやらなかった」
ルアリの声は、震えていなかった。
けれど、彼の手は冷たかった。
ソルカは、重ねられたその手を、一瞬だけ握った。
「ルアリ」
「何です」
「私が斬るわ」
「ええ」
「あなたは、死なないで」
「努力します」
「違う」
ソルカは、竜を見たまま言った。
「生きて戻るの」
ルアリは、それに答える代わりに、重ねた指へ、ほんの少しだけ力を込めた。
「では」
ルアリは、呪文を唱えた。
最後の鎖が――切れた。
竜が、起きた。
それは、眠っていた山が身を起こすようだった。
黒鉄の鱗が岩から剥がれ、翼の残骸が洞窟の壁を削る。七本の石柱のうち二本が砕け、赤い火花が空洞へ散った。赤い霧が渦を巻き、硫黄の匂いが息を刺す。
竜の首が、高く上がる。
古い傷が、見えた。
だが同時に、竜の口が開いた。
炎が生まれる。
赤ではない。白に近い火だった。
洞窟そのものを焼き尽くす光が、竜の喉の奥で膨らんでいく。
「ルアリ!」
「まだです!」
「でも」
「まだ!」
ルアリは叫んだ。
彼は竜ではなく、洞窟の入口を見ていた。
ソルカも、振り返った。
洞窟の外。
海の向こう。
灰色だった空の底が、ほんの一筋、金色に裂けていた。
夜明けだった。
戻り始めた潮が、洞窟の入口で薄く広がっている。
その水面に、朝陽が触れた。
光が、跳ねた。
海に反射した最初の朝陽が、低い角度で洞窟の中へ差し込む。
細い、金の刃のような光だった。濡れた岩床を滑り、潮だまりに砕け、黒い洞窟の奥へ届く。
それは、竜の目を、まっすぐ射た。
竜が、ひるんだ。
赤い目が細くなる。
三百年、封印の闇に慣れきった目が、朝の光に焼かれた。
賭けだった。
三百年分の帳面のどこにも、朝陽が竜を灼くとは書かれていない。
あるのは、干潮の底が夜明けと重なるという潮見表の一行だけ。
闇に慣れきった目は、光に弱い。
ルアリは、それだけに賭けたのだ。
その賭けが――当たった。
ルアリが叫んだ。
「今です!」
ソルカは走った。
水が足首を打った。岩が滑る。竜の熱が顔を焼く。
けれど、道は見えた。
朝陽が、濡れた岩の上に一本の線を引いている。
その線の先に、竜の首元の傷があった。
ソルカは踏み込んだ.
父の声がした。
刃を置くな。
体ごと、届かせろ。
初代の兄も、こうして踏み込んだのだろうか。
燃える赤毛を炎に焼かれながら、弟の魔法を背に受け、竜の喉元へ剣を届かせたのだろうか。
ならば、今度は自分が届かせる。
ソルカは叫んだ。
「マクラウドの名において!」
剣を、振った。
黒い刃が、古い傷へ入った。
硬い、という感触はなかった。
むしろ、そこだけ時が裂けているようだった。三百年前に開いた傷が、ソルカの剣を覚えていた。
刃が沈む。
赤い筋が光る。
ルアリの魔法が、剣の中を走る。
竜が、絶叫した。
音が洞窟を満たした。耳が裂ける。足元が崩れる。砕けた石柱が水へ落ち、熱い飛沫が上がった。
ソルカの腕が、弾かれそうになる。
「離すな!」
ルアリの声がした。
彼はソルカのすぐ後ろにいた。
片手で剣の柄へ魔法を流し込み、もう片方の手で、砕けかけた封印の鎖をつかんでいる。
その手から、血が流れていた。
「ルアリ!」
「押し込んでください!」
「これ以上は」
「押し込め!」
初めて聞く、荒い命令だった。
ソルカは歯を食いしばった。
足元の岩を踏み、全身で剣を押し込む。
剣が、さらに沈んだ。
その瞬間、ルアリがソルカの耳元で、知らない言葉を叫んだ。
古い、北の言葉だった。
初代のルアリが残した言葉。三百年、記録帳の中で息をしていた、封印の終わりの言葉。
剣の赤い筋が、白く輝いた。
竜は、傷に刺さった剣ごとソルカを岩へ叩きつけようと、首をねじった。
ルアリの手が、剣の柄を押さえ込む。
「今、離したら終わります」
「離さないわ」
竜の胸の奥で――何かが、割れた。
火が消える。
赤い目から、光が抜ける。
竜は大きく身を震わせた。
翼が壁を叩き、爪が岩を削り、尾が水を打った。
だがその動きは、もう攻撃ではなかった。
死にゆくものが、最後に自分の大きさを思い出しているような、動きだった。
ソルカは剣を離さなかった。
ルアリも、離さなかった。
竜の口から、炎ではなく、黒い煙が漏れた。
煙は洞窟の天井へ上り、朝陽の中で薄れていく。
焦げた鉄の匂いが、急速に消えていった。
竜の首が、落ちた。
洞窟全体が揺れた。
水が跳ね、岩が崩れ、砕けた封印石の破片が、朝の光を受けて赤く光りながら散った。
そして――長い沈黙が、来た。
竜は、動かなかった。
ソルカは、荒い息をしていた。
剣はまだ竜の傷に突き立っている。腕の感覚がない。膝が震えている。
「……倒したの?」
返事はなかった。
「ルアリ?」
振り返ろうとした瞬間、後ろの重みが崩れた。
ルアリが、膝をついていた。
顔色が紙のように白い。唇に色がない。手から血が流れ、黒い長衣の袖を濡らしている。
それでも彼は、竜を見ていた。
「記録」
「は?」
「竜の死亡時刻を」
「あとで!」
「潮位と、朝陽が入った時刻も」
「あとで!」
「記録に」
「生きて戻るって言ったでしょう!」
ルアリは、少しだけ目を瞬かせた。
それから、かすかに笑った。
「言いましたね」
「なら立って!」
「少し、難しい」
「難しくても立つの!」
そのとき、洞窟の外から水音が大きくなった。
潮が、戻っている。
岩床の低いところは、もう水に覆われていた。入ってきた道の一部が、沈みかけている。
「立てる?」
「たぶん」
「たぶんは嫌い」
「私もです」
ソルカはルアリの腕を自分の肩へ回した。
彼は、軽くはなかった。だが、思っていたより重くもなかった。
ずっと眠らず、ろくに食べず、洞窟を見続けてきた体だった。
ソルカは歯を食いしばった。
「歩いて」
「剣を、抜いてください」
「あなたを支えながら?」
「はい」
「本当に面倒な人ね!」
ソルカはルアリを岩にもたれさせ、竜の首元へ戻った。
剣の柄を、両手で握る。
抜けない。
「ソルカ」
「黙って」
もう一度、引く。
剣は、竜の傷から、ゆっくりと抜けた。
刃は黒いままだった。だが、赤い筋は以前より深く、静かに光っているように見えた。
ソルカは剣を鞘へ戻し、ルアリのところへ戻った。
「歩くわよ」
「命令ですか」
「命令よ」
「では、従います」
二人は、洞窟の出口へ向かった。
水は膝まで来ていた。潮は冷たい。だが、洞窟の奥から来る熱は、もうなかった。焦げた鉄の匂いも薄れている。
代わりに、ただの海の匂いがした。
何度も足を取られた。
ルアリが一度、完全に崩れかけた。ソルカは彼の腰を抱えるようにして支えた。
「重い!」
「申し訳ありません」
「謝る暇があったら歩いて!」
「努力しています」
「もっと努力して!」
「無茶を言う」
「あなたにだけは言われたくないわ!」
出口の光が、近づく。
朝陽はもう、洞窟の入口全体を照らしていた。灰色の海が金色に変わっている。波が岩に砕け、白い泡が朝の光を弾いた。
最後の岩棚を越えたとき、後ろで大きな音がした。
洞窟の奥が、崩れたのだ。
ソルカは、振り返りそうになった。
ルアリが、止めた。
「見ないで」
「でも」
「終わりました」
その声は、ひどく小さかった。
「終わったんです」
洞窟の外は、朝だった。
崖の上に、村人たちが立っていた。
誰も、声を出さなかった。
二人が岩場へ出た瞬間、海風が吹いた。
赤い霧は、なかった。
焦げた鉄の匂いも、なかった。
ただ、潮の匂いがした。
マーラが、崖上から叫んだ。
「ルアリ!」
ルアリは手を上げようとして、失敗し、ソルカの肩に半分だけ体を預けた。
「ちょっと。大丈夫?」
「……あとで、寝ます」
「今は駄目よ」
「わかっています。あとで――生まれて初めて、安心して寝ます」
腕は痛い。足は冷たい。剣は重い。髪は潮風と熱でほどけ、顔は煤に汚れ、服は濡れて岩にすりきれている。
王都の誰が見ても、令嬢とは呼ばないだろう。
それでもソルカは、昇ったばかりの朝陽に目を細めた。
誇らしげに。満足げに。
古すぎて値がつかなかった娘は、煤だらけの顔で、三百年分の朝陽に向かって笑っていた。




