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剣の姫君と封印守の魔法使い  作者: 如月アトリ


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7/11

六 剣の記憶

 翌朝、丘の上の草地に、ルアリは縄と石で奇妙な図形を作っていた。

 縄が地面を区切り、石が並び、赤い布を結んだ棒が一本、斜めに立っている。

「洞窟の最奥です。実寸で」

 ルアリは帳面を片手に言った。

「縄の内側が岩棚。ここから先は水。この石が、崩れていて足場にならない岩。棒の布が――古傷の高さです。初代の記録から割り出しました」

 ソルカは草地に立ち、図形を見渡した。

「まずは、いつも通りに動いてみてください」

 ソルカは剣を抜いた。

 構え、踏み込み、斬り上げ、返す。マクラウド家に伝わる型だった。物心つく前から数えきれないほど繰り返した、体に染みた動きだ。

 振り終えると、ルアリは言った。

「綺麗ですね」

「……それ、褒めていないわね?」

「はい」

 即答だった。

「綺麗な型は、乾いた床と、十分な広さと、待ってくれる相手のためのものです。あそこにあるのは、濡れた岩と、狭い足場と、蝋燭一本分の時間だけです」

 ソルカは剣を握り直した。

「では、どうすればいいの」

「数えます」

 ルアリは、縄の縁を指した。

「岩棚の縁から的まで、あなたの足で何歩か。踏み込みは何歩目か。踏み込んだとき、切っ先はどこまで届くか。全部、数えます」

 ソルカは歩いた。数えた。

 七歩。踏み込みは六歩目。

 ルアリは結び目のついた紐でソルカの腕を測り、剣の長さを測り、踏み込んだときの切っ先の位置に小石を置き、すべてを帳面に書きつけた。

「私の歩幅と腕の長さまで、帳面につけるの?」

「すべてつけます」

「……本当に、竜退治なのよね、これ」

「竜退治です」

 ルアリは顔も上げずに言った。

「英雄譚に書かれないだけで、竜退治とは、こういうものです」


 残り、五日。


 午後は、浜へ下りた。

 洞窟から離れた、毒気のない岩場だった。それでも岩は濡れ、海藻がぬめり、波しぶきが足元を洗う。

「歩いてください」

 ソルカは歩いた。

 三歩目で滑った。

「踏み込んでください」

 踏み込んだ。膝をついた。

「もう一度」

 滑った。手のひらを擦りむいた。

「もう一度」

「言われなくても、やるわよ」

 濡れた岩の上では、王都の稽古場で覚えたすべてが裏切った。

 強く踏めば滑る。腰を落とせば波を被る。

 ルアリは、滑らない踏み方を教えた。

 つま先の向き、体重の預け方、滑ったときに剣を放さずに転ぶ転び方。

「転び方の稽古なんて、初めてよ」

「岩場では、転ばない人間より、正しく転ぶ人間のほうが生き残ります」

 風が強い日には、風の稽古になった。

 海からの突風が、切っ先を流す。

「風は敵ではありません。読むものです。波が三つ来るあいだに、必ず一度、息をつく。そこで振る」

 風向き。足場。潮位。岩の高さ。剣の長さ。腕の届く範囲。

 竜退治というものが、華やかな武勇伝ではなく、歩数と角度と潮見表でできた作業なのだと、ソルカは体で覚えていった。

 日が暮れて村へ戻ると、マーラが擦り傷に軟膏を塗ってくれた。

「派手にやってるね」

「ええ」

「あの子はどうだい」

「感じは悪いままよ」

「そりゃよかった」

 マーラは笑った。何がよかったのか、ソルカにはよくわからなかった。


 残り、四日。


 その日から、的が動くようになった。

 赤い布を結んだ棒が、岩陰に見立てた石の向こうから、ゆっくりと持ち上がる。

 光もなく、音もなく、ただ持ち上がる。

 それは、ソルカが初めて見るルアリの魔法だった。

 杖も呪文も使わない。彼は少し離れた岩に腰掛け、帳面を開いたまま、指先ひとつで棒を動かしていた。

「目覚めた竜は、まず首を上げます。記録によれば」

 ルアリは言った。

「上げきる前の、一拍。古傷が岩棚の高さを通る。そこだけが、あなたの間合いです。上がりきってからでは高すぎる。下りてからでは、竜はもうあなたを見ている」

「一拍って、どれくらい」

「これくらいです」

 棒が、すっと持ち上がった。

 ソルカは踏み込んだ。切っ先は、赤い布のはるか下を通った。

「もう一度」

 外した。

「もう一度」

 かすった。

「もう一度」

 悪態をつきながら、ソルカは何度でも踏み込んだ。


 そのとき、崖下で洞窟が鳴った。

 風でも、波でもなかった。地面の下で、大きなものが身じろぎしたような音だった。

 赤い布を結んだ棒が、ルアリの指先とは別の力に引かれたように、かすかに震えた。

「今のは」

「続けてください」

 ルアリは帳面から目を上げなかった。

 ただ、指先だけが白くなっていた。

 ソルカは息を吐き、剣を握り直した。

 赤い布は、まだ揺れている。

 それでも踏み込んだ。


 その後も、ルアリはソルカを冷静に見ていた。

 少なくとも、最初はそう見えた。

 だが、ソルカが滑り、膝をつき、波を被り、それでも剣を下ろさずに立ち上がるたび、帳面に走る筆の音が少しずつ速くなっていった。


 動く的の稽古が始まって三度目の夕方、赤い布が初めて綺麗に裂けた。

「――いい」

 気づけば漏れた、というような声だった。

 ソルカは目を丸くして振り返った。

「今、褒めた?」

「……記録です」

 ルアリは帳面に目を落とした。

 耳が少し赤いのを、ソルカは見なかったことにしてやった。

 その夜、記録にはこう残った。

 的中、三十七回のうち五回。うち二回、致命の深さ。


 残り、二日。


 夜明け前、ルアリは相変わらず崖に立って潮を読む。

 干潮のたび、銀の針と石を持って岩棚へ下り、ひとりで封印のひびを繕う。

 指はインクと石の粉で汚れ、袖口は自分で繕った跡だらけで、家には椀も匙も、ひとつずつしかない。

 ――誰も行かない場所へ行く。誰も見たくないものを見る。そういう男だよ。

 マーラの言葉の意味を、ソルカは日ごとに理解していった。

「ルアリ。あなた、ご両親は――」

「風が変わりました。五本目からやり直してください」

「……また潮と風に逃げた」

「逃げていません。観測です」

「その観測、私が質問するたびに始まるのはどうしてかしら」

「偶然です」

「あなた、嘘も下手ね」

「よく言われます」

 ソルカは呆れ、同情する代わりに剣を構え直した。


 残り、一日。


 大潮の前日、稽古は早めに終わった。

「今日はもう、休んでください。ここから先は、潮の仕事です」

 夕暮れ、村へ戻る前に、ソルカは崖上の家に寄った。

 扉は開いていた。

 ルアリは机に向かい、記録を書いていた。

 日付。天候。風向き。潮位。赤苔の広がり。洞窟の熱。

 いつもと同じ、几帳面な文字が並んでいく。

「毎日?」

「毎日」

「三百年?」

「はい」

 前にも、同じ問答をした。

 けれど今日は、続きがあった。

「明日、竜を倒すかもしれないのに?」

「明日、私たちが死ぬかもしれないからです」

 ルアリは、筆を止めずに言った。

「私たちが失敗すれば、いつか、次の誰かが来る。そのとき、その誰かが同じ場所で迷わないように。何を試し、どこまで進み、何が駄目だったのか――記録は、残さなければならない」

 当然のことを言う声だった。

 三百年、そうやって書き継がれてきた声だった。

 ソルカは、壁を埋める帳面の列を見た。

 それから、机に向かう痩せた背中を見た。

「ルアリ」

「なんですか」

「明日は、記録だけ残して死なないで」

 ルアリの筆が止まった。彼はゆっくりと筆を置き、言った。

「……剣を、見せてください。最後の確認です」

 ソルカは黒い剣を鞘ごと外し、机に置いた。

 ルアリは刃を抜き、机の上の黒い石片を近づけた。

 刃の中央、三百年消えなかった赤い筋が――かすかに、熱を帯びたように色を深くした。石片の赤い光と、同じ拍で明滅する。

 鍵は、生きていた。

 ルアリは、長いあいだ、その赤い筋を見ていた。

 やがて、低く言った。

「……三百年」

 その声は、いつもの折り目正しさを失っていた。

「本当に、戻ってきたのか」

 それは、ソルカだけに向けられた言葉ではなかった。

 剣へ。

 剣を持って南へ行った、初代の兄へ。

 壁を埋める三百年の帳面へ。待ち続けた、すべての夜へ。

 だから、ソルカは答えなかった。


 窓の外で、灰色の海が、ゆっくりと暮れていった。

 明日の夜明け前、潮は三百年ぶりに、剣を最奥へ通す道を開く。

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