六 剣の記憶
翌朝、丘の上の草地に、ルアリは縄と石で奇妙な図形を作っていた。
縄が地面を区切り、石が並び、赤い布を結んだ棒が一本、斜めに立っている。
「洞窟の最奥です。実寸で」
ルアリは帳面を片手に言った。
「縄の内側が岩棚。ここから先は水。この石が、崩れていて足場にならない岩。棒の布が――古傷の高さです。初代の記録から割り出しました」
ソルカは草地に立ち、図形を見渡した。
「まずは、いつも通りに動いてみてください」
ソルカは剣を抜いた。
構え、踏み込み、斬り上げ、返す。マクラウド家に伝わる型だった。物心つく前から数えきれないほど繰り返した、体に染みた動きだ。
振り終えると、ルアリは言った。
「綺麗ですね」
「……それ、褒めていないわね?」
「はい」
即答だった。
「綺麗な型は、乾いた床と、十分な広さと、待ってくれる相手のためのものです。あそこにあるのは、濡れた岩と、狭い足場と、蝋燭一本分の時間だけです」
ソルカは剣を握り直した。
「では、どうすればいいの」
「数えます」
ルアリは、縄の縁を指した。
「岩棚の縁から的まで、あなたの足で何歩か。踏み込みは何歩目か。踏み込んだとき、切っ先はどこまで届くか。全部、数えます」
ソルカは歩いた。数えた。
七歩。踏み込みは六歩目。
ルアリは結び目のついた紐でソルカの腕を測り、剣の長さを測り、踏み込んだときの切っ先の位置に小石を置き、すべてを帳面に書きつけた。
「私の歩幅と腕の長さまで、帳面につけるの?」
「すべてつけます」
「……本当に、竜退治なのよね、これ」
「竜退治です」
ルアリは顔も上げずに言った。
「英雄譚に書かれないだけで、竜退治とは、こういうものです」
残り、五日。
午後は、浜へ下りた。
洞窟から離れた、毒気のない岩場だった。それでも岩は濡れ、海藻がぬめり、波しぶきが足元を洗う。
「歩いてください」
ソルカは歩いた。
三歩目で滑った。
「踏み込んでください」
踏み込んだ。膝をついた。
「もう一度」
滑った。手のひらを擦りむいた。
「もう一度」
「言われなくても、やるわよ」
濡れた岩の上では、王都の稽古場で覚えたすべてが裏切った。
強く踏めば滑る。腰を落とせば波を被る。
ルアリは、滑らない踏み方を教えた。
つま先の向き、体重の預け方、滑ったときに剣を放さずに転ぶ転び方。
「転び方の稽古なんて、初めてよ」
「岩場では、転ばない人間より、正しく転ぶ人間のほうが生き残ります」
風が強い日には、風の稽古になった。
海からの突風が、切っ先を流す。
「風は敵ではありません。読むものです。波が三つ来るあいだに、必ず一度、息をつく。そこで振る」
風向き。足場。潮位。岩の高さ。剣の長さ。腕の届く範囲。
竜退治というものが、華やかな武勇伝ではなく、歩数と角度と潮見表でできた作業なのだと、ソルカは体で覚えていった。
日が暮れて村へ戻ると、マーラが擦り傷に軟膏を塗ってくれた。
「派手にやってるね」
「ええ」
「あの子はどうだい」
「感じは悪いままよ」
「そりゃよかった」
マーラは笑った。何がよかったのか、ソルカにはよくわからなかった。
残り、四日。
その日から、的が動くようになった。
赤い布を結んだ棒が、岩陰に見立てた石の向こうから、ゆっくりと持ち上がる。
光もなく、音もなく、ただ持ち上がる。
それは、ソルカが初めて見るルアリの魔法だった。
杖も呪文も使わない。彼は少し離れた岩に腰掛け、帳面を開いたまま、指先ひとつで棒を動かしていた。
「目覚めた竜は、まず首を上げます。記録によれば」
ルアリは言った。
「上げきる前の、一拍。古傷が岩棚の高さを通る。そこだけが、あなたの間合いです。上がりきってからでは高すぎる。下りてからでは、竜はもうあなたを見ている」
「一拍って、どれくらい」
「これくらいです」
棒が、すっと持ち上がった。
ソルカは踏み込んだ。切っ先は、赤い布のはるか下を通った。
「もう一度」
外した。
「もう一度」
かすった。
「もう一度」
悪態をつきながら、ソルカは何度でも踏み込んだ。
そのとき、崖下で洞窟が鳴った。
風でも、波でもなかった。地面の下で、大きなものが身じろぎしたような音だった。
赤い布を結んだ棒が、ルアリの指先とは別の力に引かれたように、かすかに震えた。
「今のは」
「続けてください」
ルアリは帳面から目を上げなかった。
ただ、指先だけが白くなっていた。
ソルカは息を吐き、剣を握り直した。
赤い布は、まだ揺れている。
それでも踏み込んだ。
その後も、ルアリはソルカを冷静に見ていた。
少なくとも、最初はそう見えた。
だが、ソルカが滑り、膝をつき、波を被り、それでも剣を下ろさずに立ち上がるたび、帳面に走る筆の音が少しずつ速くなっていった。
動く的の稽古が始まって三度目の夕方、赤い布が初めて綺麗に裂けた。
「――いい」
気づけば漏れた、というような声だった。
ソルカは目を丸くして振り返った。
「今、褒めた?」
「……記録です」
ルアリは帳面に目を落とした。
耳が少し赤いのを、ソルカは見なかったことにしてやった。
その夜、記録にはこう残った。
的中、三十七回のうち五回。うち二回、致命の深さ。
残り、二日。
夜明け前、ルアリは相変わらず崖に立って潮を読む。
干潮のたび、銀の針と石を持って岩棚へ下り、ひとりで封印のひびを繕う。
指はインクと石の粉で汚れ、袖口は自分で繕った跡だらけで、家には椀も匙も、ひとつずつしかない。
――誰も行かない場所へ行く。誰も見たくないものを見る。そういう男だよ。
マーラの言葉の意味を、ソルカは日ごとに理解していった。
「ルアリ。あなた、ご両親は――」
「風が変わりました。五本目からやり直してください」
「……また潮と風に逃げた」
「逃げていません。観測です」
「その観測、私が質問するたびに始まるのはどうしてかしら」
「偶然です」
「あなた、嘘も下手ね」
「よく言われます」
ソルカは呆れ、同情する代わりに剣を構え直した。
残り、一日。
大潮の前日、稽古は早めに終わった。
「今日はもう、休んでください。ここから先は、潮の仕事です」
夕暮れ、村へ戻る前に、ソルカは崖上の家に寄った。
扉は開いていた。
ルアリは机に向かい、記録を書いていた。
日付。天候。風向き。潮位。赤苔の広がり。洞窟の熱。
いつもと同じ、几帳面な文字が並んでいく。
「毎日?」
「毎日」
「三百年?」
「はい」
前にも、同じ問答をした。
けれど今日は、続きがあった。
「明日、竜を倒すかもしれないのに?」
「明日、私たちが死ぬかもしれないからです」
ルアリは、筆を止めずに言った。
「私たちが失敗すれば、いつか、次の誰かが来る。そのとき、その誰かが同じ場所で迷わないように。何を試し、どこまで進み、何が駄目だったのか――記録は、残さなければならない」
当然のことを言う声だった。
三百年、そうやって書き継がれてきた声だった。
ソルカは、壁を埋める帳面の列を見た。
それから、机に向かう痩せた背中を見た。
「ルアリ」
「なんですか」
「明日は、記録だけ残して死なないで」
ルアリの筆が止まった。彼はゆっくりと筆を置き、言った。
「……剣を、見せてください。最後の確認です」
ソルカは黒い剣を鞘ごと外し、机に置いた。
ルアリは刃を抜き、机の上の黒い石片を近づけた。
刃の中央、三百年消えなかった赤い筋が――かすかに、熱を帯びたように色を深くした。石片の赤い光と、同じ拍で明滅する。
鍵は、生きていた。
ルアリは、長いあいだ、その赤い筋を見ていた。
やがて、低く言った。
「……三百年」
その声は、いつもの折り目正しさを失っていた。
「本当に、戻ってきたのか」
それは、ソルカだけに向けられた言葉ではなかった。
剣へ。
剣を持って南へ行った、初代の兄へ。
壁を埋める三百年の帳面へ。待ち続けた、すべての夜へ。
だから、ソルカは答えなかった。
窓の外で、灰色の海が、ゆっくりと暮れていった。
明日の夜明け前、潮は三百年ぶりに、剣を最奥へ通す道を開く。




