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剣の姫君と封印守の魔法使い  作者: 如月アトリ


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6/11

五 剣の姫君

 風が、開け放たれた扉から入ってきて、帳面のページを一枚めくった。

 ルアリは、無言でそれを押さえた。

 ソルカは、自分がここへ来た理由を思った。

 マクラウド家の名誉を取り戻すため。古すぎて値がつかなかった家名に、まだ価値が残っているのか、確かめるため。

 けれど、北にあったのは、世間に示すための名誉ではなかった。

 ――お前を、迎えに来る。

 そう言って、来なかった者の約束。

 三百年、果たされるのを待ち続けた言葉。

 取り戻すべきものがあるとすれば、それだった。


「ねえ。あなたたちは、なぜ――」

 言いかけて、止まった。

 なぜ、南へ来なかったの。

 なぜ、せめて助けを呼ばなかったの。

 喉まで出かかった言葉を、ソルカは飲み込んだ。

 それを言うなら。

 南のマクラウドは、なぜ北へ来なかったのか。

 銘文は、屋敷の壁にあった。剣もあった。使命は、誰の目にも見える場所に掛かっていた。父も、祖父も、その前の者たちも、行くべきだと知っていた。知っていて、行けなかった。

 ルアリは、その沈黙に気づいた。

「言ってもかまいません」

「何を」

「なぜ助けを求めなかったのか、と。あなたがそう思うのは、当然です。あなたは、何も知らされていなかったのだから」

 ソルカは、首を振った。

「いいえ。言うべきなのは、私のほうではないわ」

「……」

「三百年待たされた側に、待たせた側の末裔が言う台詞ではないもの」

 ルアリは、少しのあいだソルカを見ていたが、何かを言いかけて、やめたようだった。

「――話は、以上です」

 彼は帳面を棚へ戻した。

「聞けば帰れなくなると言ったのは、こういう意味です。ですが、知ったところで、あなたにできることはありません。数日休んで、山が荒れる前に南へ帰ってください。家に戻って、家を継いで、平和に暮らせばいい。いずれ婚約者でも見つけて――」

「あいにく」

「……なんですか」

「婚約なら、破棄されたばかりよ」

 ルアリが、初めて言葉の途中で止まった。

「……それは」

「謝らないで。おかげで身軽なの。予定は、空いているわ」

 ルアリは口を開き、閉じ、それから額を押さえた。厄介なものが来た、と顔に書いてあった。

 ソルカは構わず、指を折り始めた。

「整理させて。竜は、生きている」

「はい」

「封印は、もう長くは保たない」

「ええ」

「次の封印守は、いない」

「いません」

「南へ助けを求める気は」

「ありません」

「なぜ」

「三百年音沙汰のなかった南の家や王都に、竜の実在を信じさせるあいだに、封印のほうが先に破れます」

 ソルカは指を折る手を止め、ふと、眉を寄せた。

「……ひとつ、腑に落ちないわ。なぜ、今なの。三百年保った封印が、どうして今になって」

 ルアリは、答えを選ぶように、少しのあいだ黙っていた。

「――あなたが、来たからです」

「私?」

「あなたが剣を持って山を越えたころから、竜鳴りの間隔が半分に縮まりました。洞窟の熱も上がっている。竜は、かつて自分に深手を負わせたものが近づいていることに、気づいているのです」

 ソルカは、腰の黒い剣を見下ろした。

 三百年消えない、赤い筋。

「……私が、起こしかけているのね」

「鍵が戻れば、錠は軋みます。あなたのせいではありません。ただ――猶予がないのは、事実です」

 ソルカはうなずいた。

 筋は通っている。腹立たしいほど、通っている。

 そして、退く理由は、ひとつ残らず消えた。自分が起こしかけたものなら、なおさらだ。


「なら、やることは一つね」

 ソルカは、立ち上がった。

 狭い家の中で、二人の目の高さが、ほとんど同じになった。

「竜を殺す方法を、教えて」

 ルアリは、目を見開いた。

 それから――強く、見返した。

 ソルカの中に、何かの気配を探すような目だったが、やがて考えを振り払うように目を伏せた。

「……正気ですか」

「これでも南では、可愛げがないと評判よ」

「怖くないのですか」

「怖いわ」

 ソルカは、即答した。

「でも、怖いかどうかは聞いていないの。殺せるかどうかを、聞いているのよ」

 ルアリは、長く息を吐いた。

 観念したのか、呆れ果てたのか、その両方なのか。彼は机の引き出しから、一枚の図を取り出した。

 海蝕洞の断面図だった。

 潮位の線が、何本も、何本も引き直されている。

 一目でわかった。これは、何年もかけて数え直された線だ。

「……方法は、あります」

「あるの?」

「考えなかった日は、ありません」

 あまりに淡々とした声が、かえって、費やされた年月の長さを語っていた。

「次の大潮。六日後です。朔から三日ほど、潮位が一年でもっとも下がります。洞窟の最奥まで道が出るのは、その数日だけです」

「中にいられる時間は」

「短い。入って、成して、出る――細い蝋燭一本が燃え尽きるほどの時間しかありません」

 ルアリは、図の奥、洞窟の最深部を指した。

「竜には、古い傷があります。三百年前、初代の兄の剣がつけた傷です。竜の鱗は刃も魔法も通さない。ですが、その傷だけは、塞がりきっていません」

 ソルカは、腰の剣に手を置いた。

「……この剣の、赤い筋」

「ええ」

 ルアリはうなずいた。

「同じ火を浴び、同じ血を吸った。剣が、傷を覚えているのです。その剣だけが、傷を開く鍵になる」

「それで?」

「私が封印をいったん開きます。竜を、目覚めさせる」

「起こすの? せっかく眠っているのに」

 ソルカは眉をひそめた。

「起こさなければ、殺せません」

 ルアリは、静かに言った。

「眠っているあいだ、竜は洞窟の岩と潮に、半ば溶けています。心臓の在り処が定まらない。目覚めた瞬間にだけ、血が巡り、古傷が熱を持つ。そこが、唯一の的です」

「私が、そこへ剣を入れる」

「はい。そして私が、剣に魔法を通します。刃の届かない奥へ――心臓まで、届かせる」

 ルアリは、一度、言葉を切った。

「三百年前の一撃を、もう一度。今度は、最後までやる」

 ソルカは、図を見つめた。

 兄が裂き、弟が打ち込んだ、その一撃のやり直し。

 単純な計画だった。単純で、後がない。

 そして――と、ソルカは顔を上げた。

「ひとつ、聞いていないことがあるわ」

「なんですか」

「それで、あなたは生きて戻れるの?」

 ルアリは、すぐには答えなかった。

 開いた扉の向こうで、波が洞窟を打つ音がした。

「竜は、死にます」

「答えになっていないわ」

「……魔法を通しているあいだ、私は剣から手を離せません。あとは、潮と、竜の暴れ方次第です」

 嘘ではないのだろう。

 けれど、全部でもない。

 何かが引っかかった。

 ただ、そのときのソルカには、引っかかったものの正体までは見えなかった。


 日が傾いて、ソルカは家を出た。

 今夜も村へ戻る。それはもう、争わなかった。六日後まで、体を万全にしておくのも仕事のうちだ。

 石垣の外で馬の手綱を解いてから、ソルカは振り返った。

 ルアリは扉の前に立って、崖の下を見ていた。

 村ではなく、洞窟を見る男。

「ルアリ」

 呼ぶと、彼はこちらを向いた。

「あなた、何度も私を姫と呼んだわね」

「……嫌がっていたはずですが」

「気が変わったの」

 ソルカは、背筋を伸ばした。

 婚約者の家で、令嬢の嗜みとしては勇ましすぎると笑われた、その立ち姿で。

「剣の姫君が、命じます」

 風が、二人のあいだの草を鳴らした。

「――生きて、戻りなさい」

 紫紺の瞳が、夕暮れの光の中で、わずかに揺れた。

 やがて彼は、目を逸らした。

「……日が落ちます。気をつけて」

「返事は?」

「――六日後までに、考えておきます」

 それが、その日の彼の、精一杯だった。

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