五 剣の姫君
風が、開け放たれた扉から入ってきて、帳面のページを一枚めくった。
ルアリは、無言でそれを押さえた。
ソルカは、自分がここへ来た理由を思った。
マクラウド家の名誉を取り戻すため。古すぎて値がつかなかった家名に、まだ価値が残っているのか、確かめるため。
けれど、北にあったのは、世間に示すための名誉ではなかった。
――お前を、迎えに来る。
そう言って、来なかった者の約束。
三百年、果たされるのを待ち続けた言葉。
取り戻すべきものがあるとすれば、それだった。
「ねえ。あなたたちは、なぜ――」
言いかけて、止まった。
なぜ、南へ来なかったの。
なぜ、せめて助けを呼ばなかったの。
喉まで出かかった言葉を、ソルカは飲み込んだ。
それを言うなら。
南のマクラウドは、なぜ北へ来なかったのか。
銘文は、屋敷の壁にあった。剣もあった。使命は、誰の目にも見える場所に掛かっていた。父も、祖父も、その前の者たちも、行くべきだと知っていた。知っていて、行けなかった。
ルアリは、その沈黙に気づいた。
「言ってもかまいません」
「何を」
「なぜ助けを求めなかったのか、と。あなたがそう思うのは、当然です。あなたは、何も知らされていなかったのだから」
ソルカは、首を振った。
「いいえ。言うべきなのは、私のほうではないわ」
「……」
「三百年待たされた側に、待たせた側の末裔が言う台詞ではないもの」
ルアリは、少しのあいだソルカを見ていたが、何かを言いかけて、やめたようだった。
「――話は、以上です」
彼は帳面を棚へ戻した。
「聞けば帰れなくなると言ったのは、こういう意味です。ですが、知ったところで、あなたにできることはありません。数日休んで、山が荒れる前に南へ帰ってください。家に戻って、家を継いで、平和に暮らせばいい。いずれ婚約者でも見つけて――」
「あいにく」
「……なんですか」
「婚約なら、破棄されたばかりよ」
ルアリが、初めて言葉の途中で止まった。
「……それは」
「謝らないで。おかげで身軽なの。予定は、空いているわ」
ルアリは口を開き、閉じ、それから額を押さえた。厄介なものが来た、と顔に書いてあった。
ソルカは構わず、指を折り始めた。
「整理させて。竜は、生きている」
「はい」
「封印は、もう長くは保たない」
「ええ」
「次の封印守は、いない」
「いません」
「南へ助けを求める気は」
「ありません」
「なぜ」
「三百年音沙汰のなかった南の家や王都に、竜の実在を信じさせるあいだに、封印のほうが先に破れます」
ソルカは指を折る手を止め、ふと、眉を寄せた。
「……ひとつ、腑に落ちないわ。なぜ、今なの。三百年保った封印が、どうして今になって」
ルアリは、答えを選ぶように、少しのあいだ黙っていた。
「――あなたが、来たからです」
「私?」
「あなたが剣を持って山を越えたころから、竜鳴りの間隔が半分に縮まりました。洞窟の熱も上がっている。竜は、かつて自分に深手を負わせたものが近づいていることに、気づいているのです」
ソルカは、腰の黒い剣を見下ろした。
三百年消えない、赤い筋。
「……私が、起こしかけているのね」
「鍵が戻れば、錠は軋みます。あなたのせいではありません。ただ――猶予がないのは、事実です」
ソルカはうなずいた。
筋は通っている。腹立たしいほど、通っている。
そして、退く理由は、ひとつ残らず消えた。自分が起こしかけたものなら、なおさらだ。
「なら、やることは一つね」
ソルカは、立ち上がった。
狭い家の中で、二人の目の高さが、ほとんど同じになった。
「竜を殺す方法を、教えて」
ルアリは、目を見開いた。
それから――強く、見返した。
ソルカの中に、何かの気配を探すような目だったが、やがて考えを振り払うように目を伏せた。
「……正気ですか」
「これでも南では、可愛げがないと評判よ」
「怖くないのですか」
「怖いわ」
ソルカは、即答した。
「でも、怖いかどうかは聞いていないの。殺せるかどうかを、聞いているのよ」
ルアリは、長く息を吐いた。
観念したのか、呆れ果てたのか、その両方なのか。彼は机の引き出しから、一枚の図を取り出した。
海蝕洞の断面図だった。
潮位の線が、何本も、何本も引き直されている。
一目でわかった。これは、何年もかけて数え直された線だ。
「……方法は、あります」
「あるの?」
「考えなかった日は、ありません」
あまりに淡々とした声が、かえって、費やされた年月の長さを語っていた。
「次の大潮。六日後です。朔から三日ほど、潮位が一年でもっとも下がります。洞窟の最奥まで道が出るのは、その数日だけです」
「中にいられる時間は」
「短い。入って、成して、出る――細い蝋燭一本が燃え尽きるほどの時間しかありません」
ルアリは、図の奥、洞窟の最深部を指した。
「竜には、古い傷があります。三百年前、初代の兄の剣がつけた傷です。竜の鱗は刃も魔法も通さない。ですが、その傷だけは、塞がりきっていません」
ソルカは、腰の剣に手を置いた。
「……この剣の、赤い筋」
「ええ」
ルアリはうなずいた。
「同じ火を浴び、同じ血を吸った。剣が、傷を覚えているのです。その剣だけが、傷を開く鍵になる」
「それで?」
「私が封印をいったん開きます。竜を、目覚めさせる」
「起こすの? せっかく眠っているのに」
ソルカは眉をひそめた。
「起こさなければ、殺せません」
ルアリは、静かに言った。
「眠っているあいだ、竜は洞窟の岩と潮に、半ば溶けています。心臓の在り処が定まらない。目覚めた瞬間にだけ、血が巡り、古傷が熱を持つ。そこが、唯一の的です」
「私が、そこへ剣を入れる」
「はい。そして私が、剣に魔法を通します。刃の届かない奥へ――心臓まで、届かせる」
ルアリは、一度、言葉を切った。
「三百年前の一撃を、もう一度。今度は、最後までやる」
ソルカは、図を見つめた。
兄が裂き、弟が打ち込んだ、その一撃のやり直し。
単純な計画だった。単純で、後がない。
そして――と、ソルカは顔を上げた。
「ひとつ、聞いていないことがあるわ」
「なんですか」
「それで、あなたは生きて戻れるの?」
ルアリは、すぐには答えなかった。
開いた扉の向こうで、波が洞窟を打つ音がした。
「竜は、死にます」
「答えになっていないわ」
「……魔法を通しているあいだ、私は剣から手を離せません。あとは、潮と、竜の暴れ方次第です」
嘘ではないのだろう。
けれど、全部でもない。
何かが引っかかった。
ただ、そのときのソルカには、引っかかったものの正体までは見えなかった。
日が傾いて、ソルカは家を出た。
今夜も村へ戻る。それはもう、争わなかった。六日後まで、体を万全にしておくのも仕事のうちだ。
石垣の外で馬の手綱を解いてから、ソルカは振り返った。
ルアリは扉の前に立って、崖の下を見ていた。
村ではなく、洞窟を見る男。
「ルアリ」
呼ぶと、彼はこちらを向いた。
「あなた、何度も私を姫と呼んだわね」
「……嫌がっていたはずですが」
「気が変わったの」
ソルカは、背筋を伸ばした。
婚約者の家で、令嬢の嗜みとしては勇ましすぎると笑われた、その立ち姿で。
「剣の姫君が、命じます」
風が、二人のあいだの草を鳴らした。
「――生きて、戻りなさい」
紫紺の瞳が、夕暮れの光の中で、わずかに揺れた。
やがて彼は、目を逸らした。
「……日が落ちます。気をつけて」
「返事は?」
「――六日後までに、考えておきます」
それが、その日の彼の、精一杯だった。




