四 未完の名誉
部屋の中が、急に静かになった。
暖炉の火が小さく音を立て、開け放たれた扉の向こうでは、海が鳴っていた。
ソルカは、ルアリを見た。
「今、何と言ったの」
「竜は倒されていません」
「でも」
「あなたの祖は、致命傷に見えるほどの深手を竜に負わせました。初代のルアリは、その傷を通して魔法を打ち込んだ。竜は崖から落ち、海蝕洞へ沈んだ。村人たちには、それが竜の死に見えた」
ルアリは、開いた帳面の一行を指で示した。
「しかし、竜は生きていた」
ソルカは、口を開いたまま、すぐには言葉が出てこなかった。
竜は、生きていた。
つまり、マクラウド家の名誉は、三百年ものあいだ、未完成のままだったということだ。
――さすれば我らの名誉は、今度こそ真実となる。
屋敷の壁に刻まれた銘文の、「今度こそ」の意味が、ようやくわかった。
名誉は、まだ真実になっていなかったのだ。
「なぜ、知らせなかったの」
「誰にですか」
「南へ行った兄に」
「知らせました。少なくとも、知らせようとはした」
ルアリは別の帳面を開いた。
今度の筆跡は少し違っていた。初代より後の時代のものだろう。
「一年目、南へ文を託す。返答なし。二年目、兄の民が山を越えたことを確認。三年目、南で戦。五年目、二度目の文を送る。返答なし。七年目、兄の武勲の噂」
ルアリは、抑揚のない声で読み上げた。
「十七年目、南へ向かう旧道、春の雨により崩落。
二十年目、焼けた森の斜面、再び崩れる。通行不能。
三十年目、南への使者戻らず。
三十七年目、山道の跡、沢に呑まれる。
四十二年目、初代ルアリ死去。封印守の名、次代へ。」
ソルカは、指先が冷えるのを感じた。
兄は忘れたのではない。
戻れなかったのだ。
いや、戻れなかったのだろう、と信じたいだけかもしれない。
それでも、少なくとも北に残った者たちは、何年も何十年も待っていた。
「私の家には、こう伝わっています」
ソルカは言った。
「祖は北の竜を斬り、荒れた土地を離れて南へ民を導いた。南の戦で武勲を立て、将軍の娘を娶り、家を興した、と」
「おおむね事実です」
「けれど、竜は死んでいなかった」
「はい」
「そして、初代のルアリを迎えに戻らなかった」
「戻れなかったのか、戻らなかったのかは、記録にはありません」
その言い方には、責める響きがなかった。
だからこそ、ソルカの胸に刺さった。
「あなたは、私の家を恨んでいるの?」
ルアリは少し考えた。
「恨めるほど、私はあなたの家を知りません。知っているのは記録だけです。南へ行った兄の家は続き、北に残った弟の家は名を失った。事実はそれだけです」
「それだけではないでしょう」
「ええ」
ルアリは静かに言った。
「事実は、もうひとつあります」
彼は、机の上に置かれていた黒い石片を手に取った。
石は、ところどころ赤く光っているように見えた。
「竜は、今も海蝕洞の奥にいます」
ソルカは、思わず腰の剣に手を触れた。
その剣が急に、腰にあるだけの飾り物のように思えた。
「封印されているの?」
「ええ」
「村の人は、竜がそこにいると知っているの?」
「村の者は、正確には知りません。けれど、洞窟が鳴る日、魚が死ぬ日、赤い霧が出る日を知っています。だから察している」
「あなたは、何をしているの」
「見ています」
あまりに短い答えだった。
ソルカは、開け放たれた扉の向こうを見た。海蝕洞は、そこにある。家の窓は、本当に、その一点だけを向いていた。
「毎日?」
「毎日」
「三百年?」
「ええ」
ルアリは帳面の山を見た。
「潮位。水温。赤苔の広がり。魚の死骸の数。洞窟から上がる熱。封印石のひび。竜鳴りの回数。南風の日に混じる硫黄の匂い。そういうものを、代々の封印守は記録してきました」
「それが、封印守の仕事?」
「はい」
「魔法で竜を抑えているのではなく?」
「魔法だけなら、とっくに破れています」
ルアリは帳面を閉じた。
「封印は、魔法と土地と潮でできています。海水が満ちれば洞窟は閉じ、引けば奥へ道が出る。封印は、満ち引きに合わせて息をする。私たちはそれを見て、補修して、ずれを直してきた」
ソルカは、机の上に積まれた帳面を見た。
潮位を刻んだ板。黒い石片。赤黒い苔。魚の骨。
この家にあるものは、すべて洞窟の変化を測るためのものだった。
「竜は、なぜここに?」
「わかりません」
「あなたたちを追って、海の向こうから来たの?」
「確証はありません」
「でも、そう考えた」
「初代のルアリは、その可能性を書き残しています。ただ、竜が追うのは人そのものではない、とも」
「どういうこと?」
「人が暮らせる土地です。水があり、魚があり、獣があり、森がある。火を焚ける場所があり、家畜を飼える場所がある。人里は、竜にとって、それらが揃っていることを示す標になります」
ソルカは眉をひそめた。
「……漁師が、鳥の群れを見て魚の群れを探すようなもの?」
「近いと思います」
ルアリはうなずいた。
「祖先が海の向こうから来て、その後に竜が来た。偶然かもしれない。ですが、偶然でなかったなら、竜を逃がせばまた誰かの土地を焼く」
「だから、ここで止めた」
「ええ」
ルアリは、感情を抑えた声で言った。
「倒せなかったから、閉じ込めた。殺せないものを、ここに縛った。自分たちの土地が滅びかけても、南へ行った民が忘れても、ここで見張るしかなかった」
「ルアリ」
「私に同情しないでください」
ルアリは、自分の言葉の鋭さに気づいたのか、ほんの少し目を伏せた。
「……失礼しました」
「よく謝るのね」
「言いすぎたときは」
「わかっているなら、最初から言わなければいいのに」
「それができれば苦労しません」
ソルカは少しだけ笑った。
ルアリは笑わなかった。
彼は棚の奥から、さらに別の帳面を取り出した。こちらは新しい。表紙も傷みが少ない。
彼自身の記録だろう。
「竜は、弱っています」
「弱っている?」
「三百年、封印の中で生きています。竜の寿命がどれほどなのかはわかりません。ただ、記録を見るかぎり、百年前よりも明らかに力は落ちている。封印そのものも弱っているため、補修する頻度は増えましたが、竜そのものの動きは鈍い。熱も、以前ほど長くは続かない」
「それなら、このまま封じ続ければ」
「あと百年ほどあれば、滅びるかもしれません」
ルアリはそう言った。
ソルカは安堵しかけたが、ルアリの顔を見て、その安堵はすぐに消えた。
「次の封印守は?」
ルアリは、何も答えなかった。
その沈黙で、ソルカは察した。
「村に子供は」
「います。ですが、封印守の名を継がせる子ではない」
「あなたの子は」
「いません」
短い答えだった。
ソルカは、それ以上聞いていいのか迷ったが、ルアリは自分で続けた。
「自分が子を成し、その子に同じことを教えることはできます。潮を測れ。洞窟を見ろ。竜の息を聞け。村を出るな。名を捨てろ。家を持つな。竜が死ぬまで見張れ。そう言って育てることは、たぶんできます」
彼は、棚に並ぶ記録帳を見た。
「私は、それをしたくない」
ソルカは、返す言葉を探したが、何も見つからなかった。
ここに来るまで、彼女は自分の家のことだけを考えていた。
婚約を解消された屈辱。衰えた家。古い名。北に眠る使命。
自分が剣を持って北へ行けば、何かを取り戻せるのではないかと思った。
だが、ここにあったのは宝ではなかった。
竜殺しの栄光でもなかった。
山のような帳面と、潮を測る板と、三百年続いた見張りの仕事だった。
そして——その終わりに立っている若い男だった。




