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剣の姫君と封印守の魔法使い  作者: 如月アトリ


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5/11

四 未完の名誉

 部屋の中が、急に静かになった。

 暖炉の火が小さく音を立て、開け放たれた扉の向こうでは、海が鳴っていた。

 ソルカは、ルアリを見た。

「今、何と言ったの」

「竜は倒されていません」

「でも」

「あなたの祖は、致命傷に見えるほどの深手を竜に負わせました。初代のルアリは、その傷を通して魔法を打ち込んだ。竜は崖から落ち、海蝕洞へ沈んだ。村人たちには、それが竜の死に見えた」

 ルアリは、開いた帳面の一行を指で示した。

「しかし、竜は生きていた」

 ソルカは、口を開いたまま、すぐには言葉が出てこなかった。

 竜は、生きていた。

 つまり、マクラウド家の名誉は、三百年ものあいだ、未完成のままだったということだ。

 ――さすれば我らの名誉は、今度こそ真実となる。

 屋敷の壁に刻まれた銘文の、「今度こそ」の意味が、ようやくわかった。

 名誉は、まだ真実になっていなかったのだ。


「なぜ、知らせなかったの」

「誰にですか」

「南へ行った兄に」

「知らせました。少なくとも、知らせようとはした」

 ルアリは別の帳面を開いた。

 今度の筆跡は少し違っていた。初代より後の時代のものだろう。

「一年目、南へ文を託す。返答なし。二年目、兄の民が山を越えたことを確認。三年目、南で戦。五年目、二度目の文を送る。返答なし。七年目、兄の武勲の噂」

 ルアリは、抑揚のない声で読み上げた。

「十七年目、南へ向かう旧道、春の雨により崩落。

 二十年目、焼けた森の斜面、再び崩れる。通行不能。

 三十年目、南への使者戻らず。

 三十七年目、山道の跡、沢に呑まれる。

 四十二年目、初代ルアリ死去。封印守の名、次代へ。」

 ソルカは、指先が冷えるのを感じた。

 兄は忘れたのではない。

 戻れなかったのだ。

 いや、戻れなかったのだろう、と信じたいだけかもしれない。

 それでも、少なくとも北に残った者たちは、何年も何十年も待っていた。


「私の家には、こう伝わっています」

 ソルカは言った。

「祖は北の竜を斬り、荒れた土地を離れて南へ民を導いた。南の戦で武勲を立て、将軍の娘を娶り、家を興した、と」

「おおむね事実です」

「けれど、竜は死んでいなかった」

「はい」

「そして、初代のルアリを迎えに戻らなかった」

「戻れなかったのか、戻らなかったのかは、記録にはありません」

 その言い方には、責める響きがなかった。

 だからこそ、ソルカの胸に刺さった。

「あなたは、私の家を恨んでいるの?」

 ルアリは少し考えた。

「恨めるほど、私はあなたの家を知りません。知っているのは記録だけです。南へ行った兄の家は続き、北に残った弟の家は名を失った。事実はそれだけです」

「それだけではないでしょう」

「ええ」

 ルアリは静かに言った。

「事実は、もうひとつあります」


 彼は、机の上に置かれていた黒い石片を手に取った。

 石は、ところどころ赤く光っているように見えた。

「竜は、今も海蝕洞の奥にいます」

 ソルカは、思わず腰の剣に手を触れた。

 その剣が急に、腰にあるだけの飾り物のように思えた。

「封印されているの?」

「ええ」

「村の人は、竜がそこにいると知っているの?」

「村の者は、正確には知りません。けれど、洞窟が鳴る日、魚が死ぬ日、赤い霧が出る日を知っています。だから察している」

「あなたは、何をしているの」

「見ています」

 あまりに短い答えだった。

 ソルカは、開け放たれた扉の向こうを見た。海蝕洞は、そこにある。家の窓は、本当に、その一点だけを向いていた。

「毎日?」

「毎日」

「三百年?」

「ええ」

 ルアリは帳面の山を見た。

「潮位。水温。赤苔の広がり。魚の死骸の数。洞窟から上がる熱。封印石のひび。竜鳴りの回数。南風の日に混じる硫黄の匂い。そういうものを、代々の封印守は記録してきました」

「それが、封印守の仕事?」

「はい」

「魔法で竜を抑えているのではなく?」

「魔法だけなら、とっくに破れています」

 ルアリは帳面を閉じた。

「封印は、魔法と土地と潮でできています。海水が満ちれば洞窟は閉じ、引けば奥へ道が出る。封印は、満ち引きに合わせて息をする。私たちはそれを見て、補修して、ずれを直してきた」

 ソルカは、机の上に積まれた帳面を見た。

 潮位を刻んだ板。黒い石片。赤黒い苔。魚の骨。

 この家にあるものは、すべて洞窟の変化を測るためのものだった。


「竜は、なぜここに?」

「わかりません」

「あなたたちを追って、海の向こうから来たの?」

「確証はありません」

「でも、そう考えた」

「初代のルアリは、その可能性を書き残しています。ただ、竜が追うのは人そのものではない、とも」

「どういうこと?」

「人が暮らせる土地です。水があり、魚があり、獣があり、森がある。火を焚ける場所があり、家畜を飼える場所がある。人里は、竜にとって、それらが揃っていることを示す標になります」

 ソルカは眉をひそめた。

「……漁師が、鳥の群れを見て魚の群れを探すようなもの?」

「近いと思います」

 ルアリはうなずいた。

「祖先が海の向こうから来て、その後に竜が来た。偶然かもしれない。ですが、偶然でなかったなら、竜を逃がせばまた誰かの土地を焼く」

「だから、ここで止めた」

「ええ」

 ルアリは、感情を抑えた声で言った。

「倒せなかったから、閉じ込めた。殺せないものを、ここに縛った。自分たちの土地が滅びかけても、南へ行った民が忘れても、ここで見張るしかなかった」

「ルアリ」

「私に同情しないでください」

 ルアリは、自分の言葉の鋭さに気づいたのか、ほんの少し目を伏せた。

「……失礼しました」

「よく謝るのね」

「言いすぎたときは」

「わかっているなら、最初から言わなければいいのに」

「それができれば苦労しません」

 ソルカは少しだけ笑った。

 ルアリは笑わなかった。


 彼は棚の奥から、さらに別の帳面を取り出した。こちらは新しい。表紙も傷みが少ない。

 彼自身の記録だろう。

「竜は、弱っています」

「弱っている?」

「三百年、封印の中で生きています。竜の寿命がどれほどなのかはわかりません。ただ、記録を見るかぎり、百年前よりも明らかに力は落ちている。封印そのものも弱っているため、補修する頻度は増えましたが、竜そのものの動きは鈍い。熱も、以前ほど長くは続かない」

「それなら、このまま封じ続ければ」

「あと百年ほどあれば、滅びるかもしれません」

 ルアリはそう言った。

 ソルカは安堵しかけたが、ルアリの顔を見て、その安堵はすぐに消えた。

「次の封印守は?」

 ルアリは、何も答えなかった。

 その沈黙で、ソルカは察した。

「村に子供は」

「います。ですが、封印守の名を継がせる子ではない」

「あなたの子は」

「いません」

 短い答えだった。

 ソルカは、それ以上聞いていいのか迷ったが、ルアリは自分で続けた。

「自分が子を成し、その子に同じことを教えることはできます。潮を測れ。洞窟を見ろ。竜の息を聞け。村を出るな。名を捨てろ。家を持つな。竜が死ぬまで見張れ。そう言って育てることは、たぶんできます」

 彼は、棚に並ぶ記録帳を見た。

「私は、それをしたくない」


 ソルカは、返す言葉を探したが、何も見つからなかった。

 ここに来るまで、彼女は自分の家のことだけを考えていた。

 婚約を解消された屈辱。衰えた家。古い名。北に眠る使命。

 自分が剣を持って北へ行けば、何かを取り戻せるのではないかと思った。

 だが、ここにあったのは宝ではなかった。

 竜殺しの栄光でもなかった。

 山のような帳面と、潮を測る板と、三百年続いた見張りの仕事だった。

 そして——その終わりに立っている若い男だった。

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