三 戻らぬ約束
――むかし、北の海辺に小さな村があった。
深い森の向こう、山の南側からは見えない土地である。
村の民は、自分たちが海の向こうから来たのだと伝えていた。
それがいつのことなのか、はっきり覚えている者はいなかった。ただ、彼らは海を渡り、風を越え、森に囲まれたその湾に住みついた。
彼らは王を持たなかった。
山の南側の国の法も、税も、ほとんど知らなかった。
狩りをし、魚を獲り、わずかな畑を耕し、森から薬草と木の実を得て暮らしていた。森は食糧庫であり、冬を越すための薪であり、外から村を隠す壁でもあった。
そこへ、赤い竜が来た。
竜もまた、海の向こうから彼らを追ってきたのだと、古い者たちは囁いた。確かな証はなかった。ただ、竜はあまりにも執拗に、その湾と人々にまとわりついた。
竜は岬の先に棲みつき、森を焼いた。
鹿が消え、野兎が消え、鳥の巣が焼けた。海蝕洞の近くでは魚が腹を上にして浮き、潮だまりには蟹も貝も残らなかった。
最初、人々は竜を追い払おうとした。
火を焚き、矢を射かけ、罠を作った。村を率いる家の男たちは、何度も岬へ向かった。
けれど、竜は強かった。
やがて竜は、人間が自分の邪魔をしていると覚えた。
人を襲い、傷つけ、逃げる者を追った。いつしかそれは、空腹を満たすための狩りではなくなっていた。
それから、人々はその竜を邪竜と呼ぶようになった。
村を率いる家に、双子の兄弟が生まれたのは、その争いがすでに激しくなってからだった。
兄が継いだのは、剣だった。
焼けた火の色を思わせる赤毛と、晴れた空を映したような青い瞳を持っていた。誰よりも速く走り、誰よりも遠くまで弓を引き、やがて誰よりも強く剣を振るうようになった。
彼が立つと、人々は顔を上げた。
彼が剣を取ると、まだ戦えるような気がした。
彼が「行くぞ」と言うと、焼け跡の向こうに道があるように見えた。
弟が継いだのは、魔法だった。
兄と同じ赤毛を持ちながら、瞳は夜空の底のような紫紺をしていた。村の古老から、石と潮と風の読み方を習った。獣の骨に刻まれた古い印を読み、満ち引きの時刻を測り、火に焼かれた森がどれほどで戻るかを数えた。水に浮く油膜の色で、毒の強さを知った。
父は、竜討伐の傷がもとで死んだ。
母は、竜の火から子供たちをかばって死んだ。
兄弟が物心ついたころには、竜はただの災いではなく、村そのものの敵になっていた。
森は限界だった。
焼かれた森は、そう簡単には戻らない。獣が戻らなければ狩りはできない。木が戻らなければ家も船も直せない。潮が瘴気を帯びれば魚も獲れない。冬の薪は足りず、井戸の水には赤い膜が浮き、子供は咳をし、老人は朝になるたび一人、また一人と起き上がれなくなった。
竜を倒さなければ、村は滅びる。
竜に食われる前に、土地そのものが死ぬ。
兄弟は、村人たちとともに決起した。
女も男も、年寄りも、弓を引ける者は弓を取り、網を張れる者は網を張った。怪我人は火を守り、古老は魔法の印を刻んだ。
兄は剣を持ち、弟は魔法を持った。
竜は強かった。
それでも兄は、竜に深い傷を負わせた。
黒い崖の上、炎と煙の中で、兄の剣が竜の胸を裂いた。弟はその傷へ魔法を打ち込んだ。赤い鱗の奥で、光がひび割れたように走った。
竜は吠えた。
その声で、崖の上の石が砕け、竜は崖から落ちた。
海蝕洞を抱いた黒い崖の下へ、炎と血をまき散らしながら落ちていった。
村人たちは歓声を上げた。
竜が落ちた。竜が倒された。これで助かった。これでもう、夜ごと空を見上げて震えずにすむ。
人々は泣いた。地に膝をつき、兄弟に感謝した。兄を見て、弟を見て、互いに抱き合った。
竜は崖の下へ消えた。
海蝕洞の奥で、炎の色がひときわ強くなり、それから闇に呑まれた。
村人たちは、竜が死んだと思った。
だが、弟だけは、崖の下を見ていた。
波が引いたあとも、洞窟の奥が赤く脈打っていた。
死んだものの火ではない。
まだ死にきらぬものの熱が、海蝕洞を焼いていた。
弟は兄の腕をつかみ、村人たちから少し離れた場所へ引いた。
「皆を連れて行ってください、兄上」
弟は低く言った。
「何を言っている」
「ここでは、もう暮らせません」
森は焼かれすぎていた。
海蝕洞の近くの水は死に、魚は戻らない。この土地が元の豊かさを取り戻すには、五十年か、あるいはもっとかかる。
不幸中の幸いというべきか、人々を阻んでいた森は、今だけ焼けて見通しがよくなっている。山を越えれば、南にはもっと広い土地があるかもしれない。
だが、木の根を失った斜面は雨のたびに崩れるだろう。今なら森を抜けられる。今を逃せば、道そのものが閉ざされるかもしれない。
「私は残ります」
「駄目だ」
「この洞窟を見ます」
「駄目だ!」
兄は叫んだ。
弟は、兄の顔を見なかった。
見れば、揺らぐと思った。
この土地の死にかけた水も、洞窟の奥の熱も、すべて見なかったことにしてしまいたくなる。
「もし、あれが本当に海の向こうから我々を追ってきたものなら、ここで食い止めなければなりません。災いが残っているのなら、なおさらです」
「お前を置いていけるか」
「あなたでなければ、皆を連れていけません」
兄は息を呑んだ。
弟には、わかっていた。
兄は、人を連れていける。
泣いている子供に歩けと言える。疲れた若者に立てと言える。焼けた家の前でうずくまる者に、まだ終わっていないと言える。
兄が前に立てば、人々は歩く。
兄が振り返れば、人々はついてくる。
そして弟は、もう一つのことも知っていた。
南に豊かな土地があり、人々がいるなら、そこには争いも、法も、領主も、守るべき民もいる。兄はそこで剣を振るうことになる。人に求められ、頼られ、責任に捕まる。
兄は、そういう人だった。
どこへ行っても、人の中で光ってしまう。
光ってしまえば、もう隠れられない。
だから兄は、南へ行けば帰れなくなる。
弟は、それを兄には言わなかった。
言えば、兄は南へ行けなくなる。
兄が行かなければ、村人たちは山を越えられない。
結局、兄は村の若い者たちを率いて南へ向かった。
荒れた森を抜け、山を越える旅だった。ついていけるのは、若く、歩ける者だけだった。
竜との戦いで傷を負った者、山を越えられぬ老人、その夫や妻を残していけない者たちは、村に残った。
弟は、村人たちにこう告げた。
海蝕洞の様子を、しばらく見なければならない。
兄たちの無事がわかれば、自分も後を追う。
その言葉を信じた者もいた。
信じないまま、何も言わなかった者もいた。
兄は旅立つ前、弟に言った。
「必ず戻る」
弟は答えず、ただ、足元の焼けた土を見ていた。
「竜を倒せるだけの剣を持って、必ず戻る」
兄の声が、少し近くなった。
弟はまだ顔を上げなかった。
見れば、引き止めてしまう。
兄の外套をつかみ、皆を連れて行ってくださいなどと、二度と言えなくなる。
兄は、弟の肩をつかんだ。
「ルアリ」
名を呼ばれて、弟はようやく兄を見た。
兄が額を寄せ、こつん、と軽い音がした。
幼いころ、熱を出した弟の額に、兄が自分の額を当ててくれたことがあった。竜の火に怯えて眠れなかった夜も、嵐で海が荒れた夜も、兄はそうして弟の熱を測った。
今は、どちらの額も熱かった。
「お前を迎えに来る」
兄の青い瞳は、焼け跡の上でも明るかった。
近すぎるほど近くで、その瞳が弟を見ていた。
風に散った灰が、兄の頬についていた。
弟はそれを払ってやりたいと思ったが、手を伸ばさなかった。
伸ばせば、皆が死ぬ。
「……道が、残っていれば」
弟はようやく、そう答えた。
「道が消えても、名が残る」
兄は額を離し、それから剣を掲げた。
「この剣を、私の子らに継がせる。いつか必ず、剣を持って北へ戻る。ルアリの名がまだここにあるなら、そのときこそ共に終わらせよう」
それが、南のマクラウド家に残った伝承の始まりだった。
だが、兄は戻れなかった。
南へ下った人々は、長い旅の果てに、山の南側にある国の北辺境へたどり着いた。
そこにはすでに領主がおり、法があり、羊の群れと畑があり、南の隣国との戦があった。
北から来た者たちは、招かれざる客だった。
それでも、その地の領主は彼らの話を聞いた。竜を倒し、土地を失い、山を越えてきた者たちの話を。
そして、条件を出した。
この国の民となること。
戦える者は兵として戦うこと。
そうでない者は、土地の暮らしのために働くこと。
兄は、それを受け入れた。
女や子供に、今夜眠る場所と、明日食べるものを与えるためには、そうするしかなかった。
そして兄は、また剣を取った。
兄は戦った。
誰よりも前に出て、誰よりも多く傷を負い、それでも倒れなかった。彼が戦場に立つと、兵たちは踏みとどまり、彼が敵陣を破れば道が開いた。
その武勲は、やがて領主だけでなく、正規軍の将軍の目にも留まった。
兄は将軍の娘を娶り、王都に近い南の地に家を持った。
家を持ったということは、帰る場所を得たということだった。
……同時に、帰れない理由を得たということでもあった。
兄が忘れたのだと、北では誰も言わなかった。
戻るつもりは、あったのだろう。
けれど戦は終わらなかった。
妻ができ、子が生まれ、従う者が増え、守るべき土地が増えた。
兄の剣は、北へ戻るための剣である前に、南で人を守る剣になった。
兄が強ければ強いほど、人々は彼を求めた。
兄が人を救えば救うほど、彼はそこから離れられなくなった。
やがて南の記録の中で、兄は一人の男ではなくなっていった。
代わりに、彼の子らの名が残った。
彼の血を引く者たちは、マクラウドと呼ばれるようになった。
南では、兄は家名になった。
北では、弟がひとり、洞窟を見ていた。
潮位、水温、赤苔、魚の死骸、洞窟の熱。
そして、ときおり、南から届く噂。
兄からの文はないままに、噂が届く。
兄は将軍家の娘を娶ったらしい。
兄の長子が生まれたと聞く。
そのあと、兄のことは書かれなくなった。
ただ、洞窟の記録だけが残った。
洞窟に残る熱と、土地の毒と、潮の濁りと、来なかった者の名を待つ空白だけが残った。
兄の子らは南で家になった。
弟の家は北で家名を持たず、ただ役目と名だけを継いだ。
ルアリ。
その名だけが、海蝕洞を見下ろす家に残った。




