二 記録と真実
ソルカは、その背中を見送った。
腹は立っていたが、同時に胸の奥にひっかかるものがあった。
――ここに残った者たちは、後始末を継いだだけです。
あの言葉の冷たさは、ソルカに向けられたというより、彼自身へ向けられたもののように聞こえた。
「追いかけるんじゃないよ」
マーラが言った。
「あの家に押しかけても、扉は開かない」
「失礼な人だわ」
「でも、悪い男じゃない。悪い男なら、あんたをここまで連れてこない」
家の中は暖かかった。暖炉の火が小さく燃え、古びた鍋が火にかかっている。
マーラは迷いもせず、自分は床で寝ると言って、唯一の寝台をソルカに示した。
「あんたはそこで寝な」
「そんなわけには」
「うちは客を床に寝かせるほど落ちぶれてないよ」
そう言いながら、マーラは鍋をかき混ぜた。
出された夕食は、薄い粥と干した魚、それから燕麦の堅焼き。恐ろしく素朴な食事だったが、ソルカは黙って食べた。
「口に合わないかい」
「いいえ」
「嘘が下手だね」
「……慣れていないだけです」
マーラは「だろうね」と笑った。
「でも、ここではこれがご馳走の日もある」
ソルカは匙を止めた。
マーラは遠い目をして、暖炉の火を見つめた。
「昔は、もっと獲れたらしいよ。魚も獣も豊かで、森も深かった。私はそんなころを知らない。祖母が、祖母の祖母から聞いた話だと言っていた」
「竜のせい?」
「さてね。何でも竜のせいにするからね。でも……洞窟が鳴る夜は、本当に魚が死ぬ。ルアリが寝ない夜は、翌日か翌々日、必ず何かが起きる」
「彼は、いつもああなの?」
「もっと愛想のない日もあるよ」
「最悪ね」
「そうだね」
マーラは、少しだけ声を低くした。
「でも、嵐の夜に洞窟が鳴ると、あの子は一人で崖の上に立つんだ。誰も行かない場所へ行く。誰も見たくないものを見る。そういう男だよ」
ソルカは、粥に目を落とした。
潮と、毒と、滅びかけの村。
三百年、ただ見張ってきただけの者たち。
自分は、何を取り戻しに来たのだろう。家名か。名誉か。それとも――。
その夜、ソルカはなかなか眠れなかった。
寝台は固く、毛布は粗かった。外では風が鳴っている。遠くで、海が洞窟を叩く音がした。時折、その音に混じって、低い、獣の唸り声のような響きが聞こえる気がした。
夢の中で、ソルカは赤い光を見た。
地の底で燃える、古い火の色だった。
翌朝、出された朝食は、昨夜とほとんど同じだった。
燕麦の堅焼き、薄い粥、少しの干し魚。山羊の乳は酸っぱく、ソルカは一口飲んで目を瞬かせた。
マーラは笑った。
「南の舌には合わないかい」
「目が覚めます」
「そりゃいい」
ソルカは食事を済ませると、すぐに立ち上がった。
「行くのかい」
「ええ」
「昨日、戻れと言われただろう」
「今日も言われるでしょうね」
「じゃあ、なぜ行く」
ソルカは、腰の剣を確かめた。
「昨日より、知りたいことが増えたから」
マーラはしばらくソルカを見て、やがて小さく笑った。
「南のマクラウドは、まだ剣の家らしいね」
ソルカは丘へ向かった。
朝の風は冷たかった。空は曇り、海は鈍い鉛色をしていた。
丘を越えると、崖上の家が見えた。
扉は閉まっている。
だが、ルアリは家の中にはいなかった。
彼は、崖下へ下りる道の途中にいた。片手に帳面を持ち、もう片方の手には細い杖のようなものを持っている。ちょうど、海蝕洞のほうへ下りていくところだった。
ソルカが道へ足を踏み出した瞬間、ルアリが振り返った。その顔色は、昨日とは違って明らかな焦りに満ちていた。
「そこから動かないでください」
「この下が、そんなに危険には見えないけれど」
「村に戻ってください」
「嫌よ」
「ソルカ姫」
「姫ではないわ」
ルアリは一度、きつく唇を引き結んだ。
ソルカは崖下を見た。道は確かに細いが、歩けないほどではない。下には海蝕洞がある。潮が引き始めているのか、昨日よりも黒い岩肌が見えていた。潮だまりがいくつかあり、その縁に、赤黒い苔のようなものがついている。
そして、ひとつ気づいた。
「――魚がいない」
ルアリの顔が、さらに険しくなった。
「あの潮だまりだけ、何もいない。海藻もない。どうして?」
「下がってください」
「どうして?」
「そこは、古い火の息が上がる場所です」
海蝕洞の奥から、昨日よりもはっきりとした低い音が響く。
ルアリはソルカの腰の剣を見つめ、何かを諦めたように溜息をついた。
「……来てください」
「どこへ」
「私の家へ」
ソルカは目を瞬かせた。
「昨夜は入れてくれなかったのに」
「夜でしたから」
「昼ならいいの?」
「扉を開けておきます」
ソルカは、思わず笑いそうになったが、ルアリの顔を見て笑うのをやめた。
「いいでしょう。扉は開けておいて」
「そのつもりです」
ルアリの家は、外から見たとおり小さかった。石造りの壁は厚く、窓は少ない。ソルカは低い扉をくぐり、中へ入った。
最初に感じたのは、紙の匂いだった。
潮と煙と乾いた薬草の匂いの奥に、古い紙と革の匂いがある。壁際には革表紙の記録帳が隙間なく並び、机の上には潮位を刻んだ板、細い銀の針、黒い石片、書きかけの帳面が置かれていた。
小屋というより、観測小屋と記録室と診療所を、一つに押し込めたような場所だった。
ルアリは本当に扉を開けたままにした。
ソルカはそれを見て、少しだけ呆れた。
「徹底しているのね」
「疑われる余地を残すのは、互いのためになりません」
「私があなたに何かされたと言いふらすとでも?」
「あなたが言わなくても、人は言います」
「村の人は、そんなに暇なの?」
「三軒しかありませんから」
ルアリは机の上の帳面を閉じ、代わりに棚から分厚い一冊を取り出した。
表紙はひどく傷んでいて、角は丸くなり、潮気で波打っている。
彼はそれを、机の上に置いた。
「初代の記録です」
ソルカは、思わず背筋を伸ばした。
「初代というのは」
「最初の封印守。名を、ルアリ」
「あなたと同じ」
「私が、同じ名を継いでいるのです」
ソルカは、慎重に表紙を開いた。
三百年前に何を斬り、竜をどう葬ったのか。その記録さえ見れば、自分の使命も、北へ来た理由もすべて明らかになるはずだった。
だが、そこにあったのは伝説というより、報告書だった。
日付。天候。潮位。森の焼失範囲。負傷者の数。食糧の残り。
災害の記録が続き、避難の記録が続き、やがて、観測の記録に変わっていく。
潮位。
水温。
赤苔の広がり。
魚の死骸の数。
洞窟から上がる熱。
井戸水の濁り。
海鳥が寄らない日。
南風の日に混じる硫黄の匂い。
夜間の地鳴り。
封印石のひび。
村人の咳。
家畜の死。
どこまで繰っても、同じだった。
「これが、竜退治の記録?」
「竜退治ではありません」
「では、何?」
「災害と避難と、その後始末の記録です」
ルアリは黙って、棚から次の帳面を出した。さらにもう一冊を、その上に重ねた。ソルカはそれを受け取り、三冊目の記録を開いた。
――竜が、いない。
ソルカはページを繰った。やはりあるのは、異常な土地の観測記録だけだった。
そして、その几帳面な行の端に、ときどき、短い記述が混じっていた。
――兄からの文、なし。
――南より、兄の武勲の噂が届く。
――兄は将軍家の娘を娶ったらしい。
――兄の長子が生まれたと聞く。
――北の封印に異常なし。
その行の前後は、妙に行間が空いていた。
墨が、他の行より濃い。
何も書かれていないはずの余白に、ソルカはしばらく目を奪われた。
やがて、ある年を境に、兄という言葉は現れなくなる。
以後は「南」「マクラウド家」「南から使者は来ない」――そういう、冷えた記述に変わっていた。
兄の長子が生まれた。
その子の、そのまた子らの果てに、自分がいる。
ソルカは、帳面から目を上げられなかった。
自分は、帰ってこなかった兄の末裔なのだ。
兄が南に根を下ろし、家を興し、子をなしたからこそ、ソルカはいまここにいる。
つまり、初代のルアリは、置き去りにされた。
ソルカという娘がここに立っていること、それ自体が、その動かぬ証拠だった。
ソルカは、丘の向こうの村を思った。
残っている三軒の者たちは、全員が動けないほど弱っているわけではない。マーラは薪を割り、鍋をかき混ぜ、笑っていた。荷をまとめれば、南へ行けそうな者もいる。
なのに、出ていかない。
出られないのではない。
出ていかないのだとすれば、理由がある。
南の伝承では、竜を斬った剣を持って北へ戻れと伝わっている。屋敷の壁には英雄の剣が掛かり、竜を倒した家だと、誰もが語ってきた。
なのに、北の記録のどこにも、竜という文字がない。
あるのは、潮位と、水温と、死んでいく命の数字だけ。英雄譚ではなく――終わらない、管理の記録。
「ねえ」
ソルカは、ルアリを見た。
「何を隠しているの? 使命って、何のこと? あなたがここにいるということは、何もないわけじゃないんでしょう?」
ルアリは、わずかに目を細めた。
すぐには答えず、やがて、疲れたように目を伏せた。
「あなたには関係ありません」
「あるわ。私はマクラウドです」
「だから関係があると思っているなら、なおさら帰るべきです」
「なぜ」
「知れば、帰れなくなる」
「それ、昨日も言ったわ」
「昨日より、事態は悪くなっています」
「なら、なおさら話して」
ルアリは、長いあいだ黙っていた。
視線が、棚に並ぶ記録帳を、一冊、また一冊とたどっていく。
やがて、観念したように口を開いた。
「……長い話になります」
「時間ならあるわ」
「昔――」
ルアリは語り始めた。
それは、帳面に記され、封印守の名とともに継がれてきた、北の海辺の話だった。




