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剣の姫君と封印守の魔法使い  作者: 如月アトリ


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3/11

二 記録と真実

 ソルカは、その背中を見送った。

 腹は立っていたが、同時に胸の奥にひっかかるものがあった。

 ――ここに残った者たちは、後始末を継いだだけです。

 あの言葉の冷たさは、ソルカに向けられたというより、彼自身へ向けられたもののように聞こえた。


「追いかけるんじゃないよ」

 マーラが言った。

「あの家に押しかけても、扉は開かない」

「失礼な人だわ」

「でも、悪い男じゃない。悪い男なら、あんたをここまで連れてこない」


 家の中は暖かかった。暖炉の火が小さく燃え、古びた鍋が火にかかっている。

 マーラは迷いもせず、自分は床で寝ると言って、唯一の寝台をソルカに示した。

「あんたはそこで寝な」

「そんなわけには」

「うちは客を床に寝かせるほど落ちぶれてないよ」

 そう言いながら、マーラは鍋をかき混ぜた。

 出された夕食は、薄い粥と干した魚、それから燕麦の堅焼き。恐ろしく素朴な食事だったが、ソルカは黙って食べた。

「口に合わないかい」

「いいえ」

「嘘が下手だね」

「……慣れていないだけです」

 マーラは「だろうね」と笑った。

「でも、ここではこれがご馳走の日もある」

 ソルカは匙を止めた。

 マーラは遠い目をして、暖炉の火を見つめた。

「昔は、もっと獲れたらしいよ。魚も獣も豊かで、森も深かった。私はそんなころを知らない。祖母が、祖母の祖母から聞いた話だと言っていた」

「竜のせい?」

「さてね。何でも竜のせいにするからね。でも……洞窟が鳴る夜は、本当に魚が死ぬ。ルアリが寝ない夜は、翌日か翌々日、必ず何かが起きる」

「彼は、いつもああなの?」

「もっと愛想のない日もあるよ」

「最悪ね」

「そうだね」

 マーラは、少しだけ声を低くした。

「でも、嵐の夜に洞窟が鳴ると、あの子は一人で崖の上に立つんだ。誰も行かない場所へ行く。誰も見たくないものを見る。そういう男だよ」

 ソルカは、粥に目を落とした。

 潮と、毒と、滅びかけの村。

 三百年、ただ見張ってきただけの者たち。

 自分は、何を取り戻しに来たのだろう。家名か。名誉か。それとも――。


 その夜、ソルカはなかなか眠れなかった。

 寝台は固く、毛布は粗かった。外では風が鳴っている。遠くで、海が洞窟を叩く音がした。時折、その音に混じって、低い、獣の唸り声のような響きが聞こえる気がした。

 夢の中で、ソルカは赤い光を見た。

 地の底で燃える、古い火の色だった。


 翌朝、出された朝食は、昨夜とほとんど同じだった。

 燕麦の堅焼き、薄い粥、少しの干し魚。山羊の乳は酸っぱく、ソルカは一口飲んで目を瞬かせた。

 マーラは笑った。

「南の舌には合わないかい」

「目が覚めます」

「そりゃいい」

 ソルカは食事を済ませると、すぐに立ち上がった。

「行くのかい」

「ええ」

「昨日、戻れと言われただろう」

「今日も言われるでしょうね」

「じゃあ、なぜ行く」

 ソルカは、腰の剣を確かめた。

「昨日より、知りたいことが増えたから」

 マーラはしばらくソルカを見て、やがて小さく笑った。

「南のマクラウドは、まだ剣の家らしいね」


 ソルカは丘へ向かった。

 朝の風は冷たかった。空は曇り、海は鈍い鉛色をしていた。

 丘を越えると、崖上の家が見えた。

 扉は閉まっている。

 だが、ルアリは家の中にはいなかった。

 彼は、崖下へ下りる道の途中にいた。片手に帳面を持ち、もう片方の手には細い杖のようなものを持っている。ちょうど、海蝕洞のほうへ下りていくところだった。

 ソルカが道へ足を踏み出した瞬間、ルアリが振り返った。その顔色は、昨日とは違って明らかな焦りに満ちていた。

「そこから動かないでください」

「この下が、そんなに危険には見えないけれど」

「村に戻ってください」

「嫌よ」

「ソルカ姫」

「姫ではないわ」

 ルアリは一度、きつく唇を引き結んだ。

 ソルカは崖下を見た。道は確かに細いが、歩けないほどではない。下には海蝕洞がある。潮が引き始めているのか、昨日よりも黒い岩肌が見えていた。潮だまりがいくつかあり、その縁に、赤黒い苔のようなものがついている。

 そして、ひとつ気づいた。

「――魚がいない」

 ルアリの顔が、さらに険しくなった。

「あの潮だまりだけ、何もいない。海藻もない。どうして?」

「下がってください」

「どうして?」

「そこは、古い火の息が上がる場所です」

 海蝕洞の奥から、昨日よりもはっきりとした低い音が響く。

 ルアリはソルカの腰の剣を見つめ、何かを諦めたように溜息をついた。

「……来てください」

「どこへ」

「私の家へ」

 ソルカは目を瞬かせた。

「昨夜は入れてくれなかったのに」

「夜でしたから」

「昼ならいいの?」

「扉を開けておきます」

 ソルカは、思わず笑いそうになったが、ルアリの顔を見て笑うのをやめた。

「いいでしょう。扉は開けておいて」

「そのつもりです」


 ルアリの家は、外から見たとおり小さかった。石造りの壁は厚く、窓は少ない。ソルカは低い扉をくぐり、中へ入った。

 最初に感じたのは、紙の匂いだった。

 潮と煙と乾いた薬草の匂いの奥に、古い紙と革の匂いがある。壁際には革表紙の記録帳が隙間なく並び、机の上には潮位を刻んだ板、細い銀の針、黒い石片、書きかけの帳面が置かれていた。

 小屋というより、観測小屋と記録室と診療所を、一つに押し込めたような場所だった。


 ルアリは本当に扉を開けたままにした。

 ソルカはそれを見て、少しだけ呆れた。

「徹底しているのね」

「疑われる余地を残すのは、互いのためになりません」

「私があなたに何かされたと言いふらすとでも?」

「あなたが言わなくても、人は言います」

「村の人は、そんなに暇なの?」

「三軒しかありませんから」

 ルアリは机の上の帳面を閉じ、代わりに棚から分厚い一冊を取り出した。

 表紙はひどく傷んでいて、角は丸くなり、潮気で波打っている。

 彼はそれを、机の上に置いた。

「初代の記録です」

 ソルカは、思わず背筋を伸ばした。

「初代というのは」

「最初の封印守。名を、ルアリ」

「あなたと同じ」

「私が、同じ名を継いでいるのです」


 ソルカは、慎重に表紙を開いた。

 三百年前に何を斬り、竜をどう葬ったのか。その記録さえ見れば、自分の使命も、北へ来た理由もすべて明らかになるはずだった。

 だが、そこにあったのは伝説というより、報告書だった。

 日付。天候。潮位。森の焼失範囲。負傷者の数。食糧の残り。

 災害の記録が続き、避難の記録が続き、やがて、観測の記録に変わっていく。

 潮位。

 水温。

 赤苔の広がり。

 魚の死骸の数。

 洞窟から上がる熱。

 井戸水の濁り。

 海鳥が寄らない日。

 南風の日に混じる硫黄の匂い。

 夜間の地鳴り。

 封印石のひび。

 村人の咳。

 家畜の死。

 どこまで繰っても、同じだった。

「これが、竜退治の記録?」

「竜退治ではありません」

「では、何?」

「災害と避難と、その後始末の記録です」

 ルアリは黙って、棚から次の帳面を出した。さらにもう一冊を、その上に重ねた。ソルカはそれを受け取り、三冊目の記録を開いた。


 ――竜が、いない。

 ソルカはページを繰った。やはりあるのは、異常な土地の観測記録だけだった。

 そして、その几帳面な行の端に、ときどき、短い記述が混じっていた。

 ――兄からの文、なし。

 ――南より、兄の武勲の噂が届く。

 ――兄は将軍家の娘を娶ったらしい。

 ――兄の長子が生まれたと聞く。

 ――北の封印に異常なし。

 その行の前後は、妙に行間が空いていた。

 墨が、他の行より濃い。

 何も書かれていないはずの余白に、ソルカはしばらく目を奪われた。

 やがて、ある年を境に、兄という言葉は現れなくなる。

 以後は「南」「マクラウド家」「南から使者は来ない」――そういう、冷えた記述に変わっていた。

 兄の長子が生まれた。

 その子の、そのまた子らの果てに、自分がいる。

 ソルカは、帳面から目を上げられなかった。

 自分は、帰ってこなかった兄の末裔なのだ。

 兄が南に根を下ろし、家を興し、子をなしたからこそ、ソルカはいまここにいる。

 つまり、初代のルアリは、置き去りにされた。

 ソルカという娘がここに立っていること、それ自体が、その動かぬ証拠だった。


 ソルカは、丘の向こうの村を思った。

 残っている三軒の者たちは、全員が動けないほど弱っているわけではない。マーラは薪を割り、鍋をかき混ぜ、笑っていた。荷をまとめれば、南へ行けそうな者もいる。

 なのに、出ていかない。

 出られないのではない。

 出ていかないのだとすれば、理由がある。

 南の伝承では、竜を斬った剣を持って北へ戻れと伝わっている。屋敷の壁には英雄の剣が掛かり、竜を倒した家だと、誰もが語ってきた。

 なのに、北の記録のどこにも、竜という文字がない。

 あるのは、潮位と、水温と、死んでいく命の数字だけ。英雄譚ではなく――終わらない、管理の記録。

「ねえ」

 ソルカは、ルアリを見た。

「何を隠しているの? 使命って、何のこと? あなたがここにいるということは、何もないわけじゃないんでしょう?」


 ルアリは、わずかに目を細めた。

 すぐには答えず、やがて、疲れたように目を伏せた。

「あなたには関係ありません」

「あるわ。私はマクラウドです」

「だから関係があると思っているなら、なおさら帰るべきです」

「なぜ」

「知れば、帰れなくなる」

「それ、昨日も言ったわ」

「昨日より、事態は悪くなっています」

「なら、なおさら話して」

 ルアリは、長いあいだ黙っていた。

 視線が、棚に並ぶ記録帳を、一冊、また一冊とたどっていく。

 やがて、観念したように口を開いた。

「……長い話になります」

「時間ならあるわ」

「昔――」

 ルアリは語り始めた。

 それは、帳面に記され、封印守の名とともに継がれてきた、北の海辺の話だった。

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