一 封印守の魔法使い
南のマクラウド家に伝わる始まりの話では、彼らは、この国の北の果てに、ある日突然現れたのだという。
自分たちは山の向こう、森の向こうの海辺で暮らしていたこと。そこに竜が現れ、長く争い、どうにか倒したものの、土地は荒れ果て、暮らしていけなくなったこと。
だから、ここまで来たのだと、そう語ったという。
当時の北の辺境の領主はしばらく考え、こう答えた。
――この国の民となると誓うなら、領民として迎え入れてもよい。ただし、この国は南の隣国と争っている。戦える者は兵として南へ行き、そうでない者は土地のために働け。
一族の長であった青年は、これを受け入れた。
竜を倒したというその青年は、戦場で獅子奮迅の働きを見せ、その武勲は将軍の目にも留まった。青年は将軍の娘を娶り、王都に近い南の地で爵位を得た。
それが、南のマクラウド家の始まりだった。
――それから、三百年。
南のマクラウド家の末裔、ソルカ・マクラウドは、北へ向かっていた。
王都を出てから、二週間。道は次第に細くなり、人家は減り、やがて、王国の支配が及ぶ場所の端にたどり着いた。そこから先は、山の向こう側だ。
王都から同行した従僕が、蒼白な顔で訴える。
「お嬢様、おひとりでは無理です」
「ここから先は、私の家の使命よ」
「でしたら、なおさら私も」
「あなたの忠義を試す場所ではないわ」
ソルカは従僕に金と手紙を渡した。
「十日、ここで待って。それでも私が戻らなければ、王都へ帰りなさい。ソルカ・マクラウドは北で死んだと、父と母に伝えて」
「そんなことは」
「命令よ」
従僕は泣いたが、ソルカは泣かなかった。
山を越える道は、もはや道と呼べなかった。
馬を引いて歩かねばならず、風は冷たく、雨は横から吹きつけた。深い森のところどころに、黒く焼けた岩肌が覗いている。
二日をかけて山を越え、ソルカは北の村へたどり着いた。
村は、三軒ばかりの集落だった。
石垣に囲まれた質素な家が、風を避けるように低く建っている。軒下には干した魚が吊るされ、鹿皮が張られていた。煙突からは細い煙が上がっている。
だが、土地そのものは、思いがけないほど明るかった。
空は広く、風に伏せた草地はどこまでもみずみずしい緑で、白っぽい岩が波打ち際に転がっている。草の匂いに、潮の匂い。強い風。遠くの海は光っていた。
ソルカは呪われた地を想像していたが、目の前に広がっていたのは、拍子抜けするほど美しい風景だった。
ソルカが馬を止めると、年配の女が顔を上げた。女はソルカの赤毛を捉え、次に腰の剣へ視線を移す。
「南のマクラウドだね」
「ご存じなの?」
「忘れたわけじゃない」
女は手を拭きながら近づいてきた。
「来るとは思っていなかっただけだよ」
「私は、使命を果たしに来ました」
女はしばらくソルカの顔を見ていた。怒っているようにも、呆れているようにも、泣き出しそうにも見える。
「……あの丘の向こうに、封印守の家がある」
女は丘の向こうを指した。
ソルカは女の指さす方角を見たが、なだらかな丘が続いているだけで、家は見えない。
「……封印守? 何も見えないわ」
「村からは見えないように建っているんだ」
「なぜ」
「あの子は、村ではなく洞窟を見ているから」
女は、丘のほうへ向ける目を細めた。
「行くなら、日が落ちる前に行きな。あの家は近いようで、風が強い」
ソルカは馬の手綱を引き、丘の道を歩き出した。
風は冷たかった。王都を出たころには夏の明るさがあったのに、この北の海辺では、季節がひとつ手前で止まっているようだった。草の匂いに潮の匂いが混じり、さらにその奥に、かすかに、焦げた鉄のような匂いがあった。
丘を越える道は細い。人が踏み固めた跡はあるが、荷車の通う道ではない。両側の草は膝の高さまで伸び、風が吹くたび、波のように揺れた。下のほうから、波が岩を打つ音が聞こえる。
村の犬が一匹、物珍しそうに付いてきていた。犬は、丘の途中でぴたりと足を止め、鼻先を低くして草の間の匂いを嗅いだ。ソルカが振り返ると、犬は尾を下げ、来た道を戻っていった。
やがて道が下りになり、視界が開け、ソルカは足を止めた。
そこには、海蝕洞があった。
黒い崖が、海へ向かって大きく口を開けている。洞窟の奥は暗く、昼の光が届かない。海水が洞窟の口を満たし、波が入るたび、低いうなりのような音がした。
崖の上には、石造りの小さな家が一軒だけ建っていた。塔でも神殿でもない、漁師の小屋のような佇まい。だが、その窓は、まっすぐ洞窟を向いていた。
――村ではなく、洞窟を見ている。
女の言葉の意味が、ようやくわかった。
そして、気づいた。
洞窟へ降りる道筋だけ、草が枯れている。
水辺だというのに、岩の苔は赤黒い。
さっきまで空には鳥の声があったのに、崖のまわりには、一羽も降りていない。
美しい土地の、そこだけが――古い火傷の跡のように、死んでいた。
ソルカは馬を石垣につなぎ、扉の前に立ったが、扉は叩く前に開いた。
中から出てきた男は、まず空を見た。次に海を見て、崖下の洞窟へ目をやった。それから、ようやく仕方なさそうに、ソルカを見た。
その視線が、ソルカの赤毛から剣へ、剣から顔へと移り――男は、あからさまに眉をひそめた。
「……村へ戻ってください」
第一声が、それだった。
ソルカは思わず聞き返した。
「あなたが封印守?」
「そうです」
「私はソルカ・マクラウドです」
「知っています」
「まだ名乗っていないわ」
「髪と剣で十分です」
思っていたより、若い。二十代の半ばを少し過ぎたくらいだろうか。
ソルカとほとんど変わらない背丈だが、痩せて、体に厚みがない。頬はこけ、袖口から覗く手首は骨の形がわかるほど細かった。肌は北の風と潮にさらされて白く、目の下には濃い影がある。
そして、髪は赤かった。
自分と同じ、燃えるような赤毛。それが、なぜか少しだけ、気にかかった。
瞳の色は、夕方の光の加減か、色まではわからなかった。ただ、底を覗き込めば落ちる、と思わせる目だった。
男は扉に手をかけたまま、家に入れようとはしなかった。
ソルカは少し顎を上げた。
「私は、北の大地に眠る使命を果たしに来ました。マクラウド家に伝わる剣を持って」
「そうでしょうね」
「話を聞かせて。あなたが封印守なら、私を追い返す前に、話すべきことがあるはずよ」
「あなたにあるのは、帰る理由です」
静かな声だった。
だが、鞘に納めたままの刃を突きつけられているようだった。
「帰れと言われて帰るくらいなら、ここまで来ません」
「それなら、なおさら厄介です」
「失礼ね」
「失礼で済むなら、安いものです」
男は一度、崖の下へ目を向けた。視線が、洞窟へ落ちる。
ソルカもつられて見た。
海水は黒く見えた。波が入るたび、洞窟の奥で何かが鳴った。岩に当たる水音にしては、低すぎる音だった。
「この洞窟に、何があるの」
男はすぐには答えず、その音が消えるまで待っていた。
「村の人は、あなたが洞窟を見ていると言っていたわ」
「村の者は余計なことを言いますね」
「余計なことを言われるような暮らしをしているのでしょう」
男の眉が、わずかに動いた。
ソルカは続けた。
「あなたは封印守なのね。なら、封印されているものがある。私の家の伝承では、北の大地に使命が眠っているとあるわ。竜を斬った剣を携えて、果たしに来いと。あなたがここにいるということは、何もないわけではないでしょう」
「……あなたの家に伝わっている話と、こちらに残っている話は、ずいぶん違うようです」
男の声は冷たかった。
「あなたが何を期待して来たのかは知りませんが、ここにあるのは、見ての通り――潮と、毒と、滅びかけの村だけですよ」
ソルカは息を呑んだ。
潮と、毒と、滅びかけの村。
その言葉は、伝承の勇ましい響きとはまるで違っていた。竜殺しの英雄譚ではない。長患いの病人の部屋のような、じっと耐えて、看取るしかないものの重さがあった。
「私の家では、竜は倒されたと伝わっています」
「そうでしょうね」
「では、この洞窟は何なの」
「後始末です」
男は短く言った。
「あなたの祖が斬ったものの後始末を、こちらの初代が引き受けた。村の者たちは、それで終わったと思った。――そこまでは、事実です」
「初代?」
その問いには答えず、男は無表情に告げた。
「あなたの家は、名誉を継いだ。剣を継いだ。ここに残った者たちは、後始末を継いだだけです」
「そんな言い方」
「他に、何と言えば?」
男が、ようやく扉から手を離して、家の中が少し見えた。
暖炉、机、棚。壁際には古い帳面がうずたかく積まれ、天井の梁には、乾かした草束が吊るされていた。
封印を守る者の家と聞いて、どこか神殿めいたものを想像していた。だが、そこにあったのは、帳面だけ――記録し続ける者の家だった。
「竜殺しの名誉も、北の宝もありません。あなたの家が南で何を語ってきたのかは知りませんが、ここに残った者たちは三百年、ただ見張ってきただけです」
「見張るだけで、満足しているの?」
瞬間、男の瞳に怒りが宿った。
「満足?」
声は低かった。
「満足しているように見えますか。封印が緩むたびに魚が死に、洞窟の風が熱を帯び、村の子供が熱を出す。若い者は出ていく。残る者は減る。この村に生まれた者は、出ていくか、見張るか――どちらかです。それを満足と呼ぶなら、南の言葉はずいぶん便利にできている」
ソルカが言葉に詰まっていると、崖下の洞窟から、また低い音がした。
男は硬い声で「今夜は、村へ戻ってください」と繰り返した。
「まだ何も聞いていないわ」
「聞けば、帰れなくなる」
「それなら、なおさら聞くべきでしょう」
「あなたは未婚の令嬢です」
急に話が変わり、ソルカは目を瞬かせた。
「今、それが何の関係があるの」
「あります」
「私は使命の話をしているのよ」
「私は、あなたを家に入れられない理由の話をしています」
ソルカは、思わず口を開けた。
「……まさか、私がここに泊まると思っているの?」
「泊まると言い出す顔をしていました」
「失礼ね!」
「おおむね当たっているでしょう」
当たっていた。
だが、当たっていることと、言っていいことは別だ。
「私は、話を聞くまで帰らないわ」
「では、送ります」
男はそう言うと、強い力でソルカの腕を取った。
「ちょっと、何を」
「村へ戻ります」
「歩けるわ!」
「戻る気がないでしょう」
「乱暴しないで!」
ソルカがそう叫んだ瞬間、男はぴたりと手を離した。
傾いた日の光の中で、初めて瞳の色が見えた。紫紺の、夜空の底のような色だった。
「……失礼しました」
彼は一歩下がったが、それでも扉の前からは退く気配はない。
「馬に乗ってください」
「命令?」
「お願いです。命令のほうがよければ、命令にします」
「本当に感じの悪い人ね」
「よく言われます」
「でしょうね」
「馬へ」
ソルカは睨んだが、結局、折れたのはソルカのほうだった。
馬に乗ると、男は手綱を取り、ソルカが抗議する前に歩き出す。崖上の家から、丘の細い道を下りていく。海からの風が背を押し、草が足元でざわめいた。
「子供扱いしないで」
「夜道で落ちたら困ります」
「まだ夜ではないわ」
「北の夕暮れは早い」
「あなた、何を言っても言い返すのね」
「必要なことだけを言っています」
「それが一番腹が立つのよ」
男はそれには答えず、手綱を引く手に力を込めた。
村へ戻るころには、空はすっかり灰色になっていた。
三軒の家から細い煙が上がり、干した魚の匂いがした。昼にソルカへ道を教えた年配の女が、家の前で薪を割っていた。
女は、男が馬を引いて戻ってくるのを見ると、手を止めた。
「追い返されたかい」
ソルカは顔を赤くした。
「追い返されたのではありません。連れ戻されたのです」
「同じようなもんだね」
男は女の前で手綱を止めた。
「マーラ。この方を一晩、泊めてやってくれないか」
「自分の家に置けばいいだろう」
「未婚の令嬢です」
マーラは即座に「ああ」と納得した。
「なるほどね」
「なるほどではありません!」
ソルカが言うと、マーラは声を立てて笑った。
「南のお姫様は怒りっぽいね」
「姫ではありません」
「じゃあ、今夜はうちの寝台で文句を言わずに寝る娘だ」
マーラは家の扉を開けた。
「入りな。寒かったろう」
ソルカは馬を降り、男を見た。
「明日、もう一度行きます」
「村にいてください」
「行きます」
「では、朝には家にいません」
「逃げるの?」
「仕事です」
「なら、仕事先へ行くわ」
男は深く息を吐いた。
初めて、年相応の、疲れた若者の顔になった。
「ソルカ姫」
「姫ではないわ」
「あなたは、何もわかっていない」
「だから、聞きに来たの」
しばらく、二人は黙って向かい合った。
風が吹く。男の赤毛が頬にかかった。彼はそれを払おうともせず、ただソルカを見ていた。
やがて、先に視線を逸らしたのは、男のほうだった。
「……明朝、崖へは近づかないでください」
「なぜ」
「危険だからです」
「何が」
「それを知るために、近づかないでください」
「あなた、本当に説明が下手ね」
「よく言われます」
男はマーラに軽く頭を下げた。
「頼む」
「はいはい。あんたも少しは寝な」
「潮を見ます」
「またそれか」
マーラは小さく舌打ちした。
「洞窟ばかり見ていると、そのうち洞窟を嫁にすることになるよ」
「嫁を取る予定はありません」
「だろうね」
男は手綱をソルカに返し、背を向けた。
その背に、ソルカは声を投げた。
「そういえば――まだ、あなたの名前を聞いていなかったわ」
男は足を止めた。振り返りはしなかった。
「……ルアリ。ただのルアリです。家名は、ありません」
それだけ言って、彼は灰色の空の下、風に伏せた草の道を、丘の向こうへ一人で戻っていった。




