プロローグ
ソルカの家には、祖先の剣と、三百年前から消えない言葉がある。
――我らが使命は、北の大地に眠っている。
――さすれば我らの名誉は、今度こそ真実となる。
今度こそ。
その一語の意味をソルカが初めて本気で考えたのは、婚約を解消された日のことだった。
「あなたとの婚約は、解消させてほしい」
婚約者だった青年は、ソルカの向かいで目を伏せていた。よく仕立てられた上着の袖口を落ち着かなげに撫でながら、言葉を選んでいる。
「君が悪いわけじゃない。けれど父には、今の宮廷で意味のある縁を選べと言われて」
「ええ」
わかっている。
彼の家は、最初からマクラウドの名だけを欲しがっていた。古い剣の一族と縁を結んだ、という体面。けれど、戦のない時代に、昔の武勲は金にならない。
「本当に、すまない。僕は、マクラウド家は立派な家だと心から思っている。でも……」
「でも、役に立つ家ではなかった」
ソルカが口元だけで笑うと、青年は傷ついたような顔をした。
傷ついたのは、こちらの方なのに。
「そんな言い方をしないでくれ」
「では、どう言えばよろしいの。古い家の娘だが、古すぎて値がつかなかった?」
ソルカは笑顔を取り繕うのをやめた。
「お気になさらず。婚約者でなくなるのなら、私に同情する義理もありませんわ」
青年は何かを言いかけ、結局、唇を引き結んだまま立ち上がった。一礼して、部屋を出ていく。
ソルカは青年が出ていった扉から目を逸らすように、窓の外を見た。
夏のはじめの、よく晴れた午後。庭では白い薔薇が咲いている。もっとも、その薔薇も昔ほど見事ではない。屋敷の西翼は閉じられ、銀の燭台も真珠の首飾りも、もうない。
窓硝子には、燃えるような赤毛と、晴れた夏空のような青い瞳が映っている。王都の令嬢としては背が高い。背筋の伸びた身体は、しなやかで美しいと言われる一方、令嬢らしくないとも評された。
マクラウド家の娘は、たとえ一人娘であっても剣を習う。だからソルカの身体には、細い扇より、剣の重さのほうがなじんでいた。
――もう少し可愛げがあれば、婚約破棄などされなかっただろうか。
一瞬だけそう思い、ソルカはすぐにその考えを振り払った。
そのとき、使用人が控えめに扉を叩き、父の帰宅を知らせた。
書斎で向かい合い、ソルカは婚約が解消されたことを淡々と告げた。
「そうか」
父は短くそう言って、うなだれた。落胆はしているが、驚いてはいない。
「……ご存知でしたのね。こうなると」
「予感は、あった」
それ以上、父は言い訳をしなかった。マクラウド家が差し出せるものの少なさを、当主である父が誰よりも知っている。
膝の上で組んだソルカの指には力が入りすぎて、関節が白くなっていた。
予感は、あった。
ならば、なぜ何もしなかったのか。
問いが喉元まで上がり、怒りで血の気が引いていくのがわかった。
これ以上父の顔を見ていたら、抑えられなくなる。
ソルカは父の顔から目を逸らした。
父の肩越し、書斎で一番よく見える壁に、祖先の剣が掛けられている。
刃は、磨かれてなお黒い。銀ではない。美しい飾り剣でもない。使うために鍛えられた、重く、実直な剣だ。刃の中央には、うっすらと赤い筋が走っている。火に焼かれても、血を吸っても、三百年消えなかった傷なのだと、ソルカは幼いころから聞かされてきた。
その下に刻まれた、色褪せた文字。
――我らが使命は、北の大地に眠っている。
――いつの日か、剣を携え、これを果たせ。
――さすれば我らの名誉は、今度こそ真実となる。
今度こそ。
その一語を見つめた瞬間、父へ向いていた怒りが遠のいた。
代わりに、どうしようもない不満が胸の底からこみ上げてくる。
どういう意味なのだろう。今度こそ真実になる、とは。
では、今ある名誉は、真実ではないのか。竜を倒した英雄の家という、マクラウドの名は――いったい、何なのか。
そして、婚約が壊れた今、自分の次にこの剣を受け継ぐ者がいる保証はどこにもない。マクラウドの血は、自分の代で消えるかもしれない。
――ならばなおさら、この剣に刻まれた言葉の正体を、私が見届けなければならない。
「北へ参ります」
「ソルカ」
引き止めるような父の声がしたが、ソルカは聞こえなかったふりをした。
「銘文の使命を、確かめて参ります。お祖父様でもお父様でもなく――私が、行きます」
ソルカは父を見なかった。ただ、剣だけを見ていた。
婚約が壊れた今も、誰も動こうとはしない。ならば、私が行く。誰も行かないのなら。
「私が、見て参ります。マクラウドの名が、本物かどうか」




