九 二つの記録
求婚の返事は待つことにして、その翌々日、ソルカは馬で山を越えた。
峠の宿場に着いたのは、約束の十日を三日過ぎた日だった。
従僕は、まだそこにいた。
宿の前の石段に座り、北の山を見上げていた男は、ソルカの姿を見つけると、立ち上がる前に顔を覆った。
「命令違反よ」
「罰は、王都に帰ってから受けます」
泣いたのは今度も従僕で、ソルカは今度も泣かなかった。
代わりに、彼女は初めて、深く頭を下げた。
「待っていてくれて、ありがとう」
従僕には、父への手紙を託した。
生きていること。竜を倒したこと。北で見つけたものについて、話さなければならないこと。そして――蔵の一番古い文箱を持って、父自身の足で、北へ来てほしいこと。
従僕は手紙を胸に抱え、南へ発った。
父が来たのは、夏の終わりだった。
山越えで一回り痩せた父は、それでも杖をつかず、自分の足で丘を上がってきた。荷馬の背には、古びた文箱が二つ、括りつけられていた。
崖上の家の前で、父とルアリは向かい合った。
南のマクラウド家当主と、家名のない北の青年。
父は、名乗りのあと、何も言わずに腰を折った。
深い、長い礼だった。
「三百年、遅れました」
ルアリは、その頭を見下ろして、静かに言った。
「私は、初代のルアリではありません」
「承知しています」
「あなたは、初代の兄ではない」
「はい」
「では――謝罪は、記録に残します」
ルアリは本当にその場で帳面を開き、日付と、南のマクラウド家当主、北へ至り謝罪す、と書いた。
父は頭を上げ、その几帳面な文字を、黙って見ていた。
それから、少しだけ笑った。
「娘から聞いていた通りの方だ」
「悪口ですね」
「半分は」
その言葉に、ソルカは少し得意げに笑ってみせた。
父は娘を見て、困ったように、小さく微笑んだ。
その夜、崖上の家の机に、北の帳面と、南の文箱が並んだ。
三百年分の記録の照合が始まった。
南の文箱には、初代の兄の代の綴りが残っていた。
出納の帳に、記載がある。
――北への使者。路銀、馬二頭。
同じ記載が、年を変えて、三度。
二度は「道を失い、引き返す」。一度は「戻らず」。
古道崩落の報せの写しがあった。戦時の徴用の記録があった。辺境の乱、家督の争い、守るべき土地の増加――北へ発てない年が、几帳面な文字で積まれていた。
そして、剣の手入れの記録があった。
年に一度、研ぎ師の名と、支払い。
兄の最晩年まで、それは途切れていなかった。
剣は、いつでも発てるように、研がれ続けていた。
ルアリは、北の帳面を開いた。
「――三十年目、南への使者、戻らず。うちの記録では、そうなっています」
彼は、南の綴りの「戻らず」の行に、指を置いた。
互いに、出していた。
互いに、届かなかった。
ただ、それだけだった。
文箱の底から、父が、反故の束を出した。
同じ文句を、何度も書き直した紙だった。
一番古い一枚には、こうあった。
――我が使命は、北の大地に眠っている。いつの日か、剣を携え、迎えに行く。
「我が」は「我らが」に直されていた。
「迎えに行く」は線で消され、「これを果たせ」に変わっていた。
ルアリは、長いあいだ、その紙を見ていた。
北の帳面には、ある年まで、ただ「兄」とあった。
南の綴りには、初代マクラウド卿とあった。
兄の本当の名は、どちらにも残っていなかった。
誰も呼ばなくなった名は、記録にも残らない。
残ったのは、北のルアリという名と、南のマクラウドという家名だけだった。
誰か一人の罪にするには、三百年は長すぎた。
残っているのは、記録と、結果だけだった。
重ならなかった三百年が、机の上で、紙の上で、少しずつ重なっていった。
やがてルアリは、几帳面な手つきで反故の皺を伸ばし、自分の帳面に、そっと挟んだ。
「……これは、北で預かります」
「ぜひ」
父は、短く言った。
翌日の夕方、ルアリはソルカを、崖の上へ呼んだ。
海は凪いで、傾いた日が、洞窟のあった崖を金色に染めていた。
「ソルカ姫」
「姫ではな……もう、いいわ。何」
「返事を、します」
ルアリは、まっすぐに立っていた。
目の下の影は、まだ消えていない。それでも、初めて会った日の、覗き込めば落ちてしまいそうな暗さは、そこになかった。
「私は、あなたの隣で、自分の名を持って生きる時間が欲しい」
彼は、そう言った。
言ってから、持っていた帳面を開き、書きつけながら、声に出した。
「――ルアリ、ソルカ・マクラウドの求婚を受ける」
筆を止め、彼は眉を寄せた。
「……正確には、ルアリ、ソルカ・マクラウドとの婚姻に同意する、では」
「そこは情緒を優先して」
「難しいですね」
「練習よ」
ソルカは、笑った。
ルアリも、かすかに笑った。
三百年、災いばかりを数えてきた帳面の上で、初めてのよい報せが、ゆっくりとインクを乾かしていた。




