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剣の姫君と封印守の魔法使い  作者: 如月アトリ


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10/11

九 二つの記録

 求婚の返事は待つことにして、その翌々日、ソルカは馬で山を越えた。

 峠の宿場に着いたのは、約束の十日を三日過ぎた日だった。

 従僕は、まだそこにいた。

 宿の前の石段に座り、北の山を見上げていた男は、ソルカの姿を見つけると、立ち上がる前に顔を覆った。

「命令違反よ」

「罰は、王都に帰ってから受けます」

 泣いたのは今度も従僕で、ソルカは今度も泣かなかった。

 代わりに、彼女は初めて、深く頭を下げた。

「待っていてくれて、ありがとう」

 従僕には、父への手紙を託した。

 生きていること。竜を倒したこと。北で見つけたものについて、話さなければならないこと。そして――蔵の一番古い文箱を持って、父自身の足で、北へ来てほしいこと。

 従僕は手紙を胸に抱え、南へ発った。


 父が来たのは、夏の終わりだった。

 山越えで一回り痩せた父は、それでも杖をつかず、自分の足で丘を上がってきた。荷馬の背には、古びた文箱が二つ、括りつけられていた。

 崖上の家の前で、父とルアリは向かい合った。

 南のマクラウド家当主と、家名のない北の青年。

 父は、名乗りのあと、何も言わずに腰を折った。

 深い、長い礼だった。

「三百年、遅れました」

 ルアリは、その頭を見下ろして、静かに言った。

「私は、初代のルアリではありません」

「承知しています」

「あなたは、初代の兄ではない」

「はい」

「では――謝罪は、記録に残します」

 ルアリは本当にその場で帳面を開き、日付と、南のマクラウド家当主、北へ至り謝罪す、と書いた。

 父は頭を上げ、その几帳面な文字を、黙って見ていた。

 それから、少しだけ笑った。

「娘から聞いていた通りの方だ」

「悪口ですね」

「半分は」

 その言葉に、ソルカは少し得意げに笑ってみせた。

 父は娘を見て、困ったように、小さく微笑んだ。


 その夜、崖上の家の机に、北の帳面と、南の文箱が並んだ。

 三百年分の記録の照合が始まった。

 南の文箱には、初代の兄の代の綴りが残っていた。

 出納の帳に、記載がある。

 ――北への使者。路銀、馬二頭。

 同じ記載が、年を変えて、三度。

 二度は「道を失い、引き返す」。一度は「戻らず」。

 古道崩落の報せの写しがあった。戦時の徴用の記録があった。辺境の乱、家督の争い、守るべき土地の増加――北へ発てない年が、几帳面な文字で積まれていた。

 そして、剣の手入れの記録があった。

 年に一度、研ぎ師の名と、支払い。

 兄の最晩年まで、それは途切れていなかった。

 剣は、いつでも発てるように、研がれ続けていた。


 ルアリは、北の帳面を開いた。

「――三十年目、南への使者、戻らず。うちの記録では、そうなっています」

 彼は、南の綴りの「戻らず」の行に、指を置いた。

 互いに、出していた。

 互いに、届かなかった。

 ただ、それだけだった。

 文箱の底から、父が、反故の束を出した。

 同じ文句を、何度も書き直した紙だった。

 一番古い一枚には、こうあった。

 ――我が使命は、北の大地に眠っている。いつの日か、剣を携え、迎えに行く。

 「我が」は「我らが」に直されていた。

 「迎えに行く」は線で消され、「これを果たせ」に変わっていた。

 ルアリは、長いあいだ、その紙を見ていた。

 北の帳面には、ある年まで、ただ「兄」とあった。

 南の綴りには、初代マクラウド卿とあった。

 兄の本当の名は、どちらにも残っていなかった。

 誰も呼ばなくなった名は、記録にも残らない。

 残ったのは、北のルアリという名と、南のマクラウドという家名だけだった。

 誰か一人の罪にするには、三百年は長すぎた。

 残っているのは、記録と、結果だけだった。

 重ならなかった三百年が、机の上で、紙の上で、少しずつ重なっていった。

 やがてルアリは、几帳面な手つきで反故の皺を伸ばし、自分の帳面に、そっと挟んだ。

「……これは、北で預かります」

「ぜひ」

 父は、短く言った。


 翌日の夕方、ルアリはソルカを、崖の上へ呼んだ。

 海は凪いで、傾いた日が、洞窟のあった崖を金色に染めていた。

「ソルカ姫」

「姫ではな……もう、いいわ。何」

「返事を、します」

 ルアリは、まっすぐに立っていた。

 目の下の影は、まだ消えていない。それでも、初めて会った日の、覗き込めば落ちてしまいそうな暗さは、そこになかった。

「私は、あなたの隣で、自分の名を持って生きる時間が欲しい」

 彼は、そう言った。

 言ってから、持っていた帳面を開き、書きつけながら、声に出した。

「――ルアリ、ソルカ・マクラウドの求婚を受ける」

 筆を止め、彼は眉を寄せた。

「……正確には、ルアリ、ソルカ・マクラウドとの婚姻に同意する、では」

「そこは情緒を優先して」

「難しいですね」

「練習よ」

 ソルカは、笑った。

 ルアリも、かすかに笑った。

 三百年、災いばかりを数えてきた帳面の上で、初めてのよい報せが、ゆっくりとインクを乾かしていた。

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