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第33話 猫ど真ん中

 何も起きない夜ほど、距離だけが気になる。


 その日の夜は、ほんとうに何もなかった。


 仕事は平和だったし、まるさんの方も、昼間はちゃんと起きていて、洗濯物を取り込んで、夕方には一緒に簡単なごはんを食べた。エルちゃんも特に問題を起こさず、窓辺とソファを行ったり来たりして、王様としての一日をまっとうしていた。


 平和だ。

 平和なんだけど、だからこそ余計なことを考える。


 食後、俺たちはソファの左右に座っていた。

 真ん中には当然のようにエルちゃんがいて、テレビには内容の薄いバラエティが流れている。


 笑えるところはあったはずなのに、俺は半分くらいしか頭に入っていなかった。


 横にいるまるさんも、たぶん似たようなものだったと思う。


 最近の俺たちは、また普通に話せるようになっていた。

 喧嘩のあとの変な沈黙も、気まずさも、前よりずっと薄くなっている。


 でも、その「前より」が、どの前を指しているのかが少しややこしい。


 あの夜、倒れかけたまるさんを抱きとめた。

 必要なことだったし、今でもそう思う。

 でも、その一瞬だけ腕の中にあった重さとか、服越しの体温とか、そういうものは案外ちゃんと残る。


 残るくせに、わざわざ口に出すほどのものでもない。


 だからたぶん、二人して少しだけ距離を測っている。


 マグカップを渡すとき、前より指先が触れないようにしているとか。

 ソファで座る位置が、ほんの数センチ広くなっているとか。

 そういう、言うほどじゃないけど確かにある違い。


「たつくん」

 と、まるさんが言った。


「ん?」

「今日、全然テレビ見てないね」

「おまえもだろ」

「ばれた?」

「顔で分かる」

「やだなあ」


 そう言って笑う。

 その笑い方は、もうちゃんと家の中のものだ。


 でもそこから先、二人ともまた画面には戻らない。


 エルちゃんだけが、真ん中で満足そうに喉を鳴らしていた。


「おまえは平和でいいな」

 と、俺が言う。


「にゃ」

「返事だけは立派」

「王様だからねえ」

 と、まるさんが言う。


 テレビが一本終わるころ、エルちゃんは先に寝室へ向かった。

 のそのそ歩いていって、振り返りもしない。

 自分の寝床へ戻る王の足取りだった。


「行ったね」

「行ったな」

「今日はど真ん中空いてる時間あるかな」

「どうだろ」

「最近、先にいないと変な感じする」

「……分かる」


 そこで、少しだけ目が合う。

 でもどっちもすぐに逸らした。


 そういう感じだった。


 寝る支度をして、部屋の明かりをひとつずつ落として、最後に寝室へ入る。

 新しく替えたシーツはまだ少しだけ張りが残っていて、足を乗せるとひんやりした。


 ベッドの上を見る。


 エルちゃんはいなかった。


「……珍しい」

 と、俺が言う。


「ほんとだ」

 と、まるさんも言う。


 ベッドのど真ん中が、きれいに空いている。

 それだけで、妙に広く見える。


 いや、実際広いはずなんだ。

 もともと二人で寝ることを想定して買ったサイズなんだから。

 でも、普段そこに猫がいるせいで、空白の方が不自然だった。


「どうする?」

 と、まるさんが聞く。


「どうするって」

「位置」


 その問いが、思っていたより困る。


 いつもなら、考えるまでもない。

 エルちゃんが真ん中を取って、俺とまるさんが左右に寄る。それで完成だ。


 でも今夜は、その完成形がまだない。


「……いつも通りでいいだろ」

 と、俺は言う。


「いつも通りって、猫がいないじゃん」

「そのうち来るかも」

「来なかったら?」

「……」


 その質問にすぐ答えられないのが、だいぶよくなかった。


 まるさんは少しだけ笑って、

「困ってるね」

と言った。


「おまえもだろ」

「うん。ちょっと」


 その“ちょっと”が、妙に正直だった。


 結局、俺は壁側に入って、まるさんは反対側に入った。

 でも、どっちもいつもより少しだけ端に寄っている。

 真ん中が空いているのに、そこを埋める気がないみたいな寝方だった。


「広いね」

 と、まるさんが言う。


「そうか?」

「広いよ」

「猫一匹分」

「思ってたより大きいねえ」

「存在感がな」


 暗い部屋の中で、その会話だけが少し浮く。


 手を伸ばせば、たぶん届く距離ではある。

 でも、今日はその“たぶん”を試す気になれない。


 前より近づきたい気もするし、今のままでいたい気もする。

 それが両方あるから、余計に厄介だった。


 まるさんが、布団の上でもぞっと少し動く。

 俺もつられて、寝返りまではいかない程度に体勢を変える。


 そのとき、シーツの上で指先が少しだけ近づいた気がした。

 気がしただけで、触れてはいない。

 でも、たぶんどっちもそれには気づいていた。


「……」

「……」


 何か言えばよかったのかもしれない。

 でも、何を言っても少し違う気がした。


 その沈黙を破ったのは、やっぱりエルちゃんだった。


 ベッドの足元から、ぬっと影が現れる。

 暗闇の中でも分かる、ためらいのない動き。


「来た」

 と、まるさんが小さく言う。


「来たな」


 エルちゃんは当然のようにベッドに飛び乗ると、そのまま迷いなく真ん中まで歩いた。

 空いていた場所へ、まるで最初からそう決まっていたみたいに収まる。


 くるりと一回向きを変えて、前足をそろえる。

 それから、ゆっくり丸くなる。


「……」

「……」


 数秒のあと、まるさんがふっと笑った。


「助かった」

「なにが」

「いろいろ」

「分かる」


 俺も、思っていたよりすんなりそう言えた。


 エルちゃんが真ん中に来た瞬間、ベッドの形が元に戻る。

 俺たちは左右へ寄る。

 近づきすぎなくて済む。

 でも、同じベッドの上にはちゃんといる。


 その配置が、今の俺たちにはたぶんちょうどよかった。


「ずるいねえ、エルちゃん」

 と、まるさんが言う。

「全部分かってるみたい」

「分かってないだろ」

「でもタイミング完璧」

「それはそう」


 エルちゃんは人間の会話なんか気にせず、喉を鳴らし始める。

 ど真ん中に戻れて満足しているだけだろう。

 でも、その無自覚さに救われている自分たちがいるのも事実だった。


「最近」

 と、まるさんが言った。


「うん」

「ちょっと、変だよね」

「なにが」

「距離」


 暗いから、顔はよく見えない。

 その方がたぶん話しやすい。


「……まあ」

 と、俺は答える。


「前より意識してるっていうか」

「うん」

「意識したくないわけじゃないんだけど」

「うん」

「でも、しすぎるのも違うっていうか」


 その言い方は、妙にしっくりきた。


「分かる」

 と、俺は言う。

「近づきたいのに、近づいたら今の形が壊れそうで」

「……うん」

「だから、測ってる感じ」

「そう、それ」


 まるさんの声が少しだけやわらかくなる。


「なんかさ」

 と、続ける。

「エルちゃんが真ん中にいると、逃げ道あるじゃん」

「逃げ道?」

「近づきすぎなくて済むし」

「うん」

「でも、同じベッドにはいられる」


 その理屈は、たぶんこの生活の核心だった。


 猫がいるから、近いようで近くない。

 でも、猫がいるから、同じ場所にい続けられる。


 矛盾してるのに、成立している。


「便利だな」

 と、俺は言った。


「便利だねえ」

 と、まるさんも言う。


 エルちゃんは真ん中で、小さく寝息みたいな音を立て始めていた。

 完全に安心している。


 それを聞いていると、こっちの呼吸まで少し落ち着いてくる。


「たつくん」

「ん?」

「今のままでも、たぶんいいんだと思う」

「……」

「ちゃんと、ちょっとずつ変わってるし」

「うん」

「でも、無理に決めなくてもいいっていうか」


 その言葉に、俺はすぐには返事をしなかった。


 たぶん、そうなんだろうと思う。

 何かをはっきりさせるより先に、もう少しこの曖昧さの中にいたい気持ちがある。

 それは臆病なのかもしれないし、ただの現状維持かもしれない。

 でも、今の俺にはたぶん、それがいちばん正直だった。


「うん」

 と、少ししてから答える。

「俺も、今はそれでいい」


 まるさんは何も言わなかった。

 でも、暗闇の向こうで小さく笑った気配がした。


 そのあと、部屋は静かになった。


 外の音も少ない。

 エルちゃんの喉の音だけが、真ん中でかすかに続いている。


 手を伸ばせば届く距離に、まるさんはいる。

 でもその間には、ちゃんと一匹分のぬくさがある。


 それがたぶん、今の俺たちには必要なんだろう。


 近づきたいとも思う。

 このままでいたいとも思う。

 その矛盾を、説明もせずに成立させてくれるのが、この真ん中の猫だった。


「おやすみ」

 と、まるさんが小さく言う。


「おやすみ」

 と、俺も返す。


 エルちゃんは返事をしない。

 でも、ど真ん中で満足そうに眠っている。


 それで十分だった。


 たぶんこの家は、こうやって続いていく。

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