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第34話 少し前進

 回復って、外から見ると分かりづらい。


 昨日より少し食べられたとか。

 朝に一回ちゃんと起きたとか。

 洗濯物を畳んだあとで、そのまま寝込まなかったとか。


 そういう小さい変化は、本人にも見えづらいし、周りからも「たまたま」で片づけられやすい。

 でも生活って、たぶんそういう単位でしか前に進まない。


 その日の昼、まるさんは珍しく自分から言った。


「出ようかな」


 俺はノートPCから顔を上げる。

 ちょうど仕事が一区切りついたところだった。


「どこに」

「スーパー」

「急だな」

「急にキャベツが減ってることに気づいた」

「この前いっぱい買っただろ」

「王様が見張ってる間に食べた」


 その言い方で、思わず少し笑う。


 エルちゃんはちょうど窓辺でニャルソック中だった。

 自分の話題だと気づいたのか、耳だけが少し動く。


「ほんとに出られそう?」

 と、俺は聞く。


 まるさんは少しだけ考えてから、

「……うん、たぶん」

と答えた。


 “たぶん”はまだつく。

 でも、それでも前よりいいと思う。


 ここ最近のまるさんは、出るか出ないかより前に、考えること自体を止めていた感じがあった。

 だから、「出ようかな」が口から出た時点で、だいぶ違う。


「ついでに猫砂も見たい」

「残量あるだろ」

「あるけど、在庫の不安を消したい」

「中央政権会議の名残だな」

「ちゃんと機能してるってことです」


 そう言って笑う顔は、だいぶ自然だった。


 結局、俺も一緒に行くことになった。

 最初は「ひとりで大丈夫」とまるさんは言ったけど、じゃあ俺もついでに飲み物見るから、と言ったら、それ以上は強く断らなかった。


 午後のスーパーは、平日にしては少し人が多かった。

 といっても混んでいるほどではない。

 買い物カゴを提げた年配の人や、保育園帰りらしい親子がいるくらいだ。


 店内の空調は少し冷たい。

 入った瞬間、まるさんの肩がわずかに上がったのが見えた。


「だいじょぶ?」

 と、俺は小さく聞く。


「うん」

「無理そうならすぐ出るぞ」

「うん」


 返事は短い。

 でも足は止まっていない。


 野菜売り場へ向かう。

 キャベツ、玉ねぎ、もやし、豆腐。買うものはだいぶ生活感の強いものばかりだ。


「なんか」

 と、まるさんが言う。

「スーパーって、すごいね」

「急にどうした」

「世界が普通すぎる」

「はあ」

「みんな、普通に今日のごはん買ってる」

「まあ、そういう場所だし」


 その言葉は、ちょっと分かる気がした。


 しんどいときほど、自分の頭の中の重さと、外の世界の普通さの差が変に浮く。

 でも、その普通の中に少しずつ戻っていくのも、また回復なんだろう。


「豆腐どうする?」

 と、俺は聞く。


「木綿」

「珍しいな」

「今日はしっかりしたやつの気分」

「なんだそれ」


 まるさんが少し笑う。

 カゴに豆腐を入れる手つきも、もうそんなに重くない。


 猫用品コーナーに移動すると、エルちゃんの新しいおもちゃが目に入った。

 羽根のついた棒、ボール、トンネル、妙に顔のついたぬいぐるみ。


「これいらない?」

 と、まるさんが言う。


「どれ」

「この魚」

「絶妙に気持ち悪いな」

「かわいくない?」

「いや」

「エルちゃん好きそう」

「噛みごたえで選ぶな」


 そのまま二人で、猫のおもちゃの前で妙に真剣になる。


「こっちのボールの方がよくない?」

 と、俺が言う。


「でも、前も似たの買って三日で飽きた」

「じゃあトンネル」

「場所取る」

「魚は?」

「見た目が嫌」

「さっき推してただろ」

「ちょっと冷静になった」


 気づいたら、かなりいつもの会話になっていた。


 重い話をしていない。

 でも、そういう会話を普通にできること自体が、たぶん前進なんだと思う。


 結局、シンプルなフェルトのボールを二個買うことにした。

 色は地味だけど、転がり方がよさそうだし、最悪すぐ飽きてもそこまでダメージがない。


「現実担当が出た」

 と、まるさんが言う。


「無難で強い」

「夢がない」

「おまえの魚は悪夢だろ」

「そこまで言う?」


 レジに並ぶ。

 待ち時間は短い。

 前にいるのはお菓子を大量に買った大学生っぽい二人組だけだ。


 その間、まるさんはカゴの中をぼんやり見ていた。

 でも、さっきまでみたいな遠い目ではない。

 どちらかといえば、「今夜何作ろうかな」に近い顔だった。


「たつくん」

「ん?」

「来てよかった」

「スーパーが?」

「うん」

「珍しい感想だな」

「でも、ちゃんと買い物できた」

「うん」

「それだけで、ちょっと自信出る」

「……そっか」


 そういうものかと思う。


 たとえば昨日までなら、店に出るか出ないか、休むか休まないか、そういう大きい単位でしか物事を見られなかったかもしれない。

 でも、今日はキャベツと豆腐と猫砂を買えた。

 それだけで十分、前に進んでいる。


 帰り道、スーパーの袋を二人で分けて持つ。

 夕方の空気は少しぬるくて、街はだいぶ普通だった。


「夜ごはん、何にする?」

 と、俺は聞く。


「豆腐あるし、鍋っぽいの」

「ざっくりしてるな」

「でも今日、野菜切れる気がする」

「それは大事」

「でしょ」


 その返事が、妙にうれしそうだった。


 家に戻ると、エルちゃんがいつものように玄関まで出迎えた。

 最近の王様は監視役も兼ねているので、帰宅チェックに余念がない。


「ただいま」

 と、まるさんが言う。


「にゃ」

「今日はちゃんと帰ってきたよ」

「にゃ」

「返事えらいな」


 袋をキッチンに置く。

 まるさんがフェルトボールの袋を開けると、エルちゃんはすぐ反応した。

 ぬっと近づいてきて、鼻先でつつく。


「ほら、やっぱり好きそう」

 と、まるさんが言う。


「まだ分からん」

 と、俺が言う。


 次の瞬間、まるさんが床に転がしたボールを追って、エルちゃんが本気の速度で走った。


「……」

「……」


 一拍置いて、二人で吹き出す。


「すご」

「めっちゃ好きじゃん」

「判断が早い」

「魚じゃなくてよかったね」

「そこは認める」


 エルちゃんはボールを追いかけて、ソファの下へ。

 そこからまた出てきて、今度はカーテンの向こうへ。

 完全に当たりを引いた顔だった。


 その騒ぎを見ながら、まるさんが笑う。

 今日は何度も笑っている。

 しかも、そのどれもがちゃんと軽い。


「少し前進」

 と、まるさんが言った。


「なにが」

「私も」

「……」

「エルちゃんも」

「それは前進っていうか、暴走」

「でも元気」


 たしかに、と思う。


 問題が全部片づいたわけじゃない。

 これで急に元通りになるわけでもない。

 でも、スーパーへ行って、豆腐を選んで、猫のおもちゃで揉めて、帰ってきて笑っている。


 それはもう、十分に前進なんだと思う。


「夜ごはん、鍋っぽいやつだっけ」

 と、俺は聞く。


「うん」

「工程表いる?」

「いらない」

「即答か」

「でも、たつくんは切る係」

「現実担当だからな」

「便利だねえ」


 まるさんはそう言って、またエルちゃんにボールを転がした。


 家の中を走る猫。

 野菜の入った袋。

 これから作るざっくりした夕飯。

 その全部が、今日は妙にちゃんとして見えた。


 ゆっくりでいい。

 でも、前には進んでいる。


 たぶんそういう実感の方が、今の俺たちには必要だった。

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