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第32話 たつ料理

 料理は、たぶん性格が出る。


 慣れている人がやると、冷蔵庫を開けて、なんとなく材料を出して、なんとなく切って、なんとなく火を入れて、気づいたら食べられるものになっている。


 俺には、それができない。


 やるなら順番がほしい。

 工程がほしい。

 できれば所要時間も知りたい。


 だからその日の夕方、キッチンのカウンターにメモ用紙を並べている俺を見て、まるさんが最初に言ったのはこうだった。


「なにそれ」

「準備」

「見れば分かる」

「料理の」

「それも見れば分かる」

「工程表」

「工程表?」


 ソファから起き上がったまるさんが、半分呆れた顔で近づいてくる。

 まだ部屋着のままだけど、昨日より顔色はだいぶましだった。休職二日目。劇的に回復したわけじゃないけど、少なくとも座っているだけで消耗する感じは少し薄れている。


「今日、俺が作る」

 と、俺は言った。


「急にどうしたの」

「昨日、おまえ昼ちゃんと食えたし」

「うん」

「今日も何かちゃんと食った方がいいだろ」

「それはそう」

「だから作る」

「そこまではいいとして」

 と、まるさんはメモを覗き込む。

「なんで表になってるの」


 俺はカウンターの上の紙を見た。


 17:40 米研ぎ

 17:45 味噌汁着手

 17:52 野菜カット完了

 17:58 主菜加熱開始

 18:10 盛り付け


「見通しが必要だから」

「仕事じゃん」

「家でも大事だろ」

「いや、気持ちは分かるけど」

「分かるんだ」

「たつくんの気持ちはね」

「ならいいだろ」

「でも、しょうが焼きをここまでプロジェクト管理する人、初めて見た」


 そこを突かれて、少しだけ黙る。


 そう、今日の献立はしょうが焼きだった。

 理由は簡単で、ごはんに合うし、失敗しづらそうだし、まるさんもたぶん食べられる気がしたからだ。


「味噌汁も作るの?」

「作る」

「すご」

「あとキャベツ」

「ちゃんとしてる」

「そういう日だからな」

「どんな日だよ」


 まるさんはそこで、ちゃんと声を立てて笑った。

 この数日で、その笑い方が戻ってきたのがいちばん分かりやすい変化かもしれない。


 足元では、エルちゃんがすでに何か始まる気配を察知していた。

 キッチンの入り口に座って、こっちをじっと見ている。


「おまえのごはんではない」

「にゃ」

「その顔やめろ」

「期待値が高いねえ」

「肉の気配に敏感なんだよ」


 俺は冷蔵庫から材料を出して、カウンターに並べた。

 豚肉、玉ねぎ、キャベツ、味噌汁用の豆腐とわかめ。ここまではよかった。


 問題は、そのあとだった。


「まず、米を炊く」

 と、俺は自分で確認みたいに言う。


「うん」

「味噌汁の出汁を準備」

「うん」

「同時並行で玉ねぎを切る」

「うん」

「肉は下味を」

「うん」

「……」

「なんで止まるの」

「キャベツのタイミングが想定より早い」


 まるさんが、腹を押さえて笑い出した。


「想定って何」

「いや、だって」

「キャベツだよ?」

「でも千切りの所要時間が」

「たつくん」

「ん?」

「料理って、そこまで会議しなくていいんだよ」

「中央政権会議の否定?」

「議長がかわいそうだからやめて」


 エルちゃんがその名前に反応したのか、キッチンの入り口から一歩だけ中へ入ってきた。

 完全に自分の会議だと思っている顔だった。


「だめ」

 と、俺は言う。

「今日は危ないから入るな」

「にゃ」

「肉が出てる」

「それは危ないね」

「おまえ、止めろよ」

「私は見守り担当だから」


 役職が増えている。


 それでも、まるさんはソファに戻らなかった。

 キッチンの横に立って、俺の手元を見ている。


「玉ねぎ、貸して」

「え」

「そこ、私切る」

「いや、休んでろ」

「休職してるだけで、包丁禁止になったわけじゃないから」

「でも」

「たつくん、キャベツの進行に困ってるでしょ」

「言い方」


 でも、その通りだった。


 俺は少しだけ迷ってから、包丁を渡す。

 まるさんは受け取ると、まな板の前に立って、迷いなく玉ねぎを半分に切った。


「早」

「料理ってそういうもん」

「工程表いらない?」

「ゼロではないけど、もっと雑でいい」

「雑な料理、不安じゃない?」

「今日のたつくん、仕事炎上したときみたいな顔してるよ」

「それは言いすぎ」

「じゃあ、在宅会議に猫が乱入した時の顔」

「余計ひどいな」


 まるさんは笑いながら玉ねぎを切る。

 手つきは軽い。

 でも雑ではない。

 見ていると、ああ、この人はずっとこうやって生活を回してきたんだなと思う。


 俺が横でキャベツを切り始める。

 包丁の音が二人分になる。

 そのあいだ、エルちゃんはキッチンの入り口でじりじり前進していた。


「おい」

「にゃ」

「一歩ずつ来るな」

「作戦だね」

「王様、正面突破じゃなくなった」

「成長した」


 米を炊飯器にセットして、味噌汁の鍋を火にかける。

 豚肉に下味をつける。

 そこまでは順調だった。


 問題は、フライパンを温め始めた瞬間に起きた。


 つるん、とした影が、俺の足元をすり抜ける。


「うわ」

「エル!」


 見れば、いつの間にかエルちゃんがキッチンの内側まで侵入していて、まな板の上の肉をものすごく真剣に見上げていた。


「だめだって」

「にゃー!」

「主張が強い」

「今日は防御担当休みか?」

「肉担当になってる」


 俺が抱き上げようとすると、エルちゃんはぎりぎりで身をひねって逃げる。

 そして今度は、まるさんの足元へ避難した。


「ずるい」

「保護対象です」

「そっち行くな」

「たつくん、フライパン見て」

「うわ、やば」


 慌てて火を弱める。

 その隙に、まるさんがエルちゃんをさっと抱き上げた。


「はい、王様は退場」

「にゃ」

「肉は人間用」

「にゃー」

「抗議してる」

「当然だろ」


 まるさんはそのまま、エルちゃんを一度ソファに置きに行く。

 戻ってきたときには、もう肩を揺らして笑っていた。


「たつくん」

「ん?」

「ほんとに工程表、貼っとく?」

「笑いながら言うな」

「でも、ちょっと見たい」

「やだよ」


 それでもキッチンの空気は、さっきよりずっと軽くなっていた。


 俺はしょうが焼きの肉を焼く。

 まるさんは横で味噌汁の火加減を見て、キャベツを皿に盛る。

 言葉を交わしながら、でもそれぞれが今やることを勝手に拾っていく。


「味噌、先に溶くよ」

「うん」

「たつくん、そこ焦げる」

「え、どこ」

「右」

「ほんとだ」

「だから工程表じゃなくてフライパン見て」


 なんかもう、ほとんど負けている気がする。

 でも、その負け方は悪くなかった。


 料理してるというより、生活にちゃんと戻ってきている感じがする。


 しょうが焼きの匂いが部屋に広がる。

 味噌汁の湯気が立つ。

 炊飯器がちょうどいいタイミングで鳴った。


「……できた」

 と、俺が言う。


「ほんとにできたね」

 と、まるさんが言う。

「すごいじゃん」

「誰が主担当だと思ってる」

「構造担当?」

「便利だな、その肩書き」


 テーブルに並べる。

 ごはん、味噌汁、しょうが焼き、キャベツ。

 特別なものじゃない。

 でも、その普通さが今日はちょうどよかった。


 ソファではなく、ちゃんとテーブルに向かって座る。

 エルちゃんは少し不満そうに、でも手の届かない位置からこちらを見ている。


「いただきます」

「いただきます」


 まるさんは最初の一口を、少しだけ慎重に食べた。


 噛む。

 飲み込む。

 それから、少し目を丸くする。


「おいしい」

「まじで」

「うん」

「気を遣ってない?」

「今日はそこまでの元気ない」

「正直だな」


 でも、そのあと二口目もちゃんと食べた。

 三口目も。

 味噌汁も飲んだ。


 それを見ているだけで、妙に安心する。


「……よかった」

 と、俺は言う。


「なにが」

「食べてる」

「それでそんな顔する?」

「するだろ」

「過保護」


 そう言いながら、まるさんはまたごはんを口に運ぶ。

 その動作がちゃんと続いていること自体が、今日はもうかなり大きかった。


「たつくん」

「ん?」

「料理、またやっていいよ」

「上からだな」

「許可を出しています」

「中央政権会議に通すぞ」

「議長が肉派だから可決だよ」


 ちょうどそのタイミングで、エルちゃんが強めに鳴いた。


「にゃー!」

「ほら」

「自分の話題だと分かるんだな」

「賢いねえ」

「ずる賢いだけだろ」


 食事が終わる頃には、皿は思っていたよりちゃんと空になっていた。

 まるさんの分も、ほとんど残っていない。


「全部食べた」

 と、俺が言う。


「食べたね」

「えらい」

「なんで褒められてるの」

「今日は褒める日だから」

「便利だな、それ」


 食後、俺が皿を下げようとすると、まるさんが先に立ち上がった。


「洗う」

「いいよ」

「今日は手伝ったし」

「途中からほぼ乗っ取ってたろ」

「共同制作です」

「言い方がずるい」


 結局、二人でキッチンに立つ。

 俺が洗って、まるさんが拭く。

 さっきと同じで、気づいた方がやる形だ。


 そのあいだ、エルちゃんはキッチンの入り口で座り込んで、まだ何かもらえると思っている顔をしていた。


「おまえ、今日はがんばったけどだめ」

 と、まるさんが言う。


「肉に向かって一直線だっただけだろ」

 と、俺が言う。


「でも、空気はよくしたよね」

「それは認める」

「王様、えらい」

「にゃ」


 その返事が妙に偉そうで、二人とも吹き出す。


 笑いながら皿を拭いていると、なんだかようやく、ここ数話の重たさが少し薄くなった気がした。


 問題が全部なくなったわけじゃない。

 店のことも、仕事のことも、今後のことも、まだいろいろある。


 でも、今夜はちゃんと温かいものを作って、一緒に食べて、猫に盗られそうになって、それでも笑えた。

 その事実は、思っていたよりずっと効いた。


「たつくん」

 と、まるさんが言う。


「ん?」

「今日、ありがとう」

「うん」

「工程表も含めて」

「そこまで含めるな」

「でも、あれなかったら今日やる気出なかったかも」

「まじで?」

「準備してある感じが、ちょっと助かった」

「……そっか」


 それは、予想していなかった感想だった。


 構造っぽさは、ときどき鬱陶しがられる。

 でも今日は、それがよかったらしい。


「また必要なら作る」

「工程表?」

「飯」

「両方でお願いします」

「調子乗るな」


 エルちゃんがその会話の終わりに合わせるみたいに、大きく伸びをした。

 そして何事もなかったようにソファの真ん中へ戻っていく。


 今日はたぶん、あれでいい。


 料理は性格が出る。

 でも、それで食卓がちゃんと回るなら、少しくらい工程表っぽくても悪くないんだろう。


 少なくとも今夜は、そう思えた。

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