第31話 まる休職
昼の部屋にまるさんがいる、というのは、それだけで少し変だった。
もちろん、まったくないわけじゃない。
休みの日もあるし、体調が悪くて寝ている日だってある。
でも、平日の昼に、ちゃんと起きた状態でソファに座っているのを見ると、部屋の輪郭そのものが少し変わる。
その日、俺は朝から仕事用の画面を開いていた。
監視は平和。
チャットも静か。
そういう意味では、よくある平日だ。
違うのは、寝室のドアが昼前に開いたことだった。
しかも、ゆっくりじゃない。
妙にきっぱりした動きだった。
振り向くと、まるさんが立っていた。
部屋着のままだけど、もう完全に起きている顔だ。
寝起き特有のぼんやりがない。
「……早いな」
と、俺は言う。
「うん」
と、まるさんは答える。
「今日、店と話した」
その一言で、ああ、そういう日かと思う。
俺はノートPCの画面を半分閉じる。
まるさんはソファまで来て、座るというより、静かに腰を落とした。
「どうだった」
と、聞く。
まるさんは少しだけ息を吐いてから、
「しばらく休むことになった」
と答えた。
休む、という言い方だった。
辞めるでもなく、飛ぶでもなく、逃げるでもなく。
「……そっか」
「うん」
「シフト全部?」
「とりあえず今週と、来週ちょっと」
「そうか」
そこで俺は、それ以上すぐには何も言わなかった。
よかったな、とも。
大丈夫か、とも。
どっちも今は少し違う気がした。
まるさんも、そこに何か反応を求めている顔じゃない。
ただ、決まったことを口にしただけ、という感じだった。
「先輩がだいぶ強く言ってくれた」
と、少ししてから言う。
「店長だけだとたぶん、もっと曖昧だった」
「……だろうな」
「“今休ませないなら私もシフト考えます”って」
「強」
「強かった」
まるさんはそこで、少しだけ笑った。
でも、ほっとした笑い方ではない。
「ありがたいけど」
と、続ける。
「急に昼の人になった感じで、ちょっと変」
それは、たしかにそうだろうと思う。
昼のこの部屋は、基本的に俺の時間でできている。
仕事用の画面が開いていて、キーボードの音がして、エルちゃんは窓辺にいて、まるさんはまだ寝ている。
そういう形がずっと続いていた。
そこに、起きたまるさんがいる。
変じゃないわけがない。
「コーヒー飲む?」
と、俺は聞く。
「飲む」
「砂糖」
「今日は入れる」
「了解」
立ち上がってキッチンへ向かう。
いつも通りの動きだけど、いつもと違う気分だった。
コーヒーを淹れて戻ると、まるさんはソファの端に座ったまま、手を膝の上に置いていた。
何かするでもなく、テレビを見るでもなく、スマホをいじるでもなく、ただ座っている。
昼の居場所がまだ定まっていない人の姿だった。
「はい」
「ありがと」
マグカップを受け取る。
両手で持って、でもすぐには飲まない。
あったかさだけを受け取るみたいな持ち方だった。
「なんか」
と、まるさんが言う。
「役に立ってない感じする」
「なにが」
「今の私」
「いきなりそこ行く?」
「行くでしょ」
そう言って笑うけど、その笑い方は軽くない。
「平日の昼に起きててさ」
「うん」
「たつくんが仕事してて」
「うん」
「私だけ、何もしてない感じ」
それは、分かる気がした。
いや、完全には分からないけど、少なくともその居心地の悪さは想像できる。
仕事をしていないことより、時間の使い方が噛み合わなくなることの方が、たぶん気になるんだろう。
この部屋の中で、自分だけ本来の位置からずれている感じ。
「洗濯、たたむ?」
と、俺は言った。
まるさんが少しだけ顔を上げる。
「……急に実務」
「励ました方がよかったか?」
「いや」
「役に立ってない感じするなら、家事でもやればいいだろ」
「雑だなあ」
「でも現実的」
「そうだねえ」
その返しで、少しだけ空気がほどける。
「たつくん」
「ん?」
「そういうとこ、助かるときある」
「褒めてる?」
「今日は褒めてる」
俺は肩をすくめて、洗濯かごを引き寄せた。
昨日取り込んだままのタオルとシャツが山になっている。
「はい、仕事」
「了解」
まるさんはマグを置いて、かごの前に座る。
たたみ方は雑じゃない。
むしろちゃんとしてる。
ちゃんとしすぎているくらいだ。
でも、その手つきが何かを取り戻すみたいで、少しだけ安心する。
俺は仕事に戻る。
キーボードを打つ音。
隣で洗濯物をたたむ音。
窓辺ではエルちゃんが外を見ている。
妙な光景だけど、思っていたより悪くない。
昼過ぎ、俺が一区切りついたところで、まるさんは洗濯物をきれいに積み上げ終わっていた。
「早」
「私を誰だと思ってるの」
「急に家事レベル高い人」
「夜職なめないで」
「関係ある?」
「段取り力です」
そこに、エルちゃんがぬっと現れた。
さっきまで窓辺にいたのに、今度はソファの前で立ち止まって、まるさんを見る。
そして、短く鳴いた。
「にゃ」
「なに」
と、まるさんが言う。
エルちゃんはもう一回鳴く。
それから窓辺の方へ歩いて、途中で止まり、また振り返る。
「……呼んでる?」
と、俺が言う。
「昼のニャルソック?」
と、まるさんが言う。
「新任警備員か」
「研修かな」
エルちゃんは待ちきれないらしく、また鳴いた。
「行ってこいよ」
と、俺は言う。
「命令される筋合いないんだけど」
「議長からの辞令だろ」
「便利だな、それ」
でもまるさんは立ち上がって、窓辺まで行った。
エルちゃんは満足そうにその横へ座る。
二人で窓の外を見る。
向かいの建物の壁と、電線と、遠くの空くらいしか見えない、いつもの景色だ。
「今日、鳩いないね」
と、まるさんが言う。
「にゃ」
「静かだねえ」
「にゃ」
会話が成立しているのかしていないのか分からない。
でも、そこに立っているまるさんの背中は、さっきより少しだけ落ち着いて見えた。
“何もしていない人”じゃなく、“昼の警備をしている人”みたいな顔になっている。
「どう?」
と、俺が聞く。
「暇」
と、まるさんが即答する。
「だろうな」
「でも、ちょっといいかも」
「そうか」
「エルちゃん、ほんと毎日これやってるんだね」
「重要任務だからな」
「王様なのに働き者」
「そこは矛盾しないらしい」
エルちゃんは外を見たまま、耳だけを少し動かした。
昼ごはんは、俺が簡単にうどんを作った。
まるさんに何食べたいか聞いたら「決める元気ない」と言うので、じゃあ消去法でこれだろ、という感じで決めた。
「はい」
「やさし」
「今はそういうのいいから食え」
「現実担当が強い」
「食えそう?」
「半分くらいは」
結局、半分以上食べた。
それだけで今日は十分だと思った。
午後になると、まるさんは少しだけ眠そうになった。
でも寝室へ戻るほどではなくて、ソファに座ったまま、ぼんやりテレビの番組表を見ている。
「寝れば」
と、俺は言う。
「ここでいい」
「首痛くなるぞ」
「昼の部屋に慣れる練習中なので」
「何の訓練だよ」
「休職のリハビリ」
その言い方は少しだけ軽くて、ちょっと安心する。
「たつくん」
「ん?」
「しばらくこういう感じなんだよね、たぶん」
「そうだろうな」
「迷惑?」
「なにが」
「昼にいるの」
「別に」
「ほんとに?」
「エルも歓迎してるし」
「ニャルソック補佐官だから?」
「そう」
まるさんはそこで、少しだけ笑った。
「じゃあ、しばらく補佐官やる」
「鳩来たら報告書な」
「いやです」
エルちゃんがそのタイミングでソファに戻ってきて、当然のように真ん中を取る。
左右に俺とまるさん。
昼なのに、夜みたいな配置だった。
外では何も大きく変わっていない。
店もあるし、仕事もあるし、厄介な客も急に消えたわけじゃない。
でも、生活の方は少しずつ新しい形に合わせ直していくしかないんだろう。
休職、という言葉は少し大げさに聞こえる。
でも実際にやっていることは、もっと地味だ。
昼に起きる。
コーヒーを飲む。
洗濯物をたたむ。
鳩のいない窓を眺める。
うどんを食べる。
眠くなったらソファでぼんやりする。
そういう小さい生活の積み直しが、たぶんいちばん大事なんだと思う。
「たつくん」
と、まるさんがもう一度言う。
「ん?」
「今日、ありがとう」
「なにが」
「変に励まさないでくれたの」
「励ましてほしかった?」
「今日はいらない」
「だろうな」
まるさんは小さく笑って、それからエルちゃんの背中に手を置いた。
「でも、洗濯たたむ?はちょうどよかった」
「それはよかった」
「家事って、便利だね」
「人間を現実に戻すからな」
「構造担当っぽいこと言う」
「褒めてるなら受け取る」
エルちゃんが真ん中で喉を鳴らす。
その音を聞きながら、俺はもう一度仕事の画面を開いた。
今日は何かが劇的によくなったわけじゃない。
でも、昼の部屋にまるさんがいて、そのこと自体が少しずつ変じゃなくなっていく。
たぶん回復って、そういう速度で進むんだろうと思う。
ゆっくりで、地味で、でも確実に、生活の方から整っていく。




