第27話 たつ探す
待つのが難しいとき、人はだいたい動きたくなる。
落ち着け、と自分に言っても無理だった。
朝から何度かスマホを見て、そのたびに既読のついていないメッセージを確認して、充電だけが減っていく。
まるさんはまだ帰ってこない。
連絡もない。
時計の針だけが妙にちゃんと進んでいるのが腹立たしかった。
エルちゃんは朝からほとんど玄関の近くを離れなかった。
フードは結局、昼近くになってから少しだけ食べた。
でも食べたあとも、窓辺に行って、玄関に戻って、また窓辺に行って、を繰り返している。
いつものニャルソックとは違う。
警備というより、待機だった。
「おまえ、それやっても帰ってくるの早まらないぞ」
と、俺は言ってみる。
エルちゃんは短く鳴いただけだった。
昼を過ぎたあたりで、俺はようやく立ち上がった。
「……だめだな」
待っているだけでは、たぶん余計に悪い方へ考える。
コンビニかもしれない。
川沿いかもしれない。
駅かもしれない。
前みたいに、ただ帰るタイミングをなくしているだけかもしれない。
だったら、探した方が早い。
俺はスマホと財布と鍵をポケットに入れる。
上着を取る。
玄関へ向かうと、エルちゃんがすぐ足元まで来た。
「行ってくる」
「にゃ」
「たぶん、駅から見る」
「にゃ」
「おまえは留守番」
返事の代わりに、エルちゃんは俺の靴の先に鼻先を押しつけた。
それが引き止めるようにも、早く行けと言っているようにも見える。
外は昼なのに、どこか薄曇りだった。
空気が重いわけじゃない。
でも晴れてはいない。
そういう中途半端な天気の日は、街全体が少しだけぼやけて見える。
まずは一番近いコンビニに向かう。
昨日の夜に駅へいたなら、その帰りにもここは通る。
朝方ならなおさらだ。
店の前で一応、中も外も見る。
いない。
当然といえば当然だ。
ずっとここにいるわけない。
それでも、ひとつ場所を潰したことに意味がある気がして、俺はそのまま駅前へ向かう。
歩きながら、ふと気づく。
この道、まるさんと何度も歩いてるな、と思う。
夜のコンビニに行った道。
猫フードを買いに行った道。
アイスを巡って揉めた帰り道。
ただ静かな夜が好きだと言った、あの細い道。
今はひとりで歩いている。
でも、目に入る場所のほとんどに、二人分の記憶がくっついていた。
「……重いな」
口に出してしまう。
恋愛かどうかなんて、正直よく分からない。
分からないけど、この生活の地図のあちこちにまるさんがいる。
それが今日みたいに急に消えると、道そのものが少し違って見える。
駅前に着く。
人はそれなりにいる。
平日の昼だから、完全に空いているわけじゃない。
でも、探すには十分見回せる程度の人通りだ。
ベンチ。
改札前。
タクシー乗り場の屋根の下。
昨日みたいに、少し端の方の暗がり。
いない。
スマホを見る。
まだ既読はつかない。
舌打ちしそうになるのを、なんとか飲み込む。
そこで、駅近くの自販機の前に立って、冷たい缶コーヒーを買った。
飲みたかったわけじゃない。
何か手に持っていないと、まっすぐ不安だけを握りしめそうだったからだ。
プルタブを開けて、ひと口飲む。
ぬるい。
「まず」
思わず言う。
今日は何を飲んでもあんまりちゃんと味がしない。
駅前を一周して、それでもいなかったので、次は川沿いへ向かった。
前に夜の散歩で「この時間だけは世界が静か」と、まるさんが言っていた場所。
人が少なくて、ぼんやりできて、でも完全にひとりにはなりきれない場所。
こういうときに行きそうな場所を考えると、結局、知っているまるさんの癖をたどることになる。
静かな場所。
でも少しだけ光がある場所。
座れて、誰にも気を使わなくていい場所。
それってつまり、俺たちがこれまで「なんとなく落ち着く」と言っていた場所ばかりだった。
川沿いの遊歩道に着く。
昼の水面は鈍く光っていて、風はほとんどない。
ベンチがいくつか並んでいる。
犬を散歩させている人がひとり。
ランニングしている人がひとり。
学生っぽい二人組が少し遠くにいる。
まるさんはいない。
ここでもか、と少しだけ笑いそうになる。
笑えるわけないのに。
歩きながら、俺はスマホをもう一度見る。
既読なし。
最悪だな、と思う。
でも、最悪っていうのは、きっとこういうことじゃない。
本当に最悪なら、こんなふうに歩いていられない。
だからまだ、大丈夫なんだろう。
大丈夫なうちに見つけたいだけだ。
そこまで考えて、ふと足が止まる。
俺、何が怖いんだろうなと思う。
何か事故でもあったら、もちろん怖い。
でも今、この胸の中で一番面積を取っているのは、もっと手前の恐怖だった。
帰ってくる前提でできていた生活が、急に欠けること。
「ただいま」がないこと。
エルちゃんが玄関の前を離れないこと。
そういう、毎日の輪郭の方が、思っていたよりずっと自分の中に深く入っている。
恋愛とか、そういう分かりやすい名前より、もっと生活に近い怖さだ。
なくならないと思っていた流れが、なくなるかもしれない。
それが、やけに怖い。
「……帰ってこいよ」
独り言みたいに出る。
もちろん、返事はない。
そのあと、二十四時間営業のファミレスも見た。
駅裏の小さい公園も見た。
コンビニをもう一軒回った。
でも、まるさんはいない。
探せば探すほど、ひとりで歩いている感じが濃くなる。
でも同時に、この街にある見慣れた場所すべてが、「ここならまるさんが座っててもおかしくない」と思えてしまう。
共有してきた場所が、そのまま探索範囲になる。
家に戻ったのは、夕方に近い時間だった。
ドアを開けると、エルちゃんは本当に玄関の近くにいた。
すぐ立ち上がって、俺の足元に来る。
「……いなかった」
と、俺は言う。
エルちゃんは短く鳴いた。
責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ確認みたいな声だった。
「駅も」
「にゃ」
「川も」
「にゃ」
「コンビニも」
そこで、エルちゃんは一回だけ俺の脛に体をこすりつけた。
それから、また玄関の方を見る。
「おまえ、ほんとそこ好きだな」
と言いながら、俺はその場にしゃがみ込む。
靴も脱がないまま、少しだけ頭を下げた。
どうする。
次はどこを見る。
夜になったら、また駅か。
それとも、まるさんが昔よく行ってた場所を思い出すべきか。
頭の中で、候補をいくつか並べる。
そしてそのどれにも、ちゃんと二人の記憶がついてくる。
逃げたんじゃない。
たぶん、ただ一回、ここじゃないところにいたかっただけだ。
そう思う。
でも、その“一回”が長引くほど、この家はちゃんとまるさんの不在を広げていく。
エルちゃんが窓辺へ行って、すぐまた玄関へ戻る。
空白の動きだった。
俺はようやく靴を脱いで立ち上がる。
スマホを開く。
既読は、まだつかない。
でも、まだ諦める気にはならなかった。
この街のどこかにいるなら、たぶん見つけられる。
見つけたいというより、見つけに行くしかない。
たつくんの一人称でそういうことを思うの、ちょっと気持ち悪いな、と自分で少しだけ思う。
でも今日は、そういう照れの方を気にしている場合じゃなかった。
夜になったら、もう一回出る。
次は、昨日の駅じゃなくて、その先まで。
そう決めたとき、エルちゃんがようやく、いつものごはん皿の前まで歩いた。
でも振り返る。
まだ完全には食べる気じゃない顔だった。
「分かってる」
と、俺は言う。
「見つけるまで、落ち着かないよな」
その返事みたいに、エルちゃんが小さく鳴いた。




