第28話 雨の再会
夜になるまでが、その日は異様に長かった。
仕事は一応、最低限だけ片づけた。
でも集中なんてほとんどしていない。
チャットを返して、画面を見て、数分おきにスマホを確認して、そのたびに既読のつかないメッセージに気づく。
何も進んでいないのに、時間だけはちゃんと進む。
そういう日だった。
夕方を過ぎたころ、一度だけ電話もかけた。
出ない。
コールは鳴る。
でも途中で切れる。
充電切れではない。
それが分かったのはよかったけど、よくない。
出られないのか、出ないのか。
どっちでも落ち着かなかった。
外が暗くなり始めたころ、俺はもう一度上着を羽織った。
エルちゃんは朝から何度も玄関と窓を往復していたくせに、俺が立ち上がると真っ先に足元まで来た。
「行ってくる」
「にゃ」
「たぶん駅の方」
「にゃ」
「昨日のとこじゃなくて、その先も見る」
そう言いながら、自分でもなんで“昨日のとこ”を避けるみたいな言い方をしたのか少し分かる。
同じ場所にいるとは限らない。
でも、同じような場所にはいる気がした。
静かで、屋根があって、人が少しだけいて、でも完全に隠れられない場所。
そういう場所を、まるさんは選ぶ。
外へ出ると、空気が湿っていた。
昼間より少し冷えている。
空を見ると、雲が低い。
「まじか」
言った直後、ぽつ、と頬に当たった。
細い雨だった。
大した降りじゃない。
でも、こういう日に限ってきっちり降る。
俺は駅へ向かう途中で、前より少し広めに辺りを見ながら歩いた。
コンビニの横。
商店街の端。
明るい自販機の影。
閉まった店の前。
それでもいない。
駅が近づくと、雨脚が少しだけ増した。
傘を持ってくるか迷ってやめた自分を、いまさら少しだけ恨む。
改札前は人がまだ多い。
仕事帰りの人、学生、飲み帰りの二人組。
その中に、まるさんはいなかった。
昨日いたベンチのあたりも見る。
いない。
じゃあ、もう少し外側かと思って、俺は駅の反対出口へ回った。
こっち側は、少し暗い。
大通りから外れているぶん、人も少ない。
タクシー乗り場の明かりだけが白くて、その向こうに古い屋根付きの待合スペースがある。
そこを見た瞬間、足が止まった。
ベンチの端に、ひとり座っている影があった。
フードはかぶっていない。
髪はそのまま。
膝の上に小さいバッグ。
両手でスマホを持っているけど、画面は見ていない。
まるさんだった。
見つけた、と思った瞬間、胸のあたりにあった何かが、一気に重さを変えた。
安心なのか、怒りなのか、もうよく分からない。
ただ、見つけたことだけが事実だった。
でも、そのまま駆け寄る気にはならなかった。
昨日の俺なら、たぶんもう少しぶっきらぼうに声をかけていたと思う。
でも今は、ただ見つけたことだけで終わらせたくなかった。
俺は近くの自販機へ寄る。
今日は缶コーヒーじゃなく、温かいペットボトルのお茶を二本買った。
コーヒーより、たぶん今はそっちの方がいい気がした。
屋根の下へ入る。
足音で、まるさんが顔を上げた。
目が合う。
数秒、どっちも何も言わなかった。
「……たつくん」
先に名前を呼んだのは、まるさんだった。
声は驚いていたけど、昨日みたいな拒絶はなかった。
「いた」
と、俺は言った。
自分でも驚くくらい、それしか出てこなかった。
まるさんは少しだけ、困ったみたいに笑った。
「いたね」
「いたね、じゃないだろ」
「うん」
そこで怒鳴らなかったのは、たぶん俺にしてはよく我慢した方だったと思う。
俺は隣に座る。
お茶を一本差し出す。
まるさんは少し迷ってから受け取った。
「ありがと」
「ん」
雨の音が、屋根の端で細かく鳴っている。
駅前のざわつきは少し遠い。
この場所だけが、ほんの少し世界から外れている感じがした。
「連絡、見てた?」
と、俺は聞く。
まるさんは、スマホを膝の上で握ったままうなずいた。
「見てた」
「……」
「でも返せなかった」
「うん」
「ごめん」
その“ごめん”は、言い訳じゃなかった。
ほんとに、それだけしか言えない人の声だった。
俺はお茶のキャップを開けて、一口飲む。
ぬるいわけじゃないのに、妙にやさしい温度だった。
「家、出たあと」
と、まるさんが言う。
「帰るつもりではあったんだよ」
「うん」
「でも、なんか、駅来たらそのまま動けなくなって」
「……」
「スマホも見てた」
「うん」
「たつくんから来てるのも、分かってた」
「うん」
責める言葉が喉元まで上がる。
でも、今はたぶん違う。
目の前のまるさんは、逃げ切った人じゃない。
逃げた先で、まだ座り込んでいる人だった。
「なんで返さなかった」
と、俺は聞く。
責める声じゃなく、確認の声で言えたと思う。
まるさんは少し考えて、それから肩を落とした。
「返したら、帰らなきゃってなるから」
「……」
「帰りたくないわけじゃないんだけど」
「うん」
「帰るって決める元気が、ずっとなくて」
それを聞いて、昨日までのいろんな会話が少しずつつながる気がした。
しんどい。
帰れない。
見つかりたくない。
でも完全にいなくなりたいわけじゃない。
その中途半端さのまま、まるさんはこの二日間をやり過ごそうとしていたんだろう。
「……ばか」
と、俺は言った。
小さい声だった。
でも、たぶんちゃんと届いた。
まるさんは少しだけ目を細める。
「怒ってる?」
「怒ってる」
「だよね」
「でも」
一回止まって、
「見つかってよかった」
と続ける。
まるさんは、その一言で少しだけ顔を伏せた。
雨の音が、その沈黙を埋める。
「たつくん」
「ん?」
「昨日、あんな言い方したのに」
「うん」
「それでも来るんだね」
俺は少しだけ苦笑する。
「来るだろ」
「どうして」
「……どうしてって」
そこをちゃんと考えると、うまく言葉にならない。
恋愛だから、みたいな分かりやすい答えはたぶんまだない。
でも、帰ってこないと、この家の形が崩れる。
それだけは、はっきり分かる。
「帰れる場所があるなら、使え」
と、俺は言った。
昨日より少しだけ、やわらかく。
「使えない日があるのは分かったけど」
「……」
「使える日は、ちゃんと使え」
「……うん」
まるさんは小さく笑った。
泣きそうでもなく、強がりでもない、疲れ切った人の笑い方だった。
「それ、命令?」
「違う」
「じゃあなに」
「お願い寄り」
「たつくんの“お願い”、だいぶ命令っぽいけど」
「うるさい」
そこで、ようやく少しだけ空気がゆるむ。
雨はまだ続いていた。
俺たちは屋根の下で、少し肩を狭めるように座っている。
触れない。
でも遠くもない。
「家、戻る?」
と、俺は聞いた。
まるさんはすぐには答えなかった。
でも、前みたいに視線を逸らし続けることもしない。
「……うん」
と、やがて言う。
「帰る」
「うん」
「今日こそ」
「今日こそ、な」
立ち上がる。
そのとき、まるさんが少しだけふらついた。
「おい」
「だいじょぶ」
「その言葉、信用ない」
「知ってる」
反射で腕を出す。
肩を抱くんじゃなく、肘のあたりを支える。
そこだけは、今までと変えないようにする。
近いけど、越えない。
それがたぶん、今のちょうどいい距離だった。
駅前のコンビニで、今度はちゃんと傘を買った。
透明の、よくあるビニール傘を一本。
「一本なんだ」
と、まるさんが言う。
「昨日もそれ言ってたな」
「デジャヴ」
「学習しないタイプなんで」
「でも結局、一緒に入る前提なんだ」
「雨だし」
雑に返したけど、たぶんそれだけじゃない。
傘を開いて、歩き出す。
雨の音が、傘の上で少し大きくなる。
帰り道は、思ったより静かだった。
会話がないわけじゃない。
でも、無理に埋める感じでもない。
「スマホ」
と、俺が言う。
「ちゃんと持ってたのに見てたんだな」
「見てた」
「悪質」
「ごめん」
「うん」
「でも、たつくんの“起きたら連絡だけして”は」
「うん」
「ちょっと助かった」
「そっか」
「怒ってるのに、詰めてこないやつだったから」
「学習した」
「偉い」
「その褒め方やめろ」
まるさんが少し笑う。
その笑い方は、だいぶ家に近かった。
アパートの階段が見えてきたころには、雨も少し弱くなっていた。
傘を閉じると、肩のあたりだけ少し湿っている。
でも、それを気にする余裕は、もう戻っていた。
玄関の前で鍵を回す。
ドアを開ける。
「にゃー!!」
ものすごい声がした。
「うわ」
「わっ」
エルちゃんが、玄関のすぐ内側で待ち構えていた。
昨日よりさらに強い抗議の声量だった。
完全に怒っている。
「ただいま」
と、まるさんが言う。
「にゃー!!」
「いや、ほんとにごめん」
「めっちゃ怒ってる」
「そりゃ怒るだろ」
エルちゃんはまるさんの足元に寄って、それから俺の方へ来て、またまるさんへ戻る。
誰をどう責めるか迷ってるみたいな動きだ。
「おまえも大変だな」
と、俺が言う。
「王様なのに」
と、まるさんが言う。
その返しで、二人とも少しだけ笑った。
玄関の空気が、ようやく家の空気に戻る。
雨の湿り気と、エルちゃんの体温と、部屋のあたたかさが混ざって、やっと“帰ってきた”感じがした。
まるさんはしゃがんで、エルちゃんの頭を撫でる。
「今日は帰ってきたよ」
「にゃ」
「明日はちゃんとする」
「にゃ」
「それは私にも言ってる?」
と、俺が聞く。
「両方じゃない?」
「公平だな」
「議長だからねえ」
エルちゃんはさらに一度だけ大きく鳴いてから、ようやく少し落ち着いた。
でも玄関からはすぐ離れない。
たぶん、完全には許していない。
それでいい気がした。
俺は濡れた傘を脇に立てかけて、靴を脱ぐ。
部屋の灯りはいつも通りで、でもそのいつも通りが、今日は思っていたよりずっとありがたかった。
見つかった。
帰ってきた。
それだけで、今夜は十分だった。




