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第26話 まる逃げる

 逃げる、っていう言葉は、もっと派手なものだと思っていた。


 荷物をまとめるとか。

 泣きながら飛び出すとか。

 そういう、分かりやすい勢いのある動詞。


 でも実際は、もっと静かだった。


 前の夜、まるさんはいつもより少し早く寝室に入った。


 店の先輩に連絡を入れて、あの客をブロックして、記録も残して、それで全部が片づいたわけじゃないけど、とりあえず一歩は進んだはずだった。俺もそう思いたかったし、たぶんまるさんも、そのつもりでいた。


 でも、気持ちの方は追いついていなかったんだろう。


「先、寝るね」

 と、まるさんは言った。


「うん」

「エルちゃん、夜更かししないでよ」

「にゃ」

「おまえが言うな」


 そんな軽口まで、ちゃんとあった。


 だから、その先のことを、俺はあまり考えなかった。


 寝る前に見たまるさんの顔は疲れていたけど、泣いていたわけでもないし、壊れそうにも見えなかった。ただ、空っぽに近い顔だった。


 それを、疲れてるだけだと思った。

 そこにいたくないくらい、もう何も残ってない顔だとは、思わなかった。


 朝、目が覚めたのは、妙な静けさのせいだった。


 いつもなら、エルちゃんが先に起きる。

 ベッドの真ん中で伸びをして、俺の腕に乗って、朝飯の圧をかけてくる。


 でも今日は、その気配がない。


「……ん」


 薄く目を開ける。

 部屋はまだ少し暗い。

 カーテンの隙間から入る光で、隣の布団の輪郭だけが見えた。


 そこが、空いていた。


「……まるさん?」


 呼んでも返事はない。


 トイレかと思って起き上がる。

 でも洗面所の明かりはついていない。

 水の音もしない。


 そこでようやく、少しだけ胸の奥がざわつく。


 寝室のドアを開ける。

 リビングは静かだった。


 エルちゃんは、玄関の前にいた。


 たたきのぎりぎり手前に座って、ドアを見ている。

 こっちが起きたことにも気づいているはずなのに、振り返らない。


「……おい」


 声をかけても、動かない。

 しっぽの先だけが、一回、床を打つ。


 嫌な感じがした。


 玄関を見る。

 まるさんのスニーカーがない。

 いつも使ってる小さめのバッグもない。

 カーディガンも、壁のフックから消えていた。


「まじかよ」


 思わず口に出る。


 慌ててスマホを取る。

 通知はない。

 メッセージもない。

 寝室に戻って枕元も見るけど、置き手紙みたいなものもない。


 本当に、何も残っていなかった。


 それが余計にまずかった。


 出かけた、というより、すり抜けるみたいに出ていった感じがした。

 起こさないように。

 見つからないように。

 声もかけずに済むように。


 スマホを開く。

 トーク画面を出す。


 どこにいる


 そこまで打って、止まる。


 前の喧嘩が頭をよぎる。

 “管理したい顔”。

 “弱い人扱いしないで”。


 その言葉が、今もちゃんと残っていた。


「……ちがうな」


 全部消す。


 代わりに、短く打ち直す。


 起きたら連絡だけして


 それも送る寸前で、一瞬ためらう。

 でも送らない方がもっとだめな気がして、そのまま送信した。


 既読はつかない。


 エルちゃんはまだ玄関の前にいた。

 こっちを見ることもしない。


「朝飯」

 と、俺は言ってみる。

「食うだろ」


 キッチンへ行って、いつものフードを皿に出す。

 袋の音にだけは異様に反応する王様なのに、今日はぴくりとも動かなかった。


「……おい」


 皿を床に置く。

 それでも来ない。


 エルちゃんは玄関から離れない。

 まるで、そこを見張っていれば戻ってくるとでも思っているみたいだった。


 俺はその背中を見ながら、だんだん落ち着かなくなる。


 少し散歩に出ただけかもしれない。

 コンビニかもしれない。

 気分転換に歩いてるだけかもしれない。


 そう考えようとする。

 でも、財布とスマホと羽織るものだけ持って、朝早く、何も言わずに出るのは、やっぱり“散歩”じゃない気がした。


 逃げたんだろうな、と思う。


 消えたいとか、いなくなりたいとか、そういう大げさなものじゃない。

 ただ、この部屋にいると、俺に見つかる。

 エルちゃんにも見つかる。

 「大丈夫か」って聞かれる。

 「休め」って言われる。

 そういうの全部が今は無理で、一回どこかへ出たかっただけ。


 たぶん、そういう逃げ方だ。


 それが分かるから、責める言葉が出てこない。

 出てこないのに、焦りだけはちゃんとある。


 コーヒーを淹れてみる。

 まったく落ち着かない。

 ひと口飲んで、まずいと思う。

 味じゃなくて、喉が受けつけていない感じだった。


 時計を見る。

 まだ朝の早い時間だ。


 この家の朝は、いつもなら俺が起きて、エルちゃんに飯を出して、仕事の準備をして、その間まるさんは寝ている。それが当たり前だった。


 昼になれば起きてきて、水を飲んで、ぼんやりして、少しずつこの部屋が三人分の時間に戻る。


 その流れが、もう勝手にあるものだと思っていた。


 でも今、玄関の前にいる猫と、誰もいない寝室を見て、初めて分かる。


 俺、あの流れにだいぶ寄りかかってたんだな、と思う。


 帰ってくる前提。

 ここにいる前提。

 あとで起きてくる前提。


 それが崩れると、この部屋は思っていたよりずっと静かで、ずっと落ち着かない。


 スマホを見る。

 既読はまだつかない。


 電話をかけるか迷う。

 でも、いま鳴らしたら、追い立てるみたいな気がする。

 連絡して、と言っておいて、すぐ通話を飛ばすのも違う気がした。


「……待つしかないのか」


 独り言が部屋に落ちる。


 エルちゃんが、やっと少しだけ振り返った。

 でもすぐまた玄関を見る。


「おまえもそう思うか」

「……にゃ」


 小さい声だった。

 抗議じゃなくて、確認みたいな鳴き方だった。


 俺は玄関の近くまで行って、その場に座り込んだ。

 エルちゃんの隣。

 ドア一枚向こうの気配なんか分かるわけもないのに、なんとなくそこがいちばん近い気がした。


 このまま帰ってこないとは、まだ思っていない。

 でも、帰ってくるまでの時間がこんなに長いものだとも、知らなかった。


 待つしかない部屋の中で、待つことだけが、いちばん難しかった。

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