第25話 エルちゃん防御
平和な時間って、たまに前触れみたいに静かだ。
その日の夜は、めずらしく何も起きていなかった。
俺はローテーブルの端でノートPCを閉じて、まるさんはソファで出勤前の支度を半分だけ終えていた。髪は巻いたけど、メイクはまだ途中。部屋着の上にカーディガンを羽織っただけの、家と外のあいだみたいな格好だった。
エルちゃんはその真ん中で、当然みたいな顔で長く伸びている。
「今日、静かだね」
と、まるさんが言う。
「嵐の前みたいな言い方やめろ」
「縁起悪い?」
「だいぶ」
そう返したところで、スマホが震えた。
ぶる、と一回。
それだけなら別に何でもない。
でも、まるさんは画面を見た瞬間、そのまま止まった。
表情が消える、っていうのはこういう顔なんだろうなと思う。
驚いたとか、困ったとかじゃない。
一回、全部が抜ける。
「……まるさん」
と、俺は呼ぶ。
返事がない。
スマホを持つ手だけが、ほんの少し固くなる。
次の瞬間、また震えた。
ぶる。
ぶる。
短く、続けて。
「また?」
と、俺は聞いた。
まるさんは小さくうなずいた。
それから、スマホを見たまま、
「……あの人」
とだけ言った。
たぶんそうだろうと思っていた。
でも、実際にその言葉を聞くと、腹の奥がじわっと熱くなる。
ただ、今日はその熱のまま先に口を開かないようにした。
前みたいに「もうやめろ」とか「行くな」とか、そういう言葉が先に出るのは、たぶん違う。
俺はソファの前まで行って、少しだけ距離を置いてしゃがんだ。
「見せられる?」
と、聞く。
「いや、無理なら無理でいいけど」
まるさんは数秒黙って、それからスマホを差し出した。
画面には、店で使っている予約連絡用のアプリが開いていた。
相手の名前は伏せてあるけど、例の客だと分かる。
今日いる?
この前冷たかったね
店の外でも少し話したかった
返信してよ
最後の一通は、つい今しがた届いたらしい。
画面の上に、通知の帯がまだ残っている。
「きも」
と、思わず口に出た。
まるさんが少しだけ肩をすくめる。
「だよね」
「番号教えてないんだろ」
「うん。店のアプリ経由」
「それでも十分きもい」
「うん」
その“うん”が、妙に遠い。
見れば、まるさんの呼吸が浅い。
肩だけが少し上がって、落ちない。
「返さなくていい」
と、俺は言った。
まるさんは何も言わない。
たぶん分かっている。でも、その“分かってる”まで行くのにも少し時間がかかっている感じだった。
そこで、エルちゃんが動いた。
ソファの真ん中からむくりと起き上がって、まるさんの膝へ。
そこからさらに、胸元に近いところまでよじ登る。
「うわ」
と、まるさんが小さく言う。
でも、振り払わない。
エルちゃんはそのまま丸くならずに前足を揃えて、まるさんの胸のあたりに体を預けた。
そして、低く、長く喉を鳴らし始める。
ぐるる、ぐるる、という、いつもの甘えた音より少し深いやつ。
「……重」
と、まるさんが言う。
「うそつけ」
「ちょっとだけ」
「でも降ろさないんだな」
「……今はいいかも」
声が、少しだけ戻る。
エルちゃんの体温で呼吸の位置が分かるのかもしれない。
まるさんの肩が、さっきより少しだけ下がった。
「まず残そう」
と、俺は言った。
「返事じゃなくて、記録」
まるさんがスマホを見下ろす。
「スクショ?」
「うん」
「こういうの、ほんと仕事っぽい」
「今日はその方がいい」
まるさんは小さくうなずいた。
エルちゃんを胸に乗せたまま、画面を保存していく。
一枚。
二枚。
通知一覧。
相手のプロフィール画面。
日時。
俺は横から見ながら、
「外までついてきた日のこと、メモ残ってる?」
と聞く。
「頭にはある」
「じゃあ、今のうちに書いとこう」
「今?」
「今。あとで曖昧になる」
そう言うと、まるさんは少しだけ苦い顔をした。
でも、嫌そうというより、面倒そうという感じだった。
「……たつくん、こういうとこほんと仕事できそう」
「できそう、じゃなくてやってる」
「そうだった」
ちょっとだけ笑う。
その小さな笑いが出たので、たぶんもう大丈夫だと思う。
俺はローテーブルにノートを引き寄せた。
「俺が書く?」
「いや」
と、まるさんは首を振る。
「それは自分でやる」
その返事が、ちょっと嬉しかった。
「分かった」
「でも、横にいて」
「いる」
それで十分だった。
まるさんはスマホのメモを開いて、短く打ち始める。
〇日、退勤後に店の外までついてこられた
〇日、アプリ経由で私的な連絡
返信を求める内容
不安あり
文は硬い。
でも今はそれでいい。
「店長だけに送る?」
と、俺は聞く。
まるさんは少し迷ってから、
「フロアの先輩にも送る」
と言った。
「前に話聞いてくれた人?」
「うん。あの人の方が、たぶん話通じる」
「それがいい」
俺はそこで、初めて少しだけ力が抜けた気がした。
俺が代わりに解決するんじゃなくて、まるさんが自分で相談先を選んだ。
それがたぶん大事なんだろう。
「文面、見る?」
と、まるさんが言う。
「見る」
「偉そう」
「現実担当なんで」
「便利だな、その肩書き」
スマホを受け取る。
お客様からアプリ経由で個人的な連絡が来ています
前回、店の外までついてこられた件も含めて不安があります
記録として共有します
今後この方の対応を外してほしいです
「いいと思う」
「硬すぎない?」
「今日はそのくらいでいい」
「そっか」
送信ボタンを押す指が、一瞬だけ止まる。
でも止まったのは一秒で、次にはちゃんと送られた。
ぴこん、と小さい音がして、送信完了の表示が出る。
「送った」
「うん」
「……ちょっとだけ、息しやすい」
「よかった」
そこで、またスマホが震えた。
二人とも同時に画面を見る。
今度は例の客じゃなく、先輩からだった。
見た
それはだめ
店長にも私から言う
今日は無理なら出なくていい
「……」
「……」
まるさんが、ゆっくり息を吐いた。
「よかったね」
と、俺は言う。
「うん」
「ちゃんと通じる人いた」
「うん」
その“うん”は、さっきまでの遠いやつじゃなかった。
エルちゃんはそのあいだも、ずっとまるさんの胸元で喉を鳴らしている。
完全に防御担当の顔だった。
「あと」
と、俺は言う。
「ブロック」
「うん」
今度は迷わない。
相手の画面を開いて、通話もメッセージも受け取らない設定にする。
予約アプリ側の報告機能も確認して、まるさんが自分で通報を押す。
「できた」
「スクショのバックアップも」
「え、まだある」
「ある」
「きみ、こういうとき容赦ないね」
「今だけは許せ」
「まあ、助かる」
言いながら、まるさんの声は少しずつ普通に戻っていく。
ようやくエルちゃんが胸元から降りた。
そのままソファの真ん中に落ち着く。
仕事完了、みたいな態度だった。
「おまえ、今日いちばん働いたな」
と、俺が言う。
「防御担当だから」
と、まるさんが言う。
「王様兼議長兼警備隊長兼防御担当」
「役職多すぎ」
「にゃ」
鳴き声がちょうどよく重なって、二人とも少しだけ笑った。
笑ってから、まるさんが俺を見る。
「たつくん」
「ん?」
「今日は、“やめろ”って言わないんだね」
「……言いたいのは、ちょっとある」
「正直」
「でも、決めるのはおまえだろ」
「……」
「俺は横にいる方にしとく」
まるさんは少しだけ目を丸くして、それから、やわらかく笑った。
「そっちの方が助かる」
「ならよかった」
「うん」
そこで会話は切れたけど、気まずくはなかった。
ローテーブルの上には、記録用に開いたノートと、半分冷めたコーヒーと、まるさんのスマホ。
その全部を見ながら、俺は少しだけ思う。
守るって、前はたぶん、前に立って全部止めることだと思ってた。
でも今は違う。
相手の手からスマホを取り上げるんじゃなくて、隣に座ってスクショを撮る。
代わりに決めるんじゃなくて、一緒にブロックする。
そのくらいの方が、ちゃんと横に立っている気がした。
「プリンあるけど」
と、俺は言う。
まるさんが少しだけ笑う。
「今日は食べる」
「全部?」
「全部はまだ無理かも」
「半分か」
「半分です」
その返しが、なんか少しだけ救いだった。
俺は冷蔵庫へ向かう。
後ろでは、エルちゃんがもう完全に安心した顔で丸くなっている。
たぶん今夜、全部が解決したわけじゃない。
店の返事だって、明日どうなるか分からない。
でも少なくとも、ひとりで流さない形にはできた。
それだけで、部屋の空気はだいぶ違っていた。




