第6話 皇城
居酒屋「食の如く」での一夜が明けた翌朝のことだった。
――拉致られた。
遊佐纏は、霞む意識の奥底でそう確信した。
だが、それを声に出すだけの気力は、今の纏には残っていない。
胃の腑が裏返るような不快感と、頭蓋の内側を万力で締め上げられるような重苦しさが、思考の歯車を狂わせていた。
ようやく喉の奥から乾いた言葉がこぼれ落ちたのは、それからしばらくしてのことだ。
「……拉致……られた……」
それは蚊の鳴くような、精一杯の抗議だった。
隣に立つ逢魔七罪は、腕を組んだまま、事も無げに肩をすくめて見せた。
「人聞きが悪い」
その声は、高純度の水晶のように冷たく、そして朝の空気のように妙にさっぱりとしている。
「起こしに行った私に対して、『あと四十三万二千秒』なんてうわ言を吐いて布団にしがみついていたのは誰?」
四十三万二千秒。
時間にして百二十時間、つまり丸五日。
纏は何も言い返せなかった。休暇中とはいえ、さすがにそれは寝すぎだと自覚していたからだ。
だが、それでも。
(……人を……米袋みたいに担いで連れ出すのは……普通じゃない……)
心の中で呪詛のようにぼやく。
意識が混濁したままホテルを連れ出され、気がつけば、見知らぬ土地を踏んでいた。
いや、正確には半ば引きずられるようにして、この異様な場所へと辿り着いたのだ。
「……ぅぅ……ここ、どこ……?」
纏は焦点の合わない目で周囲を見回した。
視界は妙に開けている。だが、肺に流れ込む空気は鉛のように重かった。
息を吸うたびに、胸の奥がざらつく。
まるで粘度の高い水の中で呼吸しているような、生理的嫌悪感だった。
七罪が短く、事務的な口調で答える。
「阿頼耶」
纏は三秒ほど、完全に停止した。
「…………わん・もあ・ぷりーず」
「だから、阿頼耶」
その瞬間、纏の表情が凍りついた。
阿頼耶。
それはダンジョンの最深部を指す名称であり、魔人が跋扈する、人類にとっては禁忌の領域だ。
決して、観光気分で訪れる場所ではない。
「……なんで……ダンジョンの……最深部に……」
震える声に対し、七罪は悪びれる様子もなく続けた。
「魔素を効率よく吸収して身体を馴染ませるなら、一番濃い場所が適任でしょう?」
「……限度が……ある……。魔素の濃度が……高すぎて……吐きそう……」
纏の顔色は、陶器のように青白く透けていた。
指先は小刻みに震え、血管の中に細かな砂を流し込まれているような不快感が波のように押し寄せる。
七罪は一瞬だけ考え、慈悲の欠片もないトーンで言い放った。
「慣れれば大丈夫」
七罪は淡々と続ける。
「まあ、長居しすぎるのも身体に負担がかかるでしょうから、休暇の残り五日間は、毎日九時間ここに滞在して、残りは地上で過ごすことにしましょう」
五日。九時間。この地獄。
纏の思考が、最悪のパズルを完成させて停止する。
「……鬼畜……悪魔……人でなし……魔人……」
「置いて帰ってもいいけど?」
その冷徹な一言で、纏のプライドは霧散した。
纏は即座に頭を下げた。
「……ごめんなさい……置いてかないで……」
謝罪までわずか一秒。
その滑稽なほどの必死さに、七罪の口角が微かに、楽しげに吊り上がった。
改めて周囲を見渡すと、そこは巨大な城の中庭だった。
四方を天を突くような高い壁に囲まれているが、不思議と圧迫感はない。
その空間は、プロ野球のスタジアムが丸ごと収まるほどに広大だった。地面には淡い灰色の石が隙間なく敷き詰められ、土も岩も寄せ付けない、無機質で滑らかな質感を湛えている。
纏がゆっくりと顔を上げると、そこには深い、吸い込まれるような青色の空が広がっていた。
雲は悠然と流れ、太陽の光が中庭を照らしている。
「……阿頼耶にも……太陽はあるんだ……」
「太陽も月もあるし、四季に似た寒暖差も存在する」
七罪は見上げるような高さの城壁に視線を投げた。
「ここはダンジョンというより、もう一つの世界そのものだから」
温かい風が吹き抜け、纏の頬を撫でる。
地上の春を思わせる穏やかな風だ。
だが、身体の重さは変わらない。呼吸を繰り返すたびに、濃密な魔素が内臓を掻き回す。
そんな纏の苦悶を余所に、七罪は平然として言った。
「技術的な干渉で、Wi-Fiも飛ばしてある。九時間くらい、ゲームでもしていればすぐに過ぎる」
もはや驚く気力も失せた。
ダンジョン最深部でオンライン環境が整っているとは、この世界の常識はどうなっているのか。
纏は膝をつきそうになりながら、縋るように七罪の袖を掴んだ。
「……分かった……。でも……一人は嫌だから……一緒にいて」
七罪が一瞬だけ、意外そうに目を丸くした。
七罪はすぐに小さく息を吐き、視線を逸らした。
「……まあ、それくらいなら、付き合ってあげてもいいけれど」
二人は石の突起に腰を下ろした。
「……ここは……阿頼耶の……どこ?」
七罪はあっさり答えた。
「皇帝の住まう城」
「……ラスボスの居城とか……安心……できない……」
「大丈夫」
七罪の声には、絶対的な強者の響きがあった。
「私は「アレ」が言ったように皇帝の近衛。この城では皇帝に次ぐ権力を持っている。たとえ王が来ても、あなたにちょっかいは出させない。それに今の皇城は王未満は皇帝の許可がない限り立ち入りできないから、そう人が来ることはない」
纏はそんな七罪の横顔を盗み見て、ぼそりと呟く。
「……なんか……フラグを立てた気がする……」
「フラグ?」
「……なんでもない……。今はスマホしかないから……対戦ゲーム……しよう」
纏がスマートフォンを取り出すと、七罪は気だるげに言った。
「いいけど。『量子』の異能を駆使したところで、私に勝てないのは分かっているでしょう?」
「……それは……昔のこと……」
画面を見つめる纏の瞳に、かすかな闘志が宿る。
「今は……僕だって……成長してる……」
高い城壁の上には、どこまでも澄んだ青空が広がっていた。
ここが世界の果てであることを忘れさせるほどに、穏やかで、そして非日常的な放課後のような時間が、二人の間に流れていた。
纏はスマートフォンを構え、画面に視線を固定した。
一人称視点のFPS。視界の中央に照準が浮かび、背後から足音が聞こえる。纏の指が画面上を滑り、敵の位置を予測して射線を引く。
だが、次の瞬間には既に撃たれていた。
『YOU ARE DEAD』
画面に大きく表示される文字。纏は小さく舌打ちをした。
「……速すぎる……」
『シチミンの反応速度、絶対に人間じゃないよね☆』
ラプラスのホログラムが、空中で拗ねたように膨れた。
『ボクが未来予測しても、その先を読まれてる。チートだチート☆』
「普通にしてるだけ」
七罪は気だるげに答えた。画面から目を離さず、淡々と纏の復活位置を狙撃する。
『YOU ARE DEAD』
再び表示される死亡通知。
「……ひどい……」
纏は項垂れた。
七罪は纏とラプラスの連携を、まるで遊びのように圧倒していた。量子計算による未来予測も、AIによる最適化も、七罪の前では無意味だった。
「もう一回」
纏は諦めずに、リスタートボタンを押した。
画面が切り替わり、新しいマッチが始まる。
城壁の上から差し込む陽光が、穏やかに中庭を照らしていた。
風が吹き抜け、纏の猫耳フードを揺らす。
そんな時間がしばらく流れていた時のことだった。
――人の気配。
纏の背筋に冷たいものが走る。
理由は分からない。だが本能が危険だと警告していた。
空気が変わった。
それまで中庭を満たしていた魔素が、わずかにざわめく。
まるで巨大な生き物が近づいてきたかのように。
纏は反射的に立ち上がり、七罪の傍へ駆け寄った。七罪の背に隠れるように身を縮め、フードを深く被る。
「……?」
七罪が顔を上げた。視線を中庭の入口へ向ける。
そこから、一人の男が歩いてきていた。
黒いスーツ。だがネクタイは緩められ、ジャケットのボタンも外されている。まるで長時間の激務を終えた直後のような、くつろいだ雰囲気を纏っていた。
「……誰も……来ないと……言った……」
纏は震える声で抗議した。
「あくまで、王未満は立ち入れないって言っただけ」
七罪は気だるげに答えた。
その言葉の意味を理解した瞬間、纏の顔が青ざめた。
王未満は立ち入れない。
つまり、この男は――王。
纏は恐る恐る、七罪の背から顔を覗かせた。
男はゆっくりと近づいてくる。その足取りは余裕に満ちており、まるで自分の庭を散歩するような自然さがあった。
纏は、その顔に見覚えがあった。
よくニュースで見る顔だ。定例会見で、記者たちの質問に淀みなく答える姿。政治の中枢で、常に冷静に立ち回る姿。
獅子傲政臣。
内閣官房長官。
そして――七大罪の一角、『傲慢』の王。
「よう」
政臣は軽く手を上げた。その声は、低く、そして妙に親しみやすい響きを持っていた。
「久しぶりだな、七罪」
「……忙しいんじゃなかったの」
七罪は面倒くさそうに答えた。
「忙しいさ」
政臣は肩をすくめた。
「だが、忙しい中でも息抜きは必要だろう。ここは落ち着く」
政臣は纏を見た。その視線は、値踏みするような、しかし敵意のない好奇心に満ちていた。
「遊佐纏か。噂は聞いている」
纏は七罪の背に隠れたまま、小さく震えた。
「いい異能を持っているな」
政臣は満足そうに頷いた。
「『量子』の異能。公安のシステム部門に欲しい人材だ。どうだ。俺の元へ来ないか」
「駄目」
七罪が即座に遮った。
「『アレ』が迅にしたように、私のところから引き抜きはしないで」
「またそれか」
政臣は大げさにため息をついた。
「元々、俺は遊佐纏を公安のシステム部門へ、蓮見迅を外交官へ、臥龍岡孔明を政務官に採用する予定だったんだぞ」
政臣は不満げに続けた。
「それを全部、お前に横から掻っ攫われた」
「……あの……」
纏が小さく口を開いた。
「……澪は……偶然?」
「そんなわけがない」
七罪は即座に答えた。
政臣は小さく笑った。
「鈴仙澪はな」
政臣の声が、わずかに柔らかくなった。
「俺の無二の友の忘れ形見だ」
纏は息を呑んだ。
「友の意思を継ぎ、できるだけ本人の意思に沿ったサポートをしてきた」
政臣は遠くを見るような目をした。
「もし澪が望んでいれば、俺のSPに採用していた可能性もあった」
「――そう。澪は、先代憤怒の王の……」
七罪が、少しだけ遠い目をして呟いた。
その声には、珍しく感慨のようなものが混じっていた。
纏は混乱していた。
澪が、王の娘。
政臣が、澪の父の友人。
そして機動七班のメンバーは、元々政臣がスカウトしようとしていた人材。
すべてが、繋がっている。
すべてが、偶然ではない。
「まあ、過ぎたことを言っても仕方ない」
政臣は気を取り直したように言った。
「お前が拾った人材は、お前のものだ。俺も無理に引き抜く気はない」
政臣は纏を見た。
「だが、もし気が変わったら、いつでも言ってくれ。七罪が目をつけた人材なら、望む能力に見合った部署へ採用しよう」
「……遠慮……します……」
纏は小さく答えた。
政臣は楽しそうに笑った。
「そうか。まあ、そうだろうな」
政臣は七罪を見た。
七罪は面倒くさそうに言った。
「そうだ。私は、今は皇帝の近衛だから」
「皇帝の近衛? 必要かそれ」
傲慢の王として皇帝の傍にいた政臣は、皇帝の実力を把握していた。
その圧倒的な実力を。
「まあ、色々と便利だから、他のヤツには『皇帝が近衛を任命した』とでも伝えておいてて」
「分かった」
政臣は肩を竦め、ネクタイを直し始めた。
「じゃあ、俺は戻る。仕事が山積みでな」
「……ご苦労様」
七罪は気だるげに答えた。
政臣は手を振り、去っていった。その背中は、どこか疲れているようにも、しかし満足そうにも見えた。
纏は七罪を見上げた。
「……澪のこと……知ってた……?」
「ある程度は」
七罪は静かに答えた。
「でも、全部は知らない。澪自身も、自分の父親のことをどこまで知っているのか」
七罪は空を見上げた。
「それは、澪が自分で知るべきことだから」
纏は小さく頷いた。
城壁の上には、変わらず青い空が広がっていた。
だがその空は、少し前よりも、重く感じられた。
読んでいただきありがとうございました。
少しでも「いいな」と思ったら、ブックマーク・評価・感想をいただけると嬉しいです。




