第5話 近衛
店員が去った後、個室に重い沈黙が落ちた。
澪の問いかけが、空気の中に残っている。
――あなたは皇帝なんですか。
七罪は箸を置いた。おちょこに酒を注ぎ、一口飲む。その仕草は、いつもと変わらない。気だるげで、面倒くさそうで、どこか投げやりだった。
「――別に、私がどこの誰かは言ってもいいけど」
七罪は小さくため息をついた。
「許可を取れれば、教えてあげる」
「許可?」
澪は眉をひそめた。
「誰の許可が必要なんですか」
七罪はポケットからスマートフォンを取り出した。画面を数回タップして操作し、机の上に、画面を上にして置いた。
澪は身を乗り出し、表示されている名前を読み上げた。
「獅子傲政臣……」
その瞬間、迅の顔色が変わった。
「おい。マジかよ」
迅の声が、わずかに震えていた。
ラプラスのホログラムが、空中に文字を浮かべた。
『超ド級の大物だよ。現政権の要、内閣官房長官。日本政治の心臓部を握るフィクサーだね。総理大臣ですら、彼のお伺いなしには何も決められないって噂だよ☆』
日本の頂点に君臨する政治家。
その直通番号を、一介の警部補である七罪が持っているという異常。
「あー、いいないいな!」
彩が身を乗り出した。目を輝かせている。
「傲慢の王の電話番号持ってるんだ。私にも教えてよ!」
「――!」
澪と迅は、同時に息を呑んだ。
官房長官が、魔人。それも七大罪の一角――『傲慢』王。
七罪は面倒くさそうに首を振った。
「あいつは人間相手の駆け引きで忙しいから、魔人と連絡を取るのを極端に嫌ってる。教えるわけないでしょ」
「えー、いいじゃん」
彩は不満そうに頬を膨らませた。
「内緒で教えてよ。出処は言わないからぁ」
「しつこい」
七罪は素っ気なく言った。
澪は七罪を見た。心臓が早鐘を打っている。
「……傲慢の王の電話番号を知っているなんて」
澪の声が震えた。
「逢魔さんは、もしかして皇帝――」
「お。澪ちゃん、鋭いっ!」
彩が澪の言葉を遮るように叫んだ。
「――」
七罪が、短く何かを呟いた。
それは日本語でも、この世界のいかなる言語でもなかった。
鼓膜を直接震わせるような異質な響き。意味は分からない。だが、その一音に込められた強烈な圧力を、その場の全員が肌で感じ取った。
七罪の言葉を理解した彩の顔が、引き攣った
額から一筋の汗が流れ、その瞳には純粋な生存本能としての恐怖が宿っていた。
数秒の沈黙。
そして彩は、ぎこちなく笑った。
「あ、あははは。いいところまでいっているけど、ちょっとだけ違うんだ」
彩の声が、わずかに上ずっている。
「この方は、皇帝陛下の近衛なんだぁ」
「皇帝の近衛?」
澪は繰り返した。
七罪は小さくため息をついた。
「――『コレ』が言った以上、仕方ないけど」
七罪は彩を睨んだ。気だるげな目が、わずかに細められる。
「そう。私は皇帝の近衛」
澪は混乱していた。
皇帝ではなく、近衛?
迅が低く問いかけた。
「近衛ってことは、身辺警護だろ。離れていていいのかよ」
「身辺警護というより」
七罪は肩をすくめた。
「皇帝の気紛れで命令される小間使いみたいなものだから」
「そもそも皇帝は、七大罪の王が総掛かりで挑んでも、玉座に座ったままノーダメで済ますぐらいに強いんだぁ」
彩は楽しそうに言った。先ほどの硬直が嘘のように、軽快な口調に戻っている。
「身辺警護なんて必要ないよね」
澪は拳を握りしめた。
皇帝の近衛。
それが真実なのか、それとも嘘なのか。澪には判断がつかない。
「一色彩が言うには、皇帝は所在不明なんですよね」
澪は七罪を見た。
「どこにいるんですか」
「それは言えない」
七罪は即座に答えた。
「近衛にとって、皇帝からの命令は絶対だから」
澪は唇を噛んだ。
また、壁だ。
七罪は何かを隠している。それは明白だった。
七罪は酒を一口飲んで、彩を見た。
「それはそれとして――」
七罪の声が、わずかに低くなった。
「私の正体をよくもしゃべってくれた。どう償ってくれる?」
「えー」
彩は大げさに肩を落とした。
「大阪は私の庭だから、女性向け風俗のおすすめに案内とかはどうかな。色欲がおすすめするところだから最高だよ!」
「却下です!」
澪は即座に言った。
「私たちは警察です。公務員が裏社会の便宜を受けるなど、断じて認められません!」
「澪ちゃん、頭でっかちだなあ」
彩は楽しそうに笑った。
「そんなんだと、結婚しても夫婦仲ギスギスして、浮気された挙げ句に捨てられるよ?」
「余計なお世話です」
澪は睨みつけた。
七罪は二人のやり取りを見て、小さく息を吐いた。
「そうだ」
七罪は思いついたように言った。
「じゃあ、澪を鍛えて」
「は?」
澪は目を丸くした。
「――え」
彩も、同じように驚いた表情を浮かべた。
「澪は半分とはいえ、憤怒の魔人の血を引いている」
七罪は淡々と続けた。
「私では澪の怒りを引き出せないけど、お前ならできるでしょう」
「雑魚を研いだところで、雑魚のままだと思うけどなぁ」
彩はつまらなそうに言った。
「まあ」
七罪は肩をすくめた。
「荒蒔程度と五分だった時点で、男爵程度の力も出せていないようだけど」
「……っ」
澪は唇を噛んだ。
悔しいが、事実だった。荒蒔との戦いで、澪は自分の無力さを痛感していた。
「私のことを皆にバラしたこと。迅にちょっかいを掛けたこと」
七罪は指を二本立てた。
「この二件を償え」
「なにか、ご褒美もほしいなぁ」
彩は甘えるような声を出した。
「……きちんと澪を鍛えることができたら」
七罪は少し考えた後、言った。
「皇帝から下賜されている、二十四時間に六十秒だけ軛を五〇%解除できる匣をあげる」
「やる!」
彩は即座に答えた。目を輝かせている。現金な反応だった。
「改造、魔物化、人格矯正――そういう余計なことはなし」
七罪は念を押した。
「今の澪を、ただ鍛えて」
「分かりましたー」
彩は楽しそうに笑った。
「それじゃ、善は急げ。行こうか、澪ちゃん」
「イヤです!」
澪は椅子を蹴って立ち上がった。
「誰が貴女なんかに――」
「えー、そんなワガママ言わないでさ」
彩は首を傾げた。無邪気な仕草。だがその目は、笑っていなかった。
「今のままだと、絶対に足を引っ張る場面が出てくると思うなぁ。その時に後悔しても遅いよ?」
「――っ」
澪は言葉に詰まった。
悔しいが、それも事実だった。
「逢魔さんっ」
澪は七罪にすがるように言った。
「逢魔さんが鍛えて下さい!」
「……私、教えることには向いてないって、色々な相手に言われたから」
七罪は面倒くさそうに言った。
「教えることには向いてない」
「……まあ、だろうな」
迅は小さく呟いた。
『シチミンが他人に教えるのはムリゲーだよね☆』
ラプラスも同意した。
澪は絶望した。七罪は、澪を鍛える気がない。
「そんな……」
「一応、武器をあげる」
七罪はポケットから、何かを取り出した。
警棒だった。だが、普通の警棒ではない。黒い金属のような素材で作られ、微かに光を反射している。
「警棒、ですか」
澪は受け取った。ずしりと重い。
「持ってますけど」
「ダンジョンの素材で造った特別なヤツ」
七罪は気だるげに言った。
「使い方次第で、魔人も倒せる、かもしれない」
澪は警棒を握りしめた。
「……分かりました」
澪は覚悟を決めた。そして、小さく付け加えた。
「ところで、万が一、一色彩を倒してしまった場合は」
「おめでとう」
七罪は即座に答えた。
「人類初の魔人討伐になる」
「えー、ムリムリ」
彩は笑った。
「私って仮にも伯爵なんですけど。荒蒔程度を倒しきれない雑魚は、私にダメージを与えることもできないと思うなぁ」
「……その、バカにしたような、人を見下す笑みを出せなくしてあげます」
澪は低く言った。
視線で火花を散らす二人。
そして澪は、彩と共に個室を出て行った。
扉が閉まる音。
個室に、迅と七罪と纏だけが残った。
迅が低く言った。
「……おい。いいのか?」
「なにが?」
七罪は酒を注いだ。
「一色彩に、鈴仙を預けて」
「人間の最大の攻撃の源は怒り」
七罪は淡々と言った。
「澪は、この事件を通して『アレ』に対してかなり怒ってる。ちょうどいい修行になると思う」
「……そうじゃなくてだな」
迅は言いかけて、やめた。
七罪は、分かっていない。あるいは、分かった上でやっている。
「?」
七罪は首を傾げた。
「もしかして、澪が『アレ』を倒してしまうことを危惧してる? それはそれでいい」
迅は何も言わなかった。
七罪は酒を飲み干した。
そして、誰にも聞こえない声量で呟いた。
「神は人間に辟易してるけど、私は今の魔人に辟易してるんだ」
その声は、疲れていた。
「死ぬのなら精々人間の糧になって死ねばいい」
纏だけが、その言葉を聞いていた。
七罪の左腕にしがみついたまま、小さく震えながら。
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