第8話 希望のある方へ
朝、レンは地図を見ていた。
川の水は確保できた。けれど、食料は減り続けている。負傷者を休ませるにも、木陰と荷車だけでは限界があった。
「身を寄せられる場所が欲しい」
ガルドが地図を覗き込む。
「簡単に言うのう」
「簡単じゃないから困ってるんです」
「条件は?」
リオが尋ねた。
「水と食料。それから、人を守れるだけの兵がいる場所」
「受け入れていただけるかも、分かりませんね」
セレスティアの言葉に、レンは頷いた。
「……それなら」
少し離れた場所から声がした。
昨日、セレスティアに気づいた老人だった。
「北西の領地を、頼られてはいかがでしょう」
「北西?」
「わしの故郷があります」
老人が地図の一角を指した。
セレスティアの表情が変わる。
「……あの領地ですか」
「はい、殿下」
「知ってるんですか?」
レンが尋ねる。
「王国の北西を守る領地です。ただ……」
「ただ?」
「あの地の領主は、父上と長く対立していました」
「王様と仲が悪かったんですか」
「……その言い方はどうかと思いますが」
「違います?」
「違いません」
ガルドが横を向いた。
「今、笑いました?」
「笑っとらん」
レンは老人を見る。
「あなたは、そこの人なんですね」
「はい。行商をしております」
「どうして、ここに?」
「商いで領地を離れている間に戦が広がりましてな。帰る機会を失いました」
「道は分かりますか」
「この辺りと故郷は、何十年も往復しております」
「今も通れます?」
「それは……分かりません」
レンは地図へ目を戻した。
道の安全は、確かめる必要がある。それでも、行き先の候補が一つできた。
◇
「領主は、どんな人なんですか」
老人が答えるより先に、セレスティアが口を開いた。
「父上は、何度も兵を王都へ出すよう求めました」
「出さなかった?」
「はい。自領の守りを薄くすることを、あの方は拒みました」
「それで揉めたんですね」
「兵だけではありません。税や穀物の供出でも、何度も」
レンは少し考えた。
「王都では、嫌われそうですね」
「……そうだったと思います」
「ですが、領主様を嫌っておる領民など、わしは知りません」
老人が言った。
胸の前で、帽子を握っている。
「三年前、凶作がありました。その年、領主様は税を取られなかった。それどころか、ご自分の穀倉を開いてくださったのです」
「蓄えていた穀物を?」
「はい。冬を越せぬ者から先に配れ、と。わしの家にも届きました」
ガルドが老人を見た。
「王都への供出は?」
「決められた穀物を納めよと、使者が来たそうです」
「それで?」
老人は少し笑った。
「領主様は、こう返されたとか」
一度、セレスティアへ視線を向ける。
彼女が頷くと、老人は続けた。
「『死んだ領民から、来年の税を取るおつもりか』と」
ガルドが吹き出した。
「そりゃ王都には好かれんわ」
「ガルド」
「失礼いたしました」
頭を下げるガルドの隣で、老人も小さく笑った。
「本当にそう言われたのかは、わしにも分かりません」
「それでも、信じてるんですね」
「はい。そういう方だと、皆知っておりますから」
その言葉だけで、領主がどんな人物かを決めることはできない。
けれど、老人がその人を信じていることは伝わってきた。
「王都では、頑固者と呼ばれていたそうです」
老人は少し誇らしそうに顔を上げた。
「ですが、わしらにとっては、素晴らしい領主様です」
レンは頷きかけ、その向こうへ目を留めた。
木のそばに座らされていた帝国兵の捕虜が、こちらを見ている。
目が合うと、男は顔を背けた。
「今の話、知ってるんですか」
「知らん」
短い返事だった。
レンはそれ以上聞かず、地図へ視線を戻した。
◇
「レン」
セレスティアが呼んだ。
「仮に領地が無事でも、あの方が王家を迎えるとは限りません」
「殿下のことも?」
「父上との対立を思えば、歓迎はされないかもしれません」
レンは地図の北西を見た。
「王都に兵を出さなかったなら、その時は領地に兵が残っていたんですよね」
「はい」
「今も残っているか、確かめる価値はあると思います」
ガルドが顎に手をやった。
「守りを固めておったなら、持ちこたえている可能性はある。帝国軍が向かっておらんとは言い切れんがな」
「近づく前に、斥候に見てもらえますか」
「ああ。道も確かめさせる」
レンは老人を見る。
「案内をお願いできますか」
「もちろんです」
老人はすぐに答えた。
セレスティアは地図を見つめていた。
「ですが、私が行けば門を閉ざされるかもしれません」
「そこは、殿下の仕事です」
「私の?」
レンは彼女へ向き直った。
「俺がみんなをそこまで連れていく。着いたら、殿下が俺たちの居場所を作ってください」
セレスティアは少し黙った。
「……簡単に言いますね」
「難しいですか」
「とても」
「俺もです」
彼女が小さく笑った。
「そこまで、連れていってください」
レンは頷く。
「その先は、私が何とかします」
ガルドが地図の前へ膝をついた。
「では、まず道を教えてもらおうか。先へ出す兵にも、目印を伝えてくれ」
「はい。ここからなら――」
老人の指が、北西へ続く道をたどった。
◇
出発の準備が始まった。
昨夜分けた荷物を、避難民たちが受け取っていく。兵が荷台を確かめ、水袋の口を締め直した。
「お姫さま」
昨日の少女が、セレスティアの服の端を引いた。
「どこ行くの?」
「北西です」
「そこ、おうち?」
セレスティアは少し考えた。
「まだ、分かりません」
「そっか」
「でも」
少女の前へしゃがみ、その手を取る。
「みんなでいられる場所を、探しに行きます」
「みんなで?」
「はい」
少女は、セレスティアの手を握り直した。
◇
先へ出した兵が木々の間へ消え、やがて列も動き始めた。
敵はいる。
食料は少ない。
目指す場所が無事なのか、迎え入れてもらえるのかも分からない。
それでも、レンの前には、道を知る老人がいた。振り返れば、荷車を支える兵たちがいる。
セレスティアは少女の歩幅に合わせ、ゆっくりと歩いていた。
レンも、その列へ続いた。
どれほど暗い夜にも、朝が来るように。
この道の先にも、皆で休める場所があってほしい。
その小さな望みを抱いて、彼らは北西へ歩き始めた。
――第八話 了




