第6話 王女は、選ばなければならない
荷車が動き出しても、レンはしばらく、その車輪を見ていた。
倒れた騎手から回収した水袋が、荷台の端で揺れている。兵たちは使える武器を集め、乗れる状態の馬も連れてきていた。
「問題は、あいつだな」
隣を歩くガルドが言った。
視線の先には、捕らえた帝国兵がいる。傷を手当てされたあと、馬に乗せられ、兵が手綱を引いていた。別の兵が、その横から目を離さずにいる。
「連れていくなら、あれにも食わせる。見張りも外せん。塔で捕らえた男もおるからな」
レンは頷いた。
馬が増えても、それを扱う手は要る。捕虜を乗せれば、その分だけ負傷者を乗せる場所が減る。
「何も話さなくても、連れていくおつもりですか」
ガルドがセレスティアへ尋ねた。
彼女は捕虜を見た。戦いのあと、男がセレスティアへ向けた視線を、レンも覚えていた。
「連れていきます」
「逃げられれば、こちらのことを知られますぞ」
「はい。見張りは付けたままにしてください」
セレスティアは続けた。
「私たちを追ってきた理由も、ほかの騎兵との関係も分かっていません。まだ、確かめたいことがあります」
ガルドがレンを見る。
「俺も、聞けることは聞きたいです」
「顔に出とった」
「じゃあ、なんで見るんですか」
「口でも確かめた」
レンが言い返す前に、ガルドはセレスティアへ向き直った。
「承知しました。ひとまず、こちらで預かります」
捕虜は前を向いたまま、何も言わなかった。
◇
分岐で北西へ入ると、道はさらに細くなった。
兵が枝を押さえ、その下を荷車が通る。車輪が傾くたびに、荷台の両側へ手が伸びた。
レンも脇へ回った。
「そこ、石があります」
リオに言われ、足元を見る。
「どれ?」
「右足の前です」
「ああ、これ――」
踏み直した靴が滑り、片膝が泥についた。
後ろでガルドが笑う。
「足元を見ろと言われたばかりだろうが」
「見ましたよ。間に合わなかっただけで」
「なら、次はもう少し早く見ろ」
レンは膝を拭った。
掌まで泥まみれになる。
リオが荷車を支えたまま、こちらを見た。
「お怪我は?」
「泥だけです」
「では、こちらをお願いします」
「切り替えが早いな……」
差し出された荷台の縁を掴む。
三人で押すと、車輪が石を越えた。
水音が聞こえたのは、昼を過ぎた頃だった。
「川だ!」
先頭から声が上がった。
木々の間に、水面が見える。
大きな川ではなかった。それでも、底の石を洗いながら流れる水を見た瞬間、レンは無意識に水袋へ手をやった。
ガルドが周囲へ兵を出す。
安全を確かめてから、荷車を寄せ、負傷者を木陰へ移した。水を汲む者と馬を連れていく者が、川辺へ下りていく。
レンも空の水袋を持った。
「レン」
呼ばれて振り向くと、セレスティアが対岸を見ていた。
木々の間に、人がいる。
老人。子供を抱いた女。片脚をかばって立つ男。
三十人はいるだろうか。奥にも、まだ人影があった。
「避難民か」
ガルドが低く言った。
向こうもこちらに気づいた。
子供が母親の後ろへ隠れる。男たちが前へ出たが、武器らしいものは棒と小さな刃物だけだった。
ガルドは兵を二人呼んだ。
「声を掛けてこい。急に近づくなよ」
兵たちは少し下流の浅瀬を渡り、両手を見せて人々へ近づいた。
短い言葉が交わされる。
その時、ひとりの老人が、こちらを見た。
「……王女殿下?」
セレスティアが顔を上げた。
「セレスティア様では、ありませんか」
周りの人々も顔を向ける。
老人が膝をつきかけた。
「そのままで」
セレスティアが声を掛ける。
「そこは足元が悪いです。どうか、立っていてください」
老人は腰を折った姿勢のまま、何度も頷いた。
セレスティアは川沿いを歩き、浅瀬の前で兵の案内を待った。
レンも、そのあとを追った。
◇
避難民たちは、いくつかの村から逃れてきた人々だった。
家族とはぐれた者もいた。近くの町を頼ったものの、途中で帝国兵を見て引き返したという者もいる。
「皆様は、どちらへ行かれるのですか」
老人に聞かれ、セレスティアはすぐには答えなかった。
まだ、安心して向かえる場所など決まっていない。
その沈黙を見て、老人の肩が落ちた。
「……いえ。申し訳ありません」
少し離れたところへ移ると、ガルドが声を落とした。
「連れていけば、さらに遅くなります」
セレスティアは黙って聞いた。
「食料も減ります。歩けん者を乗せる余裕も、今はほとんどありません」
「はい」
「追っ手が十騎で終わるとも限らん。それは、お忘れなきよう」
ガルドはそこで口を閉じた。
セレスティアは人々へ目を戻した。
母親の腕の中で眠る子供。
足に巻いた布を押さえる男。
老人は、近くの少女へ何かを言っていた。少女は頷いたが、こちらを見ようとはしなかった。
「今いる皆を、危険にさらすかもしれません」
セレスティアが言った。
レンは答えられなかった。
助ければいい、と簡単には言えない。食料を分けるのは自分ひとりではないし、進みが遅くなれば、負傷者を抱えた列全体が危うくなる。
「それでも」
セレスティアは顔を上げた。
「国が滅びたからといって、この人たちが私の民でなくなるわけではありません」
声は、今度ははっきりしていた。
「一緒に行けるよう、手配をお願いします」
ガルドは彼女を見た。
それから、静かに頭を下げた。
「承知しました」
すぐにリオを呼び、指示を出す。
歩ける者と、助けが必要な者を分けること。持っている食料や水袋を確かめること。兵だけで手が足りなければ、避難民にも手伝ってもらうこと。
セレスティアも人々のもとへ戻った。
「私たちも、逃れてきたところです」
集まった顔を見渡し、そう伝える。
「安全な場所へお連れできると、今は約束できません。それでも、共に進むことはできます」
老人が顔を覆った。
すぐに返事をする者はいなかった。
やがて、子供を抱いた女が、小さく頭を下げた。
「……ありがとうございます」
その隣でも、誰かが頭を下げた。
レンは手にしていた水袋を見た。
空だった。
まず、これを満たしてこようと思った。
◇
浅瀬を渡るのを兵が手伝い、人々は荷車の近くへ集まった。
濡れた足を拭く布が回される。傷のある者は木陰へ案内され、歩ける者は水汲みを手伝い始めた。
レンは水袋を渡しながら、どこから来たのかを聞いていた。
川沿いの村。街道から外れた集落。
知らない地名ばかりで、聞き取った名を兵に確かめてもらう。
「ほかに、逃げてきた人を見ませんでしたか」
「途中までは、一緒でした。でも、夜のうちにはぐれてしまって」
女は、差し出された水袋を両手で受け取った。
「家族ですか」
「妹と、その子です」
レンは言葉を探した。
見つかります、とも、大丈夫です、とも言えなかった。
「名前を教えてください。ほかの人にも聞いてみます」
女が顔を上げた。
妹の名を口にしかけて、その視線が止まる。
「……あの人」
声が低くなった。
レンは振り返った。
少し離れた木のそばに、帝国兵の捕虜が座らされていた。馬から降ろされ、傷の具合を確かめられている。
「あの人です」
「知ってるんですか」
「見たことが、あります」
レンは女へ向き直った。
「どこで?」
「村の近くです」
「いつ?」
「三日前です」
レンは女の顔を見た。
「その時、一人でしたか」
「いいえ」
「誰か、一緒にいた?」
女は頷いた。
「兵士が」
「一緒にいたのは、帝国兵だけですか」
女はすぐには答えなかった。
捕虜を見つめ、それからゆっくり首を横に振る。
「王国の――」
一度、言葉が途切れた。
「兵士です」
レンは捕虜を見た。
男も、こちらを見ていた。
その視線は、レンを通り越して女へ向いている。
固く閉じていた口が、わずかに開いた。
――第六話 了




