第5話 追う者にも、見えない
分岐へ着く前に、レンはもう一度、水袋を傾けた。
底に残った水が、わずかに揺れた。
「川の先は、まだ分からないんですよね」
「ああ。西へ進めば道は幾分ましになる。北西へ入れば水は取れるが、その先で荷車が通れんかもしれん」
老兵が答えた。
「水を取っている間に、先を調べられますか」
「斥候を出せばな」
レンはセレスティアを見る。
「俺は、まず川へ向かった方がいいと思います」
彼女は荷車へ目を向けた。横たわる負傷者の唇を、兵が濡らした布で拭いている。
「北西へ進みましょう。その先は、道を確かめてから決めます」
「承知しました」
列の先頭へ指示が伝わった。
余分な天幕や予備の鎧は、置いてきた。それでも荷車は、道のくぼみごとに止まりかける。
そのたびに兵が手を添え、また進む。
レンも水袋をしまい、歩き始めた。
◇
後方を警戒していた兵が戻ってきたのは、その直後だった。
「帝国騎兵、十騎を確認しました。旧西道をこちらへ向かっています」
老兵の顔が険しくなる。
「ベルン街道にいた連中か」
「分かりません。ただ、この道を進んでいます」
「俺たちは見られた?」
レンが聞いた。
「まだです。向こうは長いぬかるみで馬を引いていますが、抜ければ追いつかれます」
レンは振り返った。
湿った土には、深い轍と無数の足跡が続いている。道を外れても、隠しきれるものではなかった。
「十騎なら、戦えますか」
「戦える。だが、こちらの人数を見れば引き返すだろうな」
老兵は列を見渡した。
「一騎でも戻れば、今度は仲間を連れてくる」
ベルン街道には三十騎。
北へ分かれた騎兵は、百を超えていたという。
今来ている十騎が、そのどちらと繋がっているのかも分からない。
「こっちから近づいたら、逃げられますよね」
「馬には追いつけん」
レンは道の先を見た。
「だったら、向こうから近づいてもらうのは?」
◇
斥候が教えた場所は、少し先の曲がり角だった。
左右から斜面と木々が迫り、道は細くなっている。曲がった先は、手前からでは見えない。
レンは一度そこを歩き、戻ってきた。
「この先に荷車が止まっていたら、馬も止まりますか」
「横向きならな。人が抜ける隙間を残しても、馬には狭い」
老兵が答える。
「じゃあ、逃げる兵を追ってきて、曲がってから荷車に気づいたら?」
「先頭は止まる。後ろも詰まるだろう」
「そこで、弓を使えませんか」
「位置を見ます」
短く髪を刈った男が進み出た。弓を背負い、立ち姿まで真っ直ぐだった。
男は両側の斜面を調べ、木の間から道を見下ろす。
「十名ずつ置けます。向かいの味方へ矢が抜けないよう、位置はずらします」
「十騎、全部が入るまで待てる?」
「先頭を長く止めれば、後ろに気づかれます」
レンは曲がり角を見た。
「残った騎兵を、追いかけるのは無理か」
「無理に追えば、こちらが散ります」
老兵が口を挟む。
「退路には槍兵を伏せる。だが、十騎とも入るとは限らんぞ」
「その時は?」
「逃げた者がいる前提で、すぐ動く。それしかない」
レンは頷いた。
「囮が危なくなった時も、待たずに撃ってください」
「承知しました。射撃の指示は私が出します」
弓の男が答える。
「全騎が入ったかは、道の入口を見る者から伝えさせます」
「お願いします」
老兵は斥候を呼んだ。
「戻って、敵を見ておれ。馬に乗り始めたら、すぐ知らせろ」
それからレンへ向き直る。
「準備が間に合わん時は、やめる。よいな」
「はい」
◇
セレスティアの了承を得ると、兵たちは一斉に動いた。
本隊を曲がり角の先へ進ませ、後方の荷車一台を残す。
負傷者は兵たちが抱え、先の木陰へ運んだ。荷物もいったん道の外へ移す。戦いが終われば、積み直して使うつもりだった。
「車輪は壊さないでください」
「分かっとる」
兵が浅い溝を選び、片輪を落とす。
荷台が傾き、道を斜めに塞いだ。動かそうとして諦めたように、一本の棒を車輪のそばへ残す。
脇には、人ひとりが通れる隙間ができた。
弓兵が斜面へ上がり、槍兵は曲がり角の手前で木々に隠れた。
グレイグと、塔で捕らえた男は本隊とともに先へ進ませた。武器を預かっている六人にも、見張りを付けている。
「囮は、俺たちが」
三人の兵が進み出た。
老兵は彼らに道を示した。
「姿を見せるのは、あの狭いところを越えてからだ。馬も一気には走れん。近づかれすぎる前に、こっちへ戻れ」
三人は荷車の脇を通り、逃げ込む先まで確かめた。
レンはその背を見ながら言った。
「ここへ戻るより、逃げる方を優先してください。危なければ、道を外れてもいいです」
「承知しました」
兵の一人が頷いた。
やがて、後方から斥候が戻った。
「ぬかるみを抜けます。こちらへ向かっています」
老兵が配置を見回す。
弓の男が、斜面から片手を上げた。
「よし。行け」
三人が道を戻っていった。
レンも木陰へ身を隠す。
自分が考えたことを、あの三人がやる。
その背中が見えなくなるまで、目を離せなかった。
◇
蹄の音が聞こえた。
途切れながら、少しずつ近づいてくる。
やがて、三人の兵が姿を見せた。
道のくぼみを避けながら走っている。
後ろには、騎兵がいた。
狭い道に一列に伸び、木々を抜けた先頭が速度を上げる。
三人との距離が縮まった。
レンは木の幹を掴んだ。
先頭の兵が曲がり角へ入る。続いて二人目。
最後の一人が、肩越しに振り返った。
そのすぐ後ろに、馬の頭が見えた。
兵が曲がる。
荷車の脇へ、身体をねじ込む。
腰の剣が荷台に当たった。
レンの指に力が入る。
兵は剣を押さえ、そのまま向こうへ抜けた。
三人とも、通った。
先頭の騎兵が荷車に気づいた。
手綱を引く。
馬が首を上げ、後ろの騎兵も慌てて速度を落とした。
次の馬が曲がってくる。
さらに、その次。
先頭の男は剣を抜き、荷車の向こうを指した。逃げた三人が、まだ見えているのだろう。
後続が詰まり始めた。
レンは斜面の上を見る。
弓の男は、まだ動かない。
九騎目が入った。
最後の一騎が曲がり角を越える。
入口を見ていた兵の手が上がった。
「放て!」
弦の音が重なった。
先頭の騎手が落ちた。
別の馬が暴れ、後ろの馬へ身体をぶつける。
「敵襲!」
叫び声。
最後尾の騎兵が振り返った。その後ろへ、槍を構えた王国兵が出る。
「二射目!」
レンの見ている前で、男の胸に矢が刺さった。
男は片手を上げた。
何かを掴もうとするように。
それから、馬の背から落ちた。
剣を抜いた者が、馬を降りる。
斜面へ取りつこうとした者を、矢が追った。
レンには、もう何人倒れたのか分からなかった。
ひとりが木の幹を掴む。
脚を射られ、斜面を転がり落ちた。それでも剣を手放さず、這って進もうとする。
「そいつは生かせ!」
老兵の声が響いた。
「弓を止めろ!」
王国兵たちが道へ出た。
倒れた者から武器を遠ざけ、まだ動く者を囲む。
脚を射られた男が剣を振った。
兵が盾で受け、別の兵が横から押さえ込む。その腕を、刃がかすめた。
男はなおも抵抗し、頭を振って兵の顔へぶつけた。駆け寄った仲間が剣を取り上げ、ようやく両腕を押さえる。
レンは息を吐いた。
吸い直そうとして、うまくできなかった。
◇
兵たちが、倒れた騎手を一人ずつ確かめていく。
やがて、弓兵をまとめていた男が戻ってきた。
「十名、確認しました。九名死亡、一名捕縛。こちらの死者はありません。軽傷が二名。囮の三名も無事です」
レンは、ようやく木から手を離した。
道の下では、兵たちが声を掛け合っている。
「生きてるか」
「お前こそ」
「腕、切れてるぞ」
「浅い。先に、そいつを縛れ」
生きている声だった。
誰かが笑った。隣の兵が、その肩を叩く。
老兵は前後に見張りを出し、荷車を起こすよう命じた。
レンは斜面を下りた。
膝に力が入らず、途中で枝を掴んだ。
「レン」
安全を知らせる兵とともに、セレスティアが来ていた。
彼女は足を止め、レンの顔を見る。
「……大丈夫ですか」
「分かりません」
正直に答えた。
道の端では、囮だった兵が水を飲んでいた。仲間に何か言われ、むせながら笑っている。
「味方が、誰も死ななくて」
一度、言葉が止まった。
「よかったです」
「はい」
セレスティアは、それだけ答えた。
レンは道へ目を戻した。
胸に矢を受けた男が、横たわっている。
さっき上げた手は、もう動かなかった。
◇
「荷車は使える」
老兵が来た。
「お前も水を飲んでおけ。すぐ出るぞ」
レンは頷いた。
「囮の人たちにも、お礼を言わないと」
「言ってやれ」
「弓の人にも。場所を教えてくれた人にも」
「全員に言って回る気か」
「俺だけじゃ、何もできなかったですから」
「そりゃそうだ」
あっさり言われ、顔を上げた。
老兵は腕を組む。
「弓を射れん奴が、弓を取ってどうする。できる者に任せた。それでよい」
「でも、危ないところは人にやらせた」
「ああ。それは忘れるな」
老兵は否定しなかった。
レンが黙っていると、その前へ右手が差し出された。
「ガルドだ」
「え?」
「ガルド・ベルナー」
レンは、手と顔を交互に見た。
「……今さら?」
「聞かんかったろうが」
「そっちも、名乗らなかったじゃないですか」
「今、名乗った」
ひどい理屈だった。
それでも、レンはその手を握った。
硬く、厚い手だった。
「久城蓮です」
「知っとる」
「……そうだった」
「リオ・フェルンです」
横から声がした。
弓兵をまとめていた男だった。
「王国軍の弓兵です」
「さっきは、ありがとうございました」
「役目ですので」
リオは短く答え、荷車へ目を向けた。
「敵がすぐに引き返していれば、全騎は止められませんでした」
「うん」
レンも、道を見る。
「次も同じようにいくとは、思わないようにする」
リオが頷いた。
「それと、今後は名前でお呼びください」
「え?」
「弓を持った者なら、ほかにもおります」
ガルドが鼻で笑った。
「確かにな」
「……分かりました。リオさん」
「はい」
その口元が、少しだけ緩んだ。
◇
捕らえた帝国兵は、木の根元に座らされていた。
脚には布が巻かれ、両手を縛られている。脇には見張りが二人付いていた。
レンはガルドとセレスティアとともに、男の前へ立った。
「ベルン街道にいた三十騎は、仲間ですか」
答えはなかった。
「俺たちを追ってきたのは、命令?」
男は目も上げない。
レンは少し待った。
「何を探してたんですか」
唇は固く閉じられたままだった。
「今は話す気がないようだな」
ガルドが言う。
レンは男の脚を見た。巻いた布に、血が滲んでいた。
「……行こう」
離れようとした時、男の視線が動いた。
レンではない。
ガルドでもなかった。
セレスティアを見ていた。
ほんの一瞬。すぐに、目が伏せられる。
レンは何も言わずに歩き、数歩離れたところでガルドを見た。
「今の、見ました?」
「ああ」
「殿下を見た」
「見たな」
セレスティアが二人へ顔を向ける。
「私を?」
レンは頷いた。
「顔を知ってたんでしょうか」
「知っとる帝国兵がいても、おかしくはない。だが、それだけでは何とも言えん」
「……ですよね」
レンは胸元へ手をやった。
服の下に、金属の筒がある。
その中には、王女を保護せよと記された命令書が入っていた。
塔の男たちと、この帝国兵。
同じ理由でセレスティアを見ているのか。それとも、別なのか。
まだ、繋げるには足りない。
ただ、あの視線は覚えておこうと思った。
「レン、出るぞ」
ガルドに呼ばれ、顔を上げた。
荷車には負傷者が戻されていた。兵たちが荷を積み直し、車輪のそばへ立つ。
囮になった三人もいる。
レンは彼らへ近づき、頭を下げた。
「ありがとうございました」
三人は少し驚いた顔をした。
それから一人が、レンの肩を叩いた。
「ほら、行きましょう」
列が動き始める。
レンは一度だけ、後ろを見た。
道に残された者たちの姿は、まだ木々の間に見えていた。
足を止めかける。
前から、荷車を押す声がした。
レンは向き直った。
今は、その声に続いて歩いた。
――第五話 了




